1.律法
今朝私共に与えられております御言葉は、主イエスとファリサイ派の人々との間で為された、安息日を巡っての論争です。次の3章1節からの所にも、安息日を巡っての論争が記されております。どちらの論争も私共にはあまりピンとこない、何をつまらないことを言っているのか、多分そんな風に思われる所ではないかと思います。しかし、この安息日というのは、当時のユダヤ教の熱心な人々にとっては、文字通り命懸けで守らなければならないと思っていたものだったのです。安息日に何もしないというのは、十戒の第四の戒に示されているものです。今私共も十戒を共に唱えましたが、その第四の戒として「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」と告げられています。十戒というものは、神様が私共に与えてくださったとても大切なもので、これを「どうでもよいもの」としてないがしろにしたのでは、神の民としての歩みは成り立ちません。十戒はとても大切なものである。これを守らなければならない。このことはファリサイ派の人々も主イエスも同じです。私共もそうです。しかし、大切にするとはどういうことなのか。そこが、ファリサイ派の人々と主イエスでは違っていたのです。
そもそも、十戒に代表される律法とはどういうものなのかと申しますと、神様の救いに与った者が、その救いにとどまり続け、神様に与えられた救いを全うするために、神様が与えてくださったガードレールのようなものと考えていただければ良いかと思います。律法は、神様がこのように行いなさい、これをしてはならないと命じられたものですけれど、それはこのガードレールを乗り越えてしまうと滅びの谷に落ちてしまいますよ。私が与えた救いの中に留まり続けることが出来ませんよ。だから気をつけなさい。このガードレールの中を歩んでいけば安全です。安心です。神様との交わりの中に生き続けることが出来ます。そういうものとして、神様が与えてくださったものだと考えていただいて良いと思います。そのような律法の代表として十戒があるわけです。
この十戒の第一の戒は、「あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない。」というものです。エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民が、モーセによってエジプトから導き出されます。その時、神様は次から次へと奇跡を起こしてくださり、イスラエルの民をエジプトから救い出されました。その出エジプトの旅の途中、シナイ山という所で、神様はモーセを通してイスラエルの民にこの十戒を授けられたのです。ですから、この十戒というものは、神様によって救われたイスラエルの民に対して、神様がその愛の交わりを保つために与えられたものなのです。これを守ることによって救われるというよりも、既に神様の救いに与り、エジプトの地から救い出していただいたイスラエルの民に神様が与えられたものなのです。
この十戒において一番大切なのは、第一戒の「あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない。」です。この第一の戒を具体的に守るために、第二、第三、第四の戒めと続いている。そう考えても良いでしょう。ここで問題になるのは、第一の戒の「あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない。」にしても、第二の戒の「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。」にしても、第三の戒の「主の名をみだりに唱えてはならない。」にしても、他の人が見てすぐに分かるようには確認出来ないことなのです。偶像を造って拝めば、それは分かりますけれど、この偶像というものは心の中に造るということだって出来るわけです。ところが、第四の戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」という戒は、誰が見ても分かります。そこで、ここに律法のすべてが懸かっているかのように集中して重んじられるようになった。そういうことではなかったかと思います。
2.安息日
イエス様の時代、安息日規定というものがありました。これは聖書には記されていないのですけれど、安息日を守るとは具体的にはどういうことなのかということを規定したものです。それには39種類の「してはならないこと」があって、それが各々6項目にわたって記されているので、安息日には合計234のしてはならないことがあったのです。例えば、安息日に歩いて良いのは2000キュピト、約900メートルと決められていました。万歩計で言うと、1300歩くらいでしょうか。これなど、20分も歩いたら超えてしまいます。また、火を使って食事を作るのもダメです。こうなれば、家でじっとしているしかありません。
