富山鹿島町教会

礼拝説教

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」
詩編 98編1~9節
マルコによる福音書 2章18~23節

小堀 康彦牧師

1.主イエスとファリサイ派の人々との論争
 主イエスとファリサイ派の人々との間に論争が起きました。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教の一派で、大変熱心に律法を守り、その行いの正しさによって救われると信じていた人々です。使徒パウロも、元々はこのファリサイ派に属する人でした。彼らは町々にある会堂を拠点として、人々を宗教的に指導するという意識も持っておりました。人々から尊敬されていた律法学者という人々も、ファリサイ派と考えて良いと思います。そのファリサイ派の人々と主イエスとの間に論争が起きたのです。原因は何かと申しますと、主イエスや弟子たちの行動が律法を破っている、律法を無視している、そのようにファリサイ派の人々には見えたからです。マルコによる福音書2章1節~3章6節に五つの論争が記されています。
 最初は、主イエスが中風の人を癒やされた時に「あなたの罪は赦される。」と告げたことを巡ってでした。これは、主イエスが罪を赦す権威を持ち、中風を癒やす力がある、つまり、まことの神の子、救い主であることを示されたものでした。
 二つ目は、先週見ました、主イエスと弟子たちが徴税人や罪人と一緒に食事をしたことを巡ってでした。ファリサイ派の人々は、徴税人や罪人は汚れているから、正しい人が彼らと一緒に食事をするなどということは、とんでもないことだと考えていたのです。しかし主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と告げられました。主イエスは、罪人と一緒に食事をすることは、間違っているどころか、そこにこそ神様の御心がある、わたしはそのために来たのだと明言されたのです。
 三つ目は、今朝与えられている、断食をする、しないということを巡ってでした。聖書には、年に一回イスラエルのすべての人が悔い改めるべき日に断食するように定められているだけでしたが、ファリサイ派の人々は週に二回も断食をしていました。しかし、主イエスも弟子たちも断食をしませんでした。それはどうしたことかとファリサイ派の人々は問うたのです。
 四つ目は、安息日に麦畑を通る時に、主イエスの弟子たちが、小腹が空いていたのでしょう、麦の穂を摘んで口に含んだ。それを見とがめられたのです。安息日には何もしないことになっている。それなのに、主イエスの弟子たちは麦の穂を摘んだ。これは刈り入れであり、口に入れるためにモミを落とすのは脱穀である。安息日にしてはいけない労働をしたと言って責めたのです。
 そして五つ目は、3章1節からの、主イエスが安息日に片手の萎えた人を癒やされたという出来事を巡ってでした。安息日には何もしてはいけないのに、どうして癒やすという治療行為をしたのかということです。
 どれもこれも、当時ファリサイ派の人々が、これを守って正しい人となり神様に救われようとしていたこと、そのことを主イエスが否定されたわけです。ファリサイ派の人々は、このままでは人々が間違った方向に導かれる、このまま放っておくことは出来ない、そう考えるに至ったわけです。そして、この五つの論争の後、彼らは一つの結論に至ります。それが3章6節に記されております。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」マルコによる福音書によれば、とても早い段階で、主イエスを殺そうと計画されるようになったということなのです。

2.古いぶどう酒、古い革袋
 このように見てまいりますと、今朝与えられております御言葉の最後において、主イエスが「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」と言われた言葉が何を意味しているのか、明らかだと思います。これは元々はことわざだったようで、その意味は、新しいぶどう酒は発酵が続いているのでガスが発生して、弾力を失った古い革袋に入れると袋が破裂してしまう、だから弾力のある新しい革袋に入れるべきだ、という意味です。そのことわざを主イエスは用いて、信仰の有り様、神様との関わり方を示されたわけです。ここでの古いぶどう酒とは、ファリサイ派の人々が考えていた、厳格に律法を守って救われようとする信仰のあり方でありましょう。そして古い革袋とは、その考えに基づいて律法をとにかく細かく規定して、それを何一つ犯さないように生活するという信仰生活でありましょう。それに対して主イエスは、そういうことではないのだと否定されたのです。そのことは分かります。
 では、新しいぶどう酒とは何なのでしょうか。それは、今朝与えられた御言葉を順に読んでいけば分かります。18節「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」とあります。「ヨハネの弟子たち」というのは、洗礼者ヨハネの弟子たちということです。イエス様に洗礼を授けたヨハネは、自分の弟子たちに断食させていたのです。洗礼者ヨハネという人は、1章6節に「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」とありますように、毎日がほとんど断食のような生活でした。そしてこのヨハネが告げましたのは、マタイによる福音書によれば、3章8~9節「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」という、大変厳しく悔い改めを迫るものでした。ですから、洗礼者ヨハネとその弟子たちにおいては、「悔い改めのしるしとしての断食」というものが重んじられたであろうことは想像出来ます。
 また、ファリサイ派の人々は週に二日断食をしておりました。それは、木曜日はモーセが律法を授かりにシナイ山に登ったことを記念して、月曜日はモーセが律法を授かってシナイ山から下ったことを記念して為されたようです。ですから、この断食は、「悔い改め」というよりも、「律法を覚えて」ということでありました。このように、ヨハネの弟子たちもファリサイ派の人々もどちらも断食しておりましたけれど、その意味合いはずいぶん違っていたのではないかと思うのです。ヨハネの弟子たちは、何より悔い改めの業として為していたと思います。一方、ファリサイ派の人々は、神様の前に良き業を積み上げる、そういう思いで為していたと思います。しかし、そのような違いよりも、人々の目には、断食をしているか、していないかということの方が目についたのでしょう。この断食という行為は、おおよそすべての宗教において行われているものですが、その目的、意味というものは、それぞれ随分違うのではないかと思います。

