1.序
2014年最初の主の日を迎えています。元旦礼拝において、「わたしは、神に近くあることを幸いとする。」という詩編73編28節の御言葉を頂いて歩み出した私共です。神に近くある。神様との親しい交わりに生きる。この幸いをしっかり受け止め、神様に向かって「父よ」と呼び、神様の子とされた喜びの中で、神様の御言葉に従い、神様の救いの御業を語り伝える。この一年、そのような者として歩んでまいりたいと心から願うものであります。
さて、今朝与えられております御言葉は、主イエスが再びカファルナウムの町に来られて、そこで中風の人を癒やされたという出来事が記されております。イエス様はこの癒やしの業において自ら、何者であるかということを示されました。イエス様は、今までも病人を癒やしたり重い皮膚病の人を清めたりして、神の御子としての力を人々の前に示しておられましたが、この中風の人を癒やされる出来事においては、単に癒やしの奇跡を為されただけではなくて、そのようなことを為すことが出来る御自分とは何者であるのか、そのことをはっきりと皆の前でお示しになりました。
2.再びカファルナウムに
順に見てまいりましょう。1~2節「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」とあります。「再びカファルナウムに来られると」とありますように、主イエスがカファルナウムに来られたのはこれが初めてではありません。前回来られた時には、安息日の礼拝において悪霊を追い出し、シモンのしゅうとめの熱を下げました。すると、日が沈んで安息日が終わった途端、大勢の人がその評判を聞いて集まって来ました。病気にかかった人、悪霊に取りつかれた人、またそのような人を何とか治したいと思った人。そういう人たちが主イエスのもとに集まって来たのです。主イエスは、夜遅くまでそれらの人たちを癒やされたことでしょう。しかし次の日には、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と言って、カファルナウムの町を離れてしまわれました。そのイエス様が、再びカファルナウムの町に来られたのです。多分、前回と同じシモン・ペトロの家ではなかったかと思います。主イエスが戻って来られたと聞くと、前回主イエスに癒やしていただこうと思っていたのにそれが適わなかった人を初め、大勢の人が主イエスのもとに集まって来ました。どのくらい集まったかと言いますと、「戸口の辺りまですきまもないほどになった」と聖書には記されています。しかし、この家は普通の漁師の家ですから、そんなに大きな家ではなかったはずです。ですから、30人あるいは50人も集まれば、押し合いへし合いの状態になったことでしょう。
イエス様はそこで何をなさっていたかと言いますと、「御言葉を語って」おられたのです。前回、イエス様がカファルナウムを離れた理由の一つは、人々が主イエスに癒やしだけを求めて集まって来たということでした。イエス様はもちろん癒やしもなさいますが、そのために来られたのではありません。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」とのメッセージを告げる。神の国は来ているのだから、神様の前に自らの罪を認め、罪の赦しを求め、悔い改めて新しい神様との交わりに生きなさい。そのことを言葉と業と存在をもって告げる。そのために来られたのです。ですからイエス様は、カファルナウムに戻った時も、この神の国の福音を告げておられたわけです。
しかし、人々はどうだったでしょう。この主イエスの告げる神の国の福音を求めて、主イエスのもとにやって来たのでしょうか。そうではないと思います。神の国の福音なんてどうでも良い。この病を癒やして欲しい。悪霊を追い出して欲しい。やっぱりそういう思いで人々は集まって来ていたのではないでしょうか。しかし、だからといって、イエス様が話しをされている時に、「そんなことはどうでも良い。さっさと癒やして欲しい。」そんな失礼なことを言う人はいなかったと思います。一応、神妙な顔をして聞いていたことでしょう。
そんな時に、屋根がはがされ、開いた穴から中風の人が寝ている床ごと、つり降ろされてきたのです。その場に居合わせた人々は驚いたことでしょう。イエス様の話を聞いていると、上からパラパラと屋根の土が落ちてくる。見ると、屋根に穴がぽっかりと開いて青空が見え、光が差し込んできている。そして、そこから床がつり降ろされてきて、イエス様の前に置かれたのです。イエス様は、この人が中風であることはすぐに分かったと思います。そしてまた、ここに集まっていた人たちも、カファルナウムという小さな町のことですから、この男の人を見るなり、どこどこの誰々さんだと分かったでしょう。そして、この人が中風だということも分かったと思います。
