富山鹿島町教会

元旦礼拝説教

「神に近くあることの幸いに生きる」
詩編 73編28節
ヘブライ人への手紙 10章19~25節

小堀 康彦牧師

1.神に近くある幸い
 2014年。新しい年を迎えました。その私共に与えられた御言葉は、詩編73編28節「わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」であります。
 この新しい年に何があるのか、私共は知りません。景気がどうなるのか、子どもや孫の進学や就職や結婚がどうなるのか、そして自分の健康がどうなるのか、私共は知らないのです。しかし、それらのