富山鹿島町教会

礼拝説教

「真心から神に近づこう」
歴代誌 下 3章8~14節
ヘブライ人への手紙 10章19~25節

小堀 康彦牧師

1.聖書の言葉の力
 2014年度、最初の主の日の礼拝をささげています。今年度の教会聖句は「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙10章22節)です。この御言葉と共に、この御言葉に導かれて、新しい歩みを主の御前にささげてまいりたいと願っています。
 私共が聖書の言葉に触れます時、私共は自らの姿を照らし出されます。その姿は悲しいほどに不誠実で、言っていることと行っていることが分裂している。表と裏があり、それでもキリスト者かと言われても仕方がないような姿です。私共は、その姿に気付かされて悔いるしかありません。しかし、聖書の言葉は、そのように私共の本当の姿を照らし出して、罪を告発するだけではありません。そこから新しく一歩を踏み出させていく、そのような勇気と力をも与えるものです。一つの御言葉が、その二つの働きをして、私共に迫ってきます。どちらか一方ではないのです。不思議です。人間の言葉は、大抵どちらか一つの働きしかしません。どちらか一つでもちゃんと機能すれば、それは大した力ある言葉でしょう。私共は、罪をきちんと指摘することもなかなか出来ませんし、またそこから立ち上がらせる言葉もなく、困り果ててしまうことばかりです。しかし、聖書の言葉は違うのです。神の言葉だからです。言葉というものは、その言葉を語った者によって、全く違って受け取られるものです。言葉は、語った人の人格と申しますか、語った人自身と深く結びついているものだからです。
 例えば、いつも遅刻している人が、たまたま早く来て、その日遅刻してきた人に向かって「遅刻しちゃダメじゃないか。」と言った所で、「何を言っているのだこの人は。自分はどうなんだ。」と思われてお終いでしょう。「遅刻しちゃダメだ」というのは正しいのです。しかし、その言葉は力を持ちません。いくら正しい指摘をした所で、「本当に遅刻しちゃいけない」とは思ってもらえないのです。伝わらないのです。
 しかし、聖書の言葉は違います。天と地を造られ、すべてを支配し、しかも私共を救うために愛する独り子を十字架にお架けになった、全能にして愛に満ちたお方が、その力と愛とをもって私共に語られる言葉だからです。全能の力と全き愛をもって私共に臨んでくださるお方が、私共にこう告げるのです。「信頼しきって、真心から神に近づこう。」

2.信頼しきって
 まず、「信頼しきって」です。この「信頼しきって」という言葉に触れる時、私共の頭にすぐ浮かぶのは、私は本当に信頼しきっているだろうかという思いでしょう。神様を信頼しきっているか。イエス様を信頼しきっているか。そう思うと、「私はイエス様を信頼しきっている。」と言い切れる人はまずいないでしょう。もちろん、信頼していないのかと言われれば、信頼していると言うでしょう。しかし、「信頼しきって」とまで言われると、口籠もらざるを得ない。それが私共でありましょう。しかし、この言葉は、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と続くのですから、あなたは信頼しきって良いのだ、信頼しきろう、そう私共を招き、促しているのです。
 また、この言葉は、「全き信仰をもって」とか、「信仰の全き確信の内に」とか、「信仰の確信に満たされつつ」という風にも訳されております。このような他の訳と比べれば分かりますように、この「信頼しきって」というのは、ただ闇雲に信頼するということではなくて、主イエス・キリストの救いの御業によって与えられた信仰の確信、私は救われているという確信をもってということなのです。この「信仰の確信」とは、私共の中から湧き上がってくる、根拠のない確信といったものとは全く違うのです。この確信にははっきりした根拠があるのです。それは、主イエス・キリストの十字架という根拠です。この主イエスの御業によって救われているという、救いの確信なのです。ですから、この信仰の確信とは、私共の心の中をのぞき込んで、そこに何かを見つけるといった確信ではないのです。そうではなくて、ただ主イエス・キリストの十字架を見上げる中で、「ああ、私はこの方によって、この方の尊い血によって、一切の罪を赦していただいた。」このことを確信している自分が居ることを発見するのではないでしょうか。この信仰の確信とは、このように主イエスの十字架の前に立つ中で、新しく私共の中に与えられるものなのでありましょう。「信頼しきって」という言葉に触れると、私共はすぐに自らの心の中を探り、信頼しきっていない自分を発見します。しかし、次の瞬間、私共のまなざしは自分の心の中から主イエス・キリスト、しかも十字架にお架かりになった主イエス・キリストに向けられます。その時、「信頼しきる」ことが出来る私がいることに気付くのです。