どうしてそういうことになったのかと申しますと、これはイスラエルの歴史と深い関係があるのです。紀元前6世紀にバビロン捕囚という出来事がありました。神の民であるにもかかわらず神様に背いたイスラエルは、神様の裁きとして国を滅ぼされ、国の主だった人々は皆、遠いバビロンに連れて行かれるということが起きたのです。その後神様がバビロンをペルシャによって滅ぼされたので、イスラエルの民はエルサレムに戻って国を再建したわけです。そして、もう二度とバビロン捕囚のような目に遭わないようにと、しっかり律法を守り、神の民として真面目に歩んでいこう、そうイスラエルの民は心に刻んだのです。その結果、十戒を徹底的に守る、そういう姿勢がユダヤ教の基本となったのです。それが具体的な形として現れたものが、安息日規定なのです。ですから、現代の私共から見ればバカげているように思える234項目にも及ぶ禁止事項も、当時の人々は大真面目に、まさに命懸けで守ろうとしたのです。
こんな話もあります。紀元前2世紀にユダヤが戦争をするのですが、その時、安息日に攻撃を受けました。するとユダヤの人々は、安息日に戦うことは律法違反であるとして、安息日規定を破るよりは殺されることを選ぶと言って、多くの者がこの時戦うことなく殺されていったというのです。
安息日を守るということには、このようなイスラエルの歴史が背景にあって、安息日規定はイエス様の時代にここまで厳格に規定されることになったということなのです。ここには、本当に「真面目な罪人」というものがあると思います。悲しいことですが、これが私共の姿と重ならないと言えるだろうかとも思わされるのです。
3.ファリサイ派の人々の糾弾
さて、聖書に戻りますが、23~24節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った。」とあります。イエス様の弟子たちは麦畑を通る時に麦の穂を摘んだのです。これは、弟子たちが腹を空かせていたので、麦の穂を摘んで、それを両手でこすって籾殻を落として食べたということでしょう。私はしたことはないのですが、以前、80代、90代の方に聞いたところ、自分たちも小学校の帰りによくやったものだと言っておられました。ちょうどガムを噛んだようになるそうです。ファリサイ派の人々はこの弟子たちの行動を、「安息日にしてはならないこと」をしていると言って見とがめるわけです。これは他人の畑の麦を盗んだと言って責めているのではないのです。律法には、貧しい人が自分のものではない畑で、手で麦の穂をとることは許されていたのです。律法は本来、貧しい人、弱い人に対しての、そのような配慮に満ちたものなのです。ここで、ファリサイ派の人々が問題にしたのは、「安息日にしてはならないこと」をしているということでした。つまり、弟子たちの行動が、収穫するという労働にあたる、脱穀という労働にあたる、ということだったのです。
これを、「バカみたい」と言って済ませることは出来ません。彼らは、本気で、命懸けで、律法を守ろうとしていたからです。安息日規定を破る者は石打ちの刑なのです。実際に、このようなことで石打ちの刑で殺されるということがあったとは考えづらいですが、そういう定めにはなっていたのです。ですからここで、ファリサイ派の人々は親切で主イエスに注意をしたと読む人もいるのです。
4.主イエスの第一の答え
これに対しての主イエスの答えが、25節以下に記されています。ここで、主イエスは三つのことを語られました。
第一に、主イエスは、ダビデが、律法で祭司しか食べることが出来ないと定められている、神殿にささげられた供えのパンを食べ、供の者にも与えたという、旧約聖書に記されている出来事をまず告げました。これはサムエル記上21章に記されている出来事です。ダビデは王になる前、サウル王に命を狙われます。そして、逃亡していく中で空腹になった時、大祭司から神殿にささげられていたパンを受け取り、食べたのです。しかし、ダビデがそのことによって神様に裁かれたとは記されていないのです。このダビデの話は、もちろんファリサイ派の人々も知っています。
ここで主イエスがダビデの話を出した時、ファリサイ派の人々はどう思ったでしょう。「何を言っているのだ。ダビデ王は神様に選ばれた、神の民の王ではないか。まだ王になっていなかったとはいえ、王になることは既に神様によって決められていたのだから、飢え死にしたりすることが御心に適わないことは明らかではないか。ダビデ王は特別だ。そのダビデ王とお前と何の関係がある。ダビデ王と自分を同じ所に置くなど、もっての外。何と失礼な、分を弁えていない者なのか。」そんな風に思ったのではないでしょうか。
イエス様はここで、たまたま都合よくダビデの話があったので、これを持ってきたということではなかったと思います。そうではなくて、イエス様は、ファリサイ派の人々が感じたように、ダビデを持ち出して、ダビデと自分は同じではないかと言ったのだと思います。ダビデの子であるわたし、救い主であるわたしが、ダビデがしたようにしているのだ。何か問題があるのか。ダビデが問題なかったように、わたしも問題ない。いや、わたしはそれ以前に問題ないのだ。何故なら、安息日を定めたのはわたしの父であり、わたしは父と一つなのだから。そう主イエスはここで告げられたのではないかと思うのです。
5.主イエスの第二の答え
