富山鹿島町教会

礼拝説教

「種蒔く人」
詩編 126編5~6節
マルコによる福音書 4章1~20節

小堀 康彦牧師

1.分かるけど分からない話
 今朝与えられております御言葉は、イエス様がお語りになった「種蒔く人のたとえ」です。一度聞いたら忘れられない、とても印象的な話です。教会学校の子どもたちも知っている有名なたとえです。こういう話です。「種を蒔く人が、種を蒔いた。ある種は道端に落ち、その種は鳥に食べられてしまった。ある種は石ころだらけの所に落ち、すぐに芽を出したけれど根がないため枯れてしまった。ある種は茨の中に落ち、茨に覆われて実を結ばなかった。そして、ある種は良い土地に落ちて、芽が出て、育って、30倍、60倍、100倍の実を結んだ。」というものです。
 このたとえ話は大変印象深いのですけれど、何を語っているのか、これだけを聞いたのでは良く分からないのではないかと思います。この話そのものは、当時のパレスチナ地方における種蒔きという農業の一場面を語っているに過ぎません。その様子は、私共が考える種蒔きの様子とは随分違います。私共が種を蒔く場合、畑を耕して、畝を作り、一粒一粒丁寧に蒔きます。しかし、イエス様の時代の種蒔きは、おおらかと言いますか、おおざっぱと言いますか、種を片手に握っては、文字通りばら蒔いていくのです。それから畑を耕して土をかけるのです。ですから、種が畑の外に飛んでしまうこともありました。道端、石地、茨の生えた中に落ちてしまうこともあったでしょう。当時の人は、種蒔きの農作業を思い起こしながらこの話を聞いていたに違いありません。そんなこともあると思いながら、一度聞いたら決して忘れなかったと思います。しかし、このたとえ話が何を語ったものなのか、それは決して分かりやすくなかったと思います。教会に長く来ておられる方は、この話を聞けば、すぐに「ああ、あの話ね。」といった具合に、このたとえ話が何を意味しているのか分かるでしょう。しかし、教会に来られて間もない方は、このたとえ話を聞いて、昔の種蒔きの作業の一場面を語っていることは分かっても、何を意味しているのか、イエス様はこれで何を語ろうとされたのか、そのことがすぐに分かるという人はまずいないのではないかと思います。普通、たとえ話は、伝えようとすることに具体的イメージを持たせて、分かりやすくするために語られるものです。しかし、イエス様の語られた「たとえ」は、必ずしも分かりやすくするためとは思えないものが多いのです。この種蒔きの話もそうです。確かに具体的イメージを持った印象的な話ですけれど、何を語られたのかは良く分からない。隠されている。実は、この隠されているということが大切なのです。
 そもそも、イエス様のたとえ話とは何を語っているのかと申しますと、2節を見ますと、「イエスはたとえでいろいろと教えられ」たとあります。イエス様はたとえを用いて、いろいろと教えられた。いろいろとは何か。それは、この福音書の最初からずっと告げていること、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」このことを、いろいろなたとえで語られたということなのです。イエス様はいろいろなたとえを語られたけれど、それらはすべて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」ということを、いろいろなイメージを用いて語られたということなのです。何だ、それだけなのかと思われるかもしれません。確かにそれだけなのです。しかし、このことが分かればすべてが分かる。そして、すべてが変わるのです。そういうものです。これが分かれば、私共がここでこうして生きている意味も、今何をしなければいけないかも、自分はどこから来てどこに行くのかも、すべてが分かる。そして、すべてが変わるのです。しかしそのことは、1+1=2ということが分かるようには分かりません。神の国は近づいた。しかし、その神の国は隠されています。誰が見てもすぐにここに来ていると分かるいう風には顕わにされてはいません。しかし、来ている。主イエスと共に既に来ている。ここに来ている。この隠されている神の国に目が開かれるためには、腑に落ちるといいますか、本当にそうだと納得する、そういうことが起きなければなりません。そのためには、イエス様の言葉が私共の中にとどまり続ける必要があるのです。だからイエス様は、一度聞いたら忘れることが出来ないような印象的なたとえ話を、しかしすぐに何を言っているのか分からないたとえ話をされたのでしょう。