中風というのは、私が小さいときにはよく使われていた言葉ですが、今ではほとんど使われなくなった言葉ですね。今で言えば、脳梗塞あるいは脳出血による身体の麻痺、または重いパーキンソン病による症状ということになるのかもしれません。昔は原因も分かりませんし、そんな病名もありませんでしたから、身体が麻痺状態になったのを全部まとめて中風と言っていたのです。しかし、ここでこの人がどういう病名の病であったのか詮索することにはあまり意味がありません。大切なことは、主イエスがこの人に告げられた言葉です。
3.子よ、あなたの罪は赦される
5節「子よ、あなたの罪は赦される。」と言われたのです。これは明らかに期待外れと言いますか、その場にいたすべての人の思いとズレている言葉でした。この中風の人を運んできた人も、中風の人も、ここに集まっていた人々も、みんなこの中風の人が癒やされる、そのことを求めていたはずです。しかし、主イエスが告げられたのは、「子よ、あなたの罪は赦される。」というものでした。ここで主イエスは、完全に人々の思いを無視されたのです。主イエスが人々の思い、自分に向けられている期待が分からなかったはずがありません。主イエスはわざと、こう告げられたのです。これは多分、主イエスがこの時に語られていたであろう「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージと深い関係があったのだと思います。主イエスは、人々が自分に癒やしの業を求めている、それだけを期待しているということをよく御存知でした。しかし癒やしは、神の国の到来のしるし、主イエスが誰であるかということのしるしであって、主イエスによってもたらされる救いそのものではないのです。主イエスが与える救い、それは神様との和解です。神に近くあることの幸いです。この「神に近くある幸い」に生きるためには、神様と私共との間にある罪の壁が打ち壊されなければなりません。私共の罪が赦されなければなりません。イエス様はそのために来られました。罪を赦すことが出来るのは、神様だけです。イエス様がそれを宣言されるということは、イエス様が神様であるということの宣言でもありました。罪を赦すことの出来るお方、まことの神がここにおられる。その神様が、中風の人に向かって「子よ。」と語りかけたのです。そして主イエスは、神の御子として、神様として、罪の赦しを宣言されたのです。ここに、神様とこの中風の人との間に、親しい交わりが回復されたのです。とすれば、神の国がここに来ていることになる。主イエスはこのことを示されたかったのでありましょう。神の国はもうここに来ている。あなたがたは、この神様との親しい交わりに生きる幸いを目の当たりにしている。だから、もう目に見える幸いだけを求めるのではなくて、神様の子、神様の僕として生きるという、新しい命に生きなさい。主イエスは、この中風の人にも、この人を運んできた人にも、ここに集まっていた人々にも、そう告げたかったのだと思うのです。
4.主イエスとは誰か
この主イエスの言葉に素早く反応した人がいました。それが律法学者たちでした。彼らは、心の中でこう思いました。7節「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」この反応は全く正しいのです。神様以外に罪の赦しを与えることが出来る者などいません。もし、主イエスがまことの神でなかったとしたならば、律法学者たちの主張は100パーセント正しかったのです。しかし、主イエスはまことの神であられました。主イエスはそのことを示すために、この律法学者たちの心を見抜いて、こう言われました。9~10節「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
皆さんは、「あなたの罪は赦される。」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け。」と言うのと、どちらが易しいと思いますか。「あなたの罪は赦される。」と言うのは、その結果どうなるのかその場ですぐに分かることではありませんので、口先だけでも言えることです。この言葉は自らを神とするわけですから、この言葉を主イエス以外の者が語るとすれば最も恐ろしい罪を犯すことになるのではありますが、言うだけなら誰でも言えます。しかし、「起きて、床を担いで歩け。」と言うのは、その場でそのことが起きなければ、すぐに嘘だとばれてしまいます。ですから、もしイエス様がただの人間だとすれば、「あなたの罪は赦される。」と言うことの方がはるかに易しいということになります。しかし、イエス様がまことの神であられるならば、それはどちらも同じことです。神様にとっては、どちらも易しいことなのです。
