富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの母、主イエスの兄弟」
イザヤ書 49章14~16節
マルコによる福音書 3章31~35節

小堀 康彦牧師

1.神様の恵みとしての家族
 今朝は、家族というものについて聖書から聞いていきたいと思います。
 家族は、神様が私共に与えてくださった、目に見える恵みの一つであります。この家族の中で私共は命を受け、育まれ、成長します。誰も、自分で親は選べません。これは逆も言えるわけで、親も子を選べないのです。親子というものは、神様が与えたくださった大切な関係です。ですから、十戒の第五の戒において、「あなたの父と母を敬え。」とあるのでしょう。「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」の前に、「父と母を敬え」があるのです。人間が神様の御前に正しく生きるその根本に、「父と母を敬え」ということがある。これは本当に大切なことです。父と母は、子に敬われるべき者として、子を養うわけです。自分の犠牲もいとわず、我が子をまことに我が宝として、これに愛情を注ぎ、育みます。そして、子は父と母を敬う。この関係がしっかり出来ませんと、何とも不安定な人間になってしまう。そういうことがあるのだと思います。しかし、この子育てというものはなかなか難しいものです。皆が一生懸命に子育てをしているわけですが、百点満点の子育てなんてものはありません。ああすれば良かったか、こうした方が良かったのではないかといった思いは、皆が持っているものなのだろうと思います。しかも子育てというものは、やり直しが利きませんから、本当に厳しいものがあります。20歳になった子を2歳に戻してやり直すということは出来ないわけです。
 聖書の中でも、神の民イスラエルの祖であるヤコブにしても、イスラエルの最も偉大な王ダビデにしても、子育てが上手くいったとはとても思えません。ヤコブの家族もダビデの家族も、理想的な家族とはおよそ言い難いものです。ヤコブが12人の息子の内、年寄り子であったヨセフを溺愛したために、10人の兄たちは遂にヨセフを売り飛ばすということをしてしまいました。また、ダビデの息子は、兄弟同士で争いますし、父ダビデに謀反を起こします。私共が幸いな生涯を送る上で、この家族というものは本当に大切なものです。この家族に問題を抱えていれば、私共は幸せにはなかなかなれません。そして聖書は、この家族の中にある嘆きというものに目をつぶらないのです。何故なら、私共が実際に抱えている問題をしっかり見据え、そのような問題を抱えて生きている私共に救いへの道を示し、救いへと導くのが聖書だからです。

2.親子と夫婦
 この家族というものを考える時、親子というものと、もう一つ大切なものとして夫婦というものがあります。創世記の2章で男と女が造られますが、そこで「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2章24節)と言われております。最初に造られた男と女が結ばれて夫婦となったのです。ですから、聖書は親子の前に夫婦があることを告げているのです。このことは、聖書が語る家族というものを考える場合、とても大切です。日本の文化では、家族の基本に親子を考えるということがあるのではないかと思います。親子の関係は血のつながりですから、日本では家族を血のつながりで考えるという所があるかと思います。この血ということで家族を考えますと、嫁の位置は無いのですね。嫁は何処までも家族になれない。ですから、嫁と姑の戦いが起きる。私はそう思っています。しかし、「父母を離れ、二人は一体となる」のですから、息子も娘も、父と母を離れて、血によらない夫婦という関係を持つことによって新しい家族を作る、と聖書は言っているわけです。つまり、家族の基本には夫婦があるのです。この夫婦の関係を基礎として、親子の関係が生まれるわけです。ここで「父母を離れ」ということが大切です。これは、親子の縁を切って、ということではないことは当たり前です。親子はいつまでも親子なのです。しかし、親は子離れしなければいけないし、子は親離れしなければいけない。子が自立していくことを妨げる親子関係は極めて問題なのです。夫婦の関係は、血によるつながりではありません。一人の男と一人の女が、神様の選びの中で、神様の御前において一つになる。神様の御前における契約の関係です。契約が血に優先すると言っても良いかと思います。親子はその初めから親子ですから、これは「家族である」と言える関係です。それに対して、夫婦は、「家族になる」という関係だと言えると思います。
 家族には、この「家族である」という面と、「家族になる」という面があるということなのです。そして聖書は、「家族である」ことより、「家族になる」ことを重要なこととして示しているということなのです。こう言っても良い。私共が、「家族である」という所にだけ目を向けていますと甘えやエゴイズムが大きくなってしまうけれど、そこに「家族になる」ということが優先されていく時、甘えやエゴイズムを乗り越えた麗しい愛の交わりが形作られることになるのです。
 こんな例を考えると分かりやすいかもしれません。父が病気で倒れたとします。お母さんが看護をします。これは麗しいことです。しかしそれが続きますと、お母さんも倒れてしまいます。そこで、子どもたちがお母さんを助けることになります。問題はここからです。子どもの誰が看るのか。長男だろうと言う人がいる。いや、長女だと言う人がいる。なかなか決まらない。「家族である」という所だけで行きますと、重荷を押しつけ合うということになりかねないのです。しかしそこに、「家族になる」という面がきちんと受け止められておりますと、長男だ、長女だということから離れて、出来る者が、出来るように、出来るだけやろうという思いが生まれて来るのではないかということなのです。そして、そこには重荷を担ってくれる人に対しての、感謝とねぎらいの言葉が生まれるはずなのです。それが愛です。あんたは長男だから看るのは当然だ、というような考えは、「家族である」という所にあぐらをかいて、甘えとエゴイズムに毒されてしまったものでしかないでしょう。私共は家族を持っていますが、それはいつでも家族になり続けていく、そういう営みの中にあるものなのだと思うのです。