3.結婚式の花婿
 福音書には、イエス様とその弟子たちが断食したという記事は出て来ません。しかし、食事をした場面はたくさん出て来ます。この断食についてのやりとりの前にも、主イエスと弟子たちは、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていました。どうして、主イエスと弟子たちは断食をしなかったのでしょうか。イエス様はこう答えておられます。19節「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」とあります。当時の結婚式は大変盛大で、その宴会は一週間も続きました。そして、この結婚式に出席した人は、宴会の間は断食しなかったのです。ファリサイ派の人であっても、結婚式の時は例外でした。ファリサイ派の人でも、結婚式の時は皆と喜びを共にするために食事をしたのです。結婚式とは、それ程に喜びに満ちた時だったのです。イエス様は、この結婚式にたとえて、自分たちは断食しないのだと言われたのです。では、この結婚式における花婿とは誰を指しているのでしょうか。それはイエス様です。旧約聖書において、神様が夫、イスラエルが妻にたとえられることはよくあります。イエス様はここで、御自分を花婿にたとえることによって、わたしがまことの救い主だと言われたのです。そして、救い主が来たという喜びの時にどうして断食なんてやっていられるのか、神様に感謝して喜び祝うのではないか、わたしが来たというのはそういうことであり、今はそういう時なのだ、そう言われたのです。
 イエス様は、更に続けて20節でこう語られました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」この「花婿が奪い取られる時」というのは、花婿がイエス様であるとするならば、これがイエス様が十字架にお架かりになる時のことを示しているのは明らかでしょう。そして、その時には弟子たちは「断食することになる」というのです。この場合の断食は、悲しみの断食ということです。イエス様は、この時既に御自分の十字架を見ておられたということなのです。

4.新しいぶどう酒、新しい革袋
 とするならば、新しいぶどう酒とは、救い主が来られたという喜びであり、祝いの酒だということになるでしょう。更に、主イエス・キリストの十字架によって与えられる罪の赦しということになります。律法を守るという自らの正しい業によって救われるのではなくて、主イエスの十字架によって救われる、ただ信仰によって救われるという福音です。これこそ新しいぶどう酒なのです。そして、それを入れる新しい革袋とは、救われた者としての喜びの業、感謝と賛美とをもって為される祝いの業ということになるのでありましょう。
 私共は、新しいぶどう酒を注がれた者として、新しい革袋としての歩みを神様の御前に献げていくのです。この新しいぶどう酒と新しい革袋のたとえは、私共が主イエス・キリストによって救われて新しくされた故に、新しい歩みをするようになるということを示しているのです。
 この「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は大変有名になって、主イエス・キリストの救いとは全く関係のない文脈でも用いられるようになっています。たとえば会社や組織を一新する時に用いられたりします。グローバル社会への対応のためには、学校も会社も変わらなければならない。古い体制、古い組織では対応出来ない。そんな文脈で用いられることもあります。しかし、主イエスが言われたのはそういうことではありません。新しいぶどう酒とは、主イエス・キリストによってもたらされた罪の赦しであり、神様との親しい交わりなのです。神の子・神の僕とされた救いの現実なのです。この救いに与った者として、私共は生きる。その歩みは、古い革袋のように、律法を守れば良いというようなものではありません。神様に喜ばれることを何よりの喜びとし、神様との親しい交わりの中で、主をほめたたえつつ、感謝しつつ歩んでいくのです。
 しかし、ここで私共は気をつけなければなりません。神様と近くあることを喜ぶ歩みが、いつの間にか、喜びの歩みではなくて「しなければいけない」という思いの中で為されることがないようにです。それは、新しい歩みが結局の所、新しい律法を作り出し、それを守ることが新しい歩みだと考え違いをしてしまうということです。しかしそれでは、私共は新しいファリサイ派の人になってしまうだけで、主イエスが言われる所の新しい革袋にはならず、古い革袋のままということになりかねないのです。そして、古い革袋では、主イエスの福音という新しいぶどう酒によって破られてしまうのです。新しいぶどう酒を新しい革袋に入れるために、私共は新しい信仰の歩みを整えていかなければならないのでしょう。