3.聖所に入る
 19~20節を見てみましょう。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」とあります。「イエスの血によって」とは、主イエスの十字架の血によってということです。ここで「聖所」と言われているのは、エルサレム神殿の一番奥にあった「至聖所」と呼ばれる所がイメージされていると考えて良いでしょう。そこは、大祭司が年に一度だけ入ることが許される所でした。なぜなら、そこは神様が御臨在される所であって、人間がそこに入れば死ぬしかない。神様の聖性に打たれて死ぬしかないからでした。罪人である人間は、聖なる神様と直接交わることは出来ません。ちょうど、太陽を直接見ればわたしたちの目がつぶれてしまうのと同じです。あるいは、太陽に近づけばその熱ですべてが溶けてしまうのと同じです。罪人である私共は、決して聖なる神様と交わることは出来ない。そのことを示していたのが、この至聖所の前にあった垂れ幕でした。分厚い垂れ幕によって、至聖所は人間の世界と隔てられていたのです。しかし、主イエス・キリストが十字架にお架かりになった時、何が起きたでしょうか。マルコによる福音書15章37~38節に「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記されております。神様と人間とを隔てていた聖所の垂れ幕が取り除かれたのです。インマヌエル、「神、我らと共にいます」という事態が起きたのです。罪人である私共が、天と地を造られたただ独りの聖なる神様に向かって、「アバ、父よ。」と呼ぶことが出来るようになった。人間が神様と直接交わることが出来ないように隔てられていたのに、神様との親しい交わりの中に生きることが出来るようになったのです。それが20節で「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」と言われていることなのです。

4.新しい生きた道
 主イエス・キリストの十字架によって、私共に「新しい道」が開かれました。それは、父なる神様との親しい交わりに生きる道です。その交わりが最もはっきり与えられているのが、この主の日の礼拝なのです。そして、この「新しい道」は「生きた道」であると告げられています。「道」が生きているというのは、いささか分かりにくいかもしれません。この「生きた道」とは、それが父なる神様との生き生きとした躍動する交わりであり、日々の生活の中で息づいていく交わりであることを示しているのです。この交わりは、主の日の礼拝だけで終わってしまうような交わりではないのです。私共が食事をしている時も、友人と語り合っている時も、体のあちこちが病んで病院のベッドで寝ている時も、そして、たとえこの地上の命が閉じられたとしても、私共から決して奪われることのない交わりなのです。
 この交わりに生き切る、それが「真心から神に近づく」ということなのです。私共には様々な課題があります。あれはどうなるだろう、これはどうすればいいだろう。自分の健康のこと、子どものこと、生活のこと。次から次へと悩みは尽きない。しかし、私のために主は十字架にお架かりになってくださった。私は神の子とされ、神様に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことが許されている。イエス様は私と共にいてくださり、執りなしてくださり、全き救いの道を開き続けてくださっています。使徒パウロは、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章38~39節)と言っています。私共が、主イエス・キリスト御自身とその十字架の御業を信頼し、二心なく神様に近づき、神様との交わりに生きるならば、私共には必ず、命と喜びと平安に満ちた祝福が備えられるのです。私共はそのことを信じて良いのです。何故なら、それを約束してくださるのは、この上なく真実なお方、神様御自身だからです。神様が私共に命を与えてくださり、神様が私共に主イエス・キリストを与えてくださり、神様が私共に信仰を与えてくださいました。その神様が約束してくださっているのですから、安心して信頼すれば良いのです。必ず道は開かれます。
 私は、洗礼を受けてからも随分長い間、信仰生活というものは毎週礼拝を守り、毎日聖書を読み、お祈りし、献金し、いろいろな奉仕をすることだと思っておりました。もちろん、それらは大切なのです。そのような具体的な生活を抜きにして、私共の信仰生活などあり得ないというのも本当のことです。形から入るというのも大事なことだとも思っております。しかし、それらのキリスト者としての具体的な生活は、その根本に、神様・イエス様との親しい交わりというものがあればこそなのです。その逆も言えるでしょう。そのようなキリスト者としての具体的な生活は、神様・イエス様との親しい交わりに生きるためなのです。「信頼しきって、真心から神に近づく」そのために礼拝はあり、聖書を読み祈るという生活があるのです。
 「信頼しきって」という言葉から、母親の腕に抱かれた幼子の姿をイメージすることも許されるでしょう。幼子は何も出来ないのです。でも、母親の腕の中にいれば安心です。私共も、何も出来ない弱い者です。しかし、父なる神様は、主イエス・キリストの尊い血潮をもって私共の罪を赦してくださり、私共に信仰を与え、新しい道を開いてくださいました。全能の父なる神様の御腕の中に、私共は抱き取られているのです。羊飼いが羊を懐に抱くように、私共は、まことの羊飼いであるイエス様の懐に抱かれているのです。だから、何も心配することはないのです。信頼しきって、真心から神様に近づけば良いのです。