3.主イエスの家族
 さて、イエス様の母と兄弟がイエス様の所にやって来ました。何のためかと言いますと、21節に「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」とありましたように、イエス様を捕らえて、家に連れ戻すためであったと思います。ここでイエス様の兄弟とありますが、6章3節に、イエス様が故郷のナザレに帰った時に、人々が「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言ったことが記されております。イエス様は処女マリアから生まれたのですから、マリアの長男です。ヤコブ、多分これがガラテヤの信徒への手紙1章19節などに出てくる「主の兄弟ヤコブ」だと思います。彼は、初代教会において中心的に働いた人の一人です。ですからイエス様には、このヤコブと、ヨセ、ユダ、シモンという4人の弟がいたということが分かります。また、父ヨセフは出て来ませんので、早くに亡くなったのではないかと考えられています。父ヨセフが大工だったので、長男であるイエス様は父に代わって大工として一家を支える働きをしていたのでしょう。そのイエス様が突然、神様の言葉を語り出し、癒やしの奇跡をし始めたものですから、家族は驚き、戸惑ったに違いありません。世間では「気が変になっている」と言う人までいたものですから、家族がイエス様を家に連れ戻そうとしたのも、もっともなことだと思います。ここで、イエス様の家族は、まさに「イエスは自分の家族である」という所に立っていました。
 イエス様はこの時きっと、大勢の人を前にして神の国の説教をされていたのでしょう。イエス様の家族は、イエス様を呼びに人をやります。その人がイエス様に言ったのでしょう。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」すると、33~35節、「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」このイエス様の言葉をどう聞くでしょうか。私が前任地で幼稚園のお母さんたちと聖書を読んでおりました時、この場面のイエス様の言葉は大変評判が悪かった。「イエス様はお母さんに、家族に、冷たい。」と言うのです。せっかくイエス様を心配して来ているお母さんのマリアや兄弟姉妹に対して、何ということを言うのか、というわけです。皆さんはどう思われるでしょうか。幼稚園のお母さんたちは、33節の「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」しか聞かないのです。しかし、イエス様がここで言おうとされているのは、明らかに後半の方、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」という所なのです。

4.主イエスの言葉を聞く場所
 イエス様の言葉は、自分がどこに身を置いて聞くかによって、全く違って聞こえてきます。正反対に聞こえてくるということさえ起きます。ですから、どこに身を置いて聞くのかということがとても大切なのです。この主イエスの言葉は、そのように自分が身を置く場所によって正反対に聞こえてしまう代表的な言葉の一つです。
 主イエスのこの言葉を「冷たい」と受け止めた幼稚園のお母さんたちは明らかに、イエス様を自分の家に連れ戻そうとした主イエスの家族の所に身を置いて、この主イエスの言葉を聞いたのでしょう。この時、イエス様の家族はどこにいたかと申しますと、「外」にいたのです。イエス様を中心として集まっている人々の外に立っていた。しかし、この時イエス様は、この言葉を外に立っている人に向かって語っているのではないのです。自分の話を聞きに来ている人に向かって語っているのです。ですから、このイエス様の言葉をちゃんと聞くためには、外にいてはダメなのです。この言葉を自分に語られている言葉として、イエス様の周りに集まった大勢の人々の所に身を置いて聞かなければ、このイエス様の言葉をちゃんと聞くことは出来ないのです。ここで、イエス様の周りにいた人たちは、このイエス様の言葉をどう聞いたでしょうか。きっと、「イエス様が私の家族になってくださるのだ。私はイエス様と親子になる、兄弟姉妹になるのだ。何とありがたいことか。」そう聞いたのではないでしょうか。それが正しい聞き方です。私共もそう聞くのです。
 こう言っても良いでしょう。イエス様はここで、血のつながりをもとに「家族である」という所に立っている御自身の家族に対して、血を超えた交わりとして、イエス様への信仰に基づく新しい「家族になる」というあり方をお示しになった。私共は、イエス様とは血においては家族ではありませんし、私共同士も家族ではない。しかし、イエス様によって新しい「家族になる」道が備えられたのです。エフェソの信徒への手紙2章19節では、キリストの教会を「神の家族」と呼んでいます。神様によって新しく家族とされた者の交わり。それが教会なのです。それは、イエス様御自身がここで、自分のもとに来た人々に向かって、「わたしの母、わたしの兄弟」と言ってくださったからです。週報には、教会員のことを、○○姉、○○兄と書きます。それは、教会が神の家族だからです。信仰によって、家族とされた者たちだからです。
 イエス様はここで、「家族である」という所から「家族になる」という道を備えられたことを示されたのです。ここに、私共が各々抱えております家族の様々な問題に対して、それを乗り越えていく一つの方向性が示されていると思います。