そして、第二に、主イエスは27節で、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と告げられました。これは、安息日に限らず、律法というものは、神様が神の民との間の愛の交わりという、御自分との関係を保持するために与えられたものであるという、律法の根本的理解を示されたのです。そもそも安息日というのは、神様が6日間で世界を造られ、7日目に休まれたということに由来するわけですが、それは7日目の安息日を守ることによって、神様の創造の御業を覚え、神様に感謝をささげ、神様との交わりを生活の中で整えていく、そのためのものであります。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」という第四の戒において大切なのは、「これを聖別する」、神様のものとして分けるということです。だから、何もしないという点に意味があるのではなくて、神様のものとする、神様にこの日一日をささげる、神様のための日とする、自分のために使わない、神様のために用いるということに意味があるということなのです。
そしてまた、安息日のもう一つの意味は、先程お読みしました申命記5章14~15節に「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」とあります。ここでは明らかに、安息日は、天地創造の御業と共に、出エジプトの出来事を思い起こすための日とされているのです。そして、エジプトにおいてイスラエルの民は奴隷であったのだから、そこから神様によって解放されたのだから、今あなたが使っている奴隷も、あなたと同じように休ませなさい。それが神様の御心だと告げているわけです。イスラエルの民にも奴隷にも、つまりまさに人間に安息する日を神様は与えてくださったということなのです。何もしないということのために一生懸命努力する、そういう日なのではなくて、神様が与えてくださった安息、休み、これを感謝して受け止めるということが大切なのだ。それが御心なのだと告げられたのです。
ただここで、「そうだ。安息日は人のためにあるのだから、自分の好きなように使えば良いのだ。自分の趣味を楽しむ日としてあるのだ。」そう早とちりしてはいけません。もちろん、休むことは大切なのです。しかし、私共はどこで本当に休むことになるのかということです。神様を忘れ、自分の趣味や家族サービスの日とする。それは、イエス様が言われた「安息日は人のために定められた」の意味ではないでしょう。この言葉の本当の意味を知るためには、次に主イエスが告げられた言葉を見る必要があります。
6.主イエスの第三の答え
第三に主イエスが言われたのは、28節「だから、人の子は安息日の主でもある。」との言葉です。この「人の子」というのは、イエス様が御自分のことを言われる時に用いる言い方です。イエス様は御自分が安息日の主だと言われたのです。安息日というのは、今まで見たように、神様が天地を造られたこと、そして今もすべてを支配し、私共を守り、支えてくださっていることを覚えると共に、出エジプトの出来事によって神の民を救われたことを覚えるために定められたものです。この安息日の意味が根本的に新しくされ、より徹底された。それが主イエス・キリストの到来であり、十字架と復活の出来事でありました。
主イエス・キリストは私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになることによって、私共と神様との間の罪の壁を打ち破り、私共が天地を造られた神様に向かって、「父よ」と呼ぶことが出来るようにしてくださいました。私共と神様との愛の交わりを根本的に新しくし、徹底的に永遠に変わることのないものとしてくださいました。神様と世界との関係を造り変え、異邦人であった私共を、神様を知らずそれ故に神様に敵対していた私共を、神様の子として、神の民として、新しく生きる者にしてくださいました。神様と私共との間に永遠の平和、まことの安息を与えてくださいました。この主イエス・キリストが与えてくださった罪の赦し、神様との平安の中に生きること、それが私共に与えられたまことの安息であります。この安息を与えるために、主イエスは来られたのです。
旧約における安息日は、週の終わりの日だから、土曜日です。しかし、主イエス・キリストが与えてくださった安息に生きる私共が守る安息日は、日曜日です。主イエスが復活され、新しい命の創造がこの日に始まったからです。この主イエスによって与えられる新しい命、復活の命に生きるよう召し出されたのが、私共なのです。実に、主イエスは私共に、律法を守ることによってではなく、ただ主イエス・キリストを信じる、このことによって与えられる新しい安息、それを与えるために来られたのであり、新しい安息日を与えるために来られたのです。主イエスは文字通り、命を懸けて、新しい安息日を定められたのです。この新しい安息日は、人のためにあるのです。私共は神様に愛され、神様を愛し、人を愛し、神様と人とに仕える者として新しくされた。そのことを心に刻み、新しくされた者として、ここから新しく歩み出していく。そういう日として定められたのです。ですからまさしく、主イエス・キリストは安息日の主なのです。この主を愛し、主の御声を聞き、主と共にあることを感謝するために、新しい安息日としての主の日、この日曜日があるからです。
私共は今から聖餐に与ります。主イエス・キリストによって与えられている安息を心に刻み、主イエス・キリストによって与えられた新しい命を受ける、そのためです。御言葉を受け、聖餐に与った者として、まことの安息、まことの平安を与えられた者として、ここから新しい一週の歩み、御国への歩みへと一歩を踏み出してまいりましょう。
[2014年2月2日]
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