5.励まし合う交わり
 この信仰の歩みは、独りで為されるものではありません。24~25節「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」とあります。信頼しきって、真心から神に近づく歩みは、礼拝を共にささげ、互いに励まし合う交わりを形作ることになるのです。神様との愛の交わりに生きる者は、人との愛の交わりも形作っていくことになるのです。そこに教会は建っていきます。
 私共の日々の信仰の歩みと教会形成とは、決して分裂しないのです。私共は洗礼を受けてキリスト者となりました。それは、主イエス・キリストと結び合わされることであり、キリストの体である教会に加えられたということであります。キリスト者とは、この群れの中で、群れと共に生きるのです。主イエスはまことの羊飼いと言われますが、羊は一匹ではおりません。必ず群れと一緒にいる。一匹だけでいる羊は、迷子の羊です。迷子の羊を主イエスは探し出し、群れの中へと連れ戻すのです。その群れの良い羊飼いとして、主イエスはおられるのです。ですから、私共の信仰の歩みは、いつもこの群れと共にあるのです。
 現代人は自分に与えられた信仰を、自分だけの心の問題だと思っている所がありますが、それは全く聖書的ではありません。聖書の信仰は、私と神様、私と隣り人との関係なのであって、私と神様だけではないのです。そのことをはっきり示しているのが、この主の日の礼拝において与る聖餐なのです。互いに、ただ一つのキリストの体、キリストの血に与るのです。古くから聖餐において、パンは一つのパンを分け、ぶどう酒は一つの杯から飲んでいたのは、そのことを示すためです。共に一つのキリストの命に与る者たちの群れ。それが教会です。
 教会というものはなかなか難しいものです。礼拝は良いけれど、その後の人間同士の交わりは面倒だと言う人が時々おります。その方がそのように言われるのにはきっと理由があるのだと思います。多分、以前に教会で嫌な思いをされたのでしょう。教会は罪人の集まりですから、ややこしい人間関係になってしまうことも、ないとは言えません。しかし、この交わりが何のためにあるのかを、よく弁えなければなりません。それは、ここの言葉で言えば、「励まし合う」ためなのです。では、どうして私共は互いに励まし合う教会という交わりが必要なのでしょうか。それは、私共は信仰の歩みにおいて励まされることが必要な者だからなのです。何故なら、私共は怠惰だからです。宗教改革者カルヴァンが最も注意した罪、それは怠惰でした。彼ほど精力的に働き続けた人はいないと思うようなカルヴァンが、最も警戒した罪が怠惰というものだったのです。これは、彼が人間の罪というものを良く知っていたからでしょう。私共は、皆、怠惰なのです。神様を愛し、祈り、従うことにおいて全く怠惰なのです。それが罪人であるということです。それが私共なのです。だから、互いに励まし合っていかなければならないのです。私が牧師としていつも自分を戒めているのも、このことです。怠惰な牧師、怠け者の牧師にはなるまいということです。
 ここで「集会」と言われているのは、第一には礼拝ですけれど、それだけではないのです。初代の教会も、礼拝だけしていたのではありません。共に集まって、御言葉に与り、祈りを合わせる集会を、主の日以外にもしていました。その集会に出て、互いに神の国に向かっての歩みを励まし合ったのです。信仰と愛と善き業とに励むように、励まし合ったのです。この交わりが麗しいものにならなければ、キリストの愛が証しされていくことはないでしょう。この集会において、信頼しきって真心から神様に近づいて、神様との新しい生き生きとした交わりが私共に与えられるのです。そして集会において、私共に与えられている希望が何であるかが明らかにされ、それを保持していく力を与えられるのです。私共にはその希望に向かって歩んでいくように、互いに励まし合うために、教会の交わりが与えられているのです。この交わりの中で、私共の視線は、はっきりと主イエスの十字架に向けられます。天の御国に向けられ続けるのです。
 新しい2014年度の歩みがそのようなものとなるよう、祈りを合わせましょう。

[2014年4月6日]

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