5.御心を行う人
 この新しい家族になる道、家族になっていく道は、35節に示されています。35節「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」ここで「御心を行う」とは、何を意味しているのでしょうか。互いに愛し合い、仕え合い、支え合う。それはその通りでありましょう。しかし、そのようにすることが出来たら、イエス様の家族になるのかと言えば、そうではありません。ここで「わたしの母、わたしの兄弟」とイエス様に言われている人々は、イエス様のもとに来た人です。その多くは、自分にあるいは家族に病気を抱えているような人だったと思います。決して理想的な家族となっている人ではなかったでしょう。しかし、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟」と言われたのです。イエス様の所に来る、イエス様を頼り、信頼し、イエス様と共に歩もうとしている人。それが、「神の御心を行う人」なのです。つまり、イエス様と信頼によって結ばれ、イエス様の家族とされる中で、互いに愛し合い、互いに仕え合い、互いに支え合う家族とされていくということなのであります。

6.あなたの子、あなたの母
 ここで誤解がないように申し上げておかなければなりませんのは、イエス様は血としての家族はどうでもいいと言っているのではないということです。最初に申し上げましたように、家族というものは、神様が私共に与えてくださった、目に見える恵みであることは間違いないのです。しかし、この神様の恵みとしての家族というものは、ただ「家族である」というだけでは、罪に引きずられてしまうということなのです。イエス様と共に、イエス様との交わりの中で「家族になっていく」、血によるつながりを超えた信仰の交わりによって新しい家族になっていく、それが必要なのだということなのです。
 イエス様は御自身が十字架にお架かりになった時に、十字架の上から、イエス様の弟子と母マリアを見て、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言われ、また、「見なさい。あなたの母です。」と言われました。そして、弟子はイエス様の母を自分の家に引き取ったと、ヨハネによる福音書19章26~27節に記されています。イエス様は母マリアをどうでも良いなどとは、少しも思っていないのです。そうではなくて、家族が麗しいものとなっていく、家族が神様に与えられた恵みとして本当に麗しいものとなっていくためには、「家族である」という所にだけ立っていてはダメで、家族になっていくその筋道として、信仰があるということなのです。
 家族が本当に麗しいものになっていくかどうかは、私共が本当に幸いになっていくかどうかを決めると言っても良いでしょう。それ程までに、家族というものは、私共の人生において決定的に重大な問題なのです。聖書はこの問題に対して、各々がイエス様につながることによって、互いに愛し合い、仕え合い、支え合うことを学び、本当の家族になっていく道が拓かれるのだと教えているのです。私共は理想的な家族を持っているわけではありません。どの家族にも様々な課題があります。しかも、その課題は、「家族である」という所だけに立っていたのでは乗り越えていけないのです。「家族になっていく」という営み。それは自覚的な歩みです。主イエス・キリストによって教えられ、与えられた道を歩む中で、形作られていくものなのです。教会が「神の家族」と言われるのは、まさに主イエス・キリストによって霊的な家族とされたからであり、ここで私共が主イエスの声を聞き、これに従う中で、新しく家族になっていくという歩みを学ぶからなのであります。そして、その新しい家族を結び合わせるのは血を超えたもの、主イエスによって与えられた信仰・希望・愛なのです。ここに私共の家族の明日があります。私共は「主イエスの母、主イエスの兄弟、主イエスの姉妹」とされた者なのですから。

[2014年3月16日]

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