イエス様は、自らがまことの神であることを示すために、続けて中風の人に言われました。11~12節「『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。」主イエスは中風の人を癒やし、床を担いで帰らせたのです。このことによって、御自分に罪の赦しの権威があること、まことの神であることをお示しになったのです。そしてこのことは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という主イエスが語られるメッセージが本当であることをも示しているのです。イエス様は、律法学者たちをやっつけるためにこのようなことをされたのではありません。イエス様は、そんなつまらないことのために、ここで御言葉を語り、癒やされたのではないのです。そうではなくて、御自分が誰であるのかということを示し、それによって既に神の国は来ている、あなたがたはこの神の国に生きる者として招かれている、だから神に近くあることの幸いの中に生きる者となりなさい、そう告げられたのであります。
5.その人たちの信仰を見て
さて、ここでもう一つの大切な点を見たいと思います。それは、主イエスがこの中風の人に対して罪の赦しを宣言された時のことです。5節「イエスはその人たちの信仰を見て」とあります。イエス様は中風の人に対して罪の赦しを宣言されたのですけれど、それは中風の人の信仰を見たからではないのです。この中風の人を運んできた四人の男の人たちの信仰を見て、なのです。
私共は、自分が罪赦されるためには自分の信仰が必要だと思っているでしょう。私が信じている。だから救われた。そう思っているでしょう。この主体的信仰と申しますか、「この私が信じる」ということはとても大切です。イエス様はその人の信仰を見て癒やし、救う。それは正しいことです。「この私が信じる」ということがどうでも良い、そんなことでは決してありません。先週見ましたように、重い皮膚病にかかった人が清くされた時、主イエスはこの人を深く憐れんで癒やされたのですが、その時は「御心ならば、イエス様、あなたがそう思われるなら、私は清めていただくことができます。」と、イエス様への信頼、信仰を、この人自身がはっきり言い表しておりました。そして、それに応えるようにして、イエス様はこの人を癒やされたのです。癒やされる人、罪赦される人の信仰がどうでも良いなどということは決してないのです。しかしながら罪の赦しは、私の信仰という「良き業」によって手に入れるものでもないのです。イエス様が私共を憐れんでくださって、私共の罪を赦そう、私共を新しくしよう、そう思ってくださることによって与えられるものだからです。そしてその場合、罪赦される人自身、癒やされる人自身の信仰ではなく、その人が癒やされることを願い、イエス様に依り頼むという、その人のために執りなす人の信仰を見て、イエス様がその人を憐れむということもあるのだということなのです。
実はこのことは、私共が罪赦されるということがどういうことなのか、そのことを示しています。私共が罪赦されたのは、私共の信仰が立派だったからではありません。私共の信仰というものは、実に頼りないものです。だから私共の信仰によって私共は救われたのではなく、私共のために執りなしてくださった主イエスの信仰が真実だからなのです。実に信仰によって救われるとは、主イエスの真実によって救われるということなのです。
このことは、先程お読みしました出エジプト記32章におきまして、金の子牛の像を拝むという罪を犯したイスラエルのために、モーセが自分の命を賭けて執りなしをする。そのことによって、イスラエルの民はそこで滅ぼされることなく、約束の地にたどり着くことが出来たということにおいても示されています。ここには不完全な形ではありますが、主イエスの十字架の執りなしと、それによる神様の赦しが指し示されているのです。執りなす者によって救われる。それが聖書が告げている、神様が与えられる救いの筋道というものなのです。
6.重大な可能性