2.このたとえの意味
 しかし幸いなことに、このたとえ話には13節以下に、イエス様が弟子たちにされた、たとえの説明が記されています。たとえ話を理解する上で決定的に重要なのは、そのたとえの中に出て来るものが何を指しているかということを知ることです。このたとえ話の場合、この蒔かれた種とは何か、道端とは、石ころだらけの所とは、茨の地とは、良い土地とは何かということです。
 14節に、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」とあります。イエス様がこのたとえで語られた「種」とは、神の言葉、御言葉です。そして、道端、石ころだらけの所、茨の地、良い土地とは、その御言葉を聞いた人のことです。
 道端にたとえられている人は、御言葉を聞いても、すぐにサタンに御言葉を奪われてしまう。それは、聞いてもすぐに忘れてしまう。聞いたことさえ忘れてしまう。そういう人のことです。
 石ころだらけの所にたとえられている人は、御言葉を聞くと喜んで受け入れるけれども、艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人です。
 茨の地にたとえられている人は、御言葉を聞きますが、この世の思い煩いや富の誘惑、いろいろな欲望によって、御言葉が実らない人のことです。
 そして、良い土地とは、御言葉を受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人のことだと言うのです。
 私は、このたとえ話を今までたくさんの教会員、求道者の方と読んできましたが、この話の中で、自分はどれに当たると思いますかと聞いて、良い土地ですと答えた人は一人しかいません。一人だけいたのですが、その人の名前は伏せておきましょう。その他の100人を超える人たちはほとんど、石ころだらけの所あるいは茨の地と答えます。道端という人もあまりいないのです。牧師と聖書を読もうして来ている人たちですから、自分は道端ではないとは思うようです。
 確かに、「自分は良い土地です。」そうはなかなか言えないですね。信仰の故に苦しい目に遭ったり、まして迫害なんかに遭ったとしても信仰を守り切る自信なんて、誰にもあるというものではありません。そうすると、石ころだらけの所かなと思う。あるいは、いろいろな思い煩いがあって、信仰の生活に徹底出来ない自分がいる。富の誘惑だって大きい。そう考えると、自分は茨の地かなと思う。それが普通なのだと思います。

3.皆、良い地になる
 しかし、このたとえを読んで、自分は石ころだらけの所だ、あの人は茨の地だ、そんな風に思うだけでは、このたとえ話を話されたイエス様の意図を充分に受け止めているとは言えないのだと思います。この道端、石地、茨の地、良い地というのは、自分はこれだ、あの人はそれだという風に決まっているものではないのです。これは、私共の性格とか、真面目さとか、熱心さといったものを指しているのではないからです。こう言っても良いでしょう。私共は皆、元々は道端だったのです。この中で、イエス様の言葉を、本でも良いですし、人からでも良いですし、とにかく初めて聞いた時以来、すぐに教会に来て求道し始め、洗礼を受け、今に至るまで信仰がぶれていないという人がいるでしょうか。そんな人は一人もいないでしょう。教会に集うようになる前に、何度もイエス様の言葉に触れたことがあったはずです。しかし、教会に集うには至らなかった。例えば、この教会で結婚式や葬式をしますといつも、教会に来たことがない人が大勢やって来ます。その人たちは皆、御言葉を聞くのです。しかし、そこから教会に集うようになる人は、ほとんどいません。私共もまた、そのような人の一人だったのではないでしょうか。その意味で、道端、石地、茨の地、良い地というのは変わるのです。そして、私共は良い地になりたいと願っているのではないでしょうか。自分は石地で良い、茨の地で良い、それは仕方がない。そんな風には思っていないでしょう。だったら、皆、良い地になれるのです。どうしてか。神様が、イエス様が、そうしたいと思っておられるからです。
 どうして、そう言えるのか。それは、この種を蒔いているお方はイエス様だからです。イエス様は、どうせこの地は道端だから、鳥が来て食べてしまうから蒔くのはやめよう、そうはなさらないのです。この種を蒔くお方は、種だけを蒔くのではないでしょう。種を蒔くだけの農夫などいません。土を耕し、水をやり、肥料をやり、なんだかんだと手を加え、蒔いた種が芽を出し、成長し、実を付けるようになるまで育てるものです。
 イエス様は私共に種を蒔いてくださった。道端のような私共の心に御言葉を与え、神の国が来ていることを、神様の御支配の中に私共が既に生かされていることを知らせようとしてくださった。そして、主の日のたびごとに、種を蒔き続けてくださっている。種を蒔くだけではなくて、様々な人との出会い、また様々な出来事を通して、導き続けてくださっているわけです。何とかして、私共の中に御言葉が芽を出し、根を張り、大きく成長するようにと育んでくださっている。私共が、道端から良い地へ、石地から良い地へ、茨の地から良い地へ変わるようにと、働き続けてくださっているのです。だから、私共は良い地になることが求められているし、私共も良い地になることを求めていますし、必ず良い地になることが出来るのです。私共はそのことを信じて良いのです。どうせ自分は石地だ、茨の地だと諦めてはならないのです。それは、自分に対してだけではありません。あの人もこの人も、自分の愛するあの人も、道端のままであるはずがないのです。そのことを信じて良いのです。神の国が来ているということを信じるとは、この神様の御業、神様の御支配を信じるということなのです。