5.礼拝・祈り・奉仕
 具体的に考えてみます。私共はキリスト者になって、どのように生活が変わったでしょうか。何も変わらないということはあり得ないのです。これは大切なことです。主イエスに救われた私共は、具体的な生活が変わるのです。新しいぶどう酒を入れるにふさわしい新しい革袋として、変えられていくのです。
 すぐに思い浮かぶのは、主の日の礼拝を守るようになったということでしょう。しかも、それは「しなければならない」というよりも「喜び」として、私共はここに集っているということです。この礼拝に集うことに喜びがなければ、私共の信仰の歩みは難行苦行ということになってしまうでしょう。つまり第一に、喜びの日、祝いの日、祭りとしての主の日の礼拝です。
 第二に、祈りです。私共は、一日に何度も祈るようになりました。主イエスに救われる前は、困った時の神頼みであったり、初詣の時くらいしか祈るということを意識しなかった私共が、日に何度も神様に感謝したり、主の守りと支えとを祈ったりするようになりました。
 第三に、神と人とに仕える、奉仕をするということが当たり前のことになりました。自分の損得をまず考えてから行動するというのではなくて、自分が出来ることがあれば喜んで人のためになりたい、神様の御用に用いられたいと思うようになりました。この中に、献金ということも含まれるでしょう。
 この礼拝・祈り・奉仕という点において、私共は全く変わったのです。そして、これからもいよいよ変えられていくのだと思うのです。主イエスは来られました。私共は救われました。ですから、まだ救われていないかのように生きることは、もう出来ないのです。新しいぶどう酒は新しい革袋を必要とし、それを神様が作ってくださるのです。この礼拝・祈り・奉仕を貫いているのは、喜びであります。主イエスが共にいてくださるという喜びです。
 この喜びの中に生きるために、私共は主の日のたびごとに御言葉を聞くのです。新しいぶどう酒を注がれるのです。そのぶどう酒を飲み干して、私共は新しくされるのです。新しい歩みへと、新しい革袋へと変えられ続けるのです。

6.根本から新たにされて
 「八重の桜」という番組が昨年NHKで放送されておりました。私は、夕礼拝と時間的に重なっていて見ることはなかったのですが、ビデオに撮ったものを妻が見まして、私に身振り手振りで感想を話し、報告してくれました。私は見てはいないのですが、見たような気になっていて、その中でとても印象に残っているのは、新島襄が八重さんと結婚して、八重さんが夫である新島を何と呼ぶかということになった時、新島が「ジョウ」と呼ぶようにと言った所です。戊辰戦争が終わったばかり、女性の権利などということは言葉さえ無かった時代です。その時に、妻に「ジョウ」と呼び捨てにするように言った新島。もちろん背景には、新島のアメリカでの生活というものがあったのでしょう。しかし、それ以上に、彼は新しいぶどう酒を飲んでいたのです。そして、新しいぶどう酒に合った新しい革袋に変えられていたということなのでしょう。何と鮮やかなものかと思います。新しい革袋とは、そのようなものなのではないかと思うのです。主イエスの福音という新しいぶどう酒を飲んだ新島は、夫婦のあり方ということにおいても、新しい革袋にならなければならないということを知っていたのでしょう。
 私共は日本人であり、更に言えば富山人ということなのでしょう。しかし、そのような枠を打ち破って、私共はキリスト者なのです。キリスト者であるということは、インターナショナルな者であり、ユニバーサルな者なのです。新しいぶどう酒を注がれた、新しい革袋としての私共なのです。ですから、日本人、富山人としては少し変な所があるのかもしれません。しかし、それは単なる変人ではないのです。変人と福音は関係ありません。そうではなくて、福音によって変えられた異質さとでも言うべきものを私共は宿しているということなのです。そして、それが新しい革袋になるということであり、キリストの香りを放つ者として生かされているということなのです。
 新しいぶどう酒を注がれた者として、飲み干した者として、この一週もまた、主の御国に向かって、喜びと感謝と賛美をもって、新しき革袋としての歩みを為してまいりたいと思います。

[2014年1月19日]

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