そしてまた、このことは私共に重大な可能性を与えることになります。本人の信仰によってではなく、その人のために執りなす人の信仰によって、その人の罪が赦される可能性です。
具体的に考えてみましょう。私共は通常、信仰が与えられ、その信仰に基づいて洗礼を受け、神の子とされます。しかし、これが唯一の道ではないということなのです。自分の口で信仰を言い表すことが出来ない人はどうなるのかという問いに、この可能性が答えることになります。例えば、重い知恵遅れの人、あるいは老いて痴呆になってしまった人。程度にもよりますけれど、そのような自分の口ではっきりと主イエスを信じるということを言い表せない人の救いはどうなるのか。洗礼を授けることは出来ないのか。これに対して、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」このことが重大な可能性を開くことになるのです。つまり、そのような人の救いを心から願い求め執りなす人、それは具体的には家族ということであり、その人を受け入れる教会ということになりますけれど、その執りなす人の信仰によってイエス様が救ってくださることを信じ、これに洗礼を授けることが出来るということなのです。中世以来、教会は幼児洗礼というものを洗礼の主流とし、生まれるとすぐに幼児洗礼を授けてきました。ですから、キリスト教の国においてはこの様なことが課題として意識されたことはありませんでしたし、それ故神学議論として取り上げられることもありませんでした。しかしこの課題は、伝道地である日本においては、愛する家族の救いに関わる重大なテーマとならざるを得ないのです。
7.愛と信頼による伝道
また、この「イエスはその人たちの信仰を見て」という言葉は、私共の伝道の姿勢というものをも問うことになるのだと思います。この時、この四人の男の人たちは、何とかして中風の人を癒やしたいと思った。ここに愛があります。そして、主イエスのもとに連れて来た。イエス様なら何とかしてくださるという信頼です。これにイエス様は応えてくださったのです。私共は隣人を本気で愛しているか。イエス様は必ず何とかしてくださると信頼しているか。そのことが問われるのです。
更にこの時、四人の男の人たちは屋根をはがして主イエスの前につり下げるという、突拍子もないことをしました。人がいっぱいいてイエス様のところに近づけない場合、人々が帰るのを待ってイエス様に癒やしていただくのを願う、普通ならそうするでしょう。しかし、彼らはそうしなかった。何故でしょうか。彼らの中には、今を逃したらどうなるか分からないというような、切迫した思いがあったからなのだと思います。事実、前回イエス様は、大勢の人を癒やしながら、次の日にはカファルナウムの町から姿を消してしまった。どこに行ったのか分からなかったのです。そのイエス様が戻って来られた。今を逃しては駄目だ。そんな思いがあって、このような行為に及んだのでしょう。
そしてイエス様は、このような突拍子もないことをした人たちを少しも責めていないのです。それどころか、彼らの中に信仰を見た。御自分に対しての信頼を見たのです。確かに、この四人の男の人の信仰も、イエス様をまことの神の子と信じるような信仰ではなかったでしょう。イエス様ならきっと癒やしてくれる。そんな信仰だったと思います。しかし、イエス様はそれでも良しとされたのです。本気で、「今しかない」「この方しかいない」そう思っていたからです。私共は、この四人の男の人が中風の人を主イエスの所に連れて来たのに比べると、いささかのんびりしているのではないかと思います。もう少し待とう。そのうち良いタイミング、チャンスが来るだろう。もちろん、何でも闇雲に、とは思いません。神様の時があるというのも本当でしょう。しかし、それを言い訳にしてはならないのです。神の国は近づいているからです。その人の救いを本当に願っているなら、その人を愛しているなら、そしてイエス様が何とかしてくださると信じているなら、屋根をはがしてでも主イエスのもとに連れてくる、そのような信仰が求められているということなのであります。
私共は、聖書についていろいろと詳しく知っているわけではないかもしれません。しかしイエス様は、私共が律法学者のように聖書についていろいろと知っているかどうか、そんなことは問題にされないのです。大切なのは、隣り人への愛と、イエス様への信頼です。ここに神様の御業が現れるのです。私共はこれが与えられるよう、切に祈り求めてまいりたいと思うのです。
[2014年1月5日]
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