4.神の言葉の実り
 では、この良い地に蒔かれた神の言葉が30倍、60倍、100倍の実りを付けるとはどういうことなのでしょうか。ここでも様々な実りを考えることが出来ると思います。
 すぐに考えつくのは、教えられた一つの言葉が30倍、60倍、100倍と増えるのですから、私共の具体的な生活の中で、その時々に御言葉がよみがえってきて、御言葉の導きの中で生きるようになるということでしょう。御言葉が様々なバリエーションをもって、具体的な生活の場で私共を生かす力となり、希望となり、指針となる。御言葉と共に歩むキリスト者となるということでありましょう。御言葉が生活の隅々にまで行き渡る、そのようなキリスト者となるということです。与えられた神の言葉によって私共が変えられていき、まことに神様の愛、神様の恵み、神様の救いを証しする者とされていくということです。キリストに似た者に変えられていくということです。
 第二に思いますことは、この御言葉と、イエス様がヨハネによる福音書12章24節で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われた御言葉とを重ね合わせますと、この種は神の言葉でありますが、それは神の言葉そのものであられるイエス・キリスト御自身であると読むことも出来るでしょう。イエス様が御言葉と共に私共の中に宿り、十字架と復活の御業によって拓いてくださった罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命という救いに至らせてくださる。全き救いの実りを結んでくださる。そう読むことが出来るでしょう。
 第三には、キリストの救いに与る者が30倍、60倍、100倍に増し加えられるという風にも読むことも出来るだろうと思います。御言葉を受けた良い地の人は、自分の救いだけを求め続けることはしないのです。必ず、自分の周りの人々に御言葉を与えていく者へと変えられていきます。そして、その実りは30倍、60倍、100倍となるというのですから、この伝道の業は祝福され、キリスト者が大変な勢いで増し加えられていく。そのことを約束してくださっている。これは主が与えてくださった約束です。私共は、この主の約束を信じて良いのです。

5.涙と共に種蒔く人は…
 先程、旧約の詩編126編5~6節をお読みいたしました。この御言葉は私が神学生だった時、夏期伝道実習中に、当時の学長であられた松永希久夫先生からいただいた葉書に記されていた聖句です。初めて伝道の現場に出て、毎週説教するという40日間の実習は、私にとって忘れることの出来ない思い出でありますが、この「涙と共に種蒔く人」という言葉がとても心に残りました。
 その後、卒業して、伝道者として遣わされて行き、種を蒔いても蒔いても、芽さえ出て来ない。「道端ばっかりじゃないか。」そんなつぶやきが心に湧いてきて、徒労感といったものに襲われた時がありました。そんな時、この詩編の言葉が思い起こされました。聖書を開いてみると、聖書は「涙と共に種蒔く人」では終わっていないのです。「喜びの歌と共に刈り入れる。」と続くのです。6節「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は」の後に「束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」と続いているのです。私は、この聖書の言葉をちゃんと聞いていなかったのです。そして、この神様の約束を信じていなかった自分を本当に恥ずかしく思いました。こんなにやっているのにちっとも成果が出ない。そんなことばかり思っていた自分を本当に恥ずかしく思いました。そして、イエス様の歩みを思い起こしました。イエス様の伝道の姿は、本当に涙と共に種蒔く人の姿ではなかったか。誰もイエス様のことを理解せず、語っても語っても言葉は通じない。しかし、イエス様は御言葉を語り続けられた。それは、喜びの歌と共に刈り入れる時が来ることを知っておられたからです。
 私共はその主イエスの弟子なのです。ですから、種を蒔き続けましょう。そして、その告げる言葉が愛する者の心に届くように、私共自身を良い地としていただきましょう。語る言葉を裏切らない者とされていきましょう。30倍、60倍、100倍の豊かな実りを与えてくださるというイエス様の約束を信じて歩んでまいりましょう。

[2014年3月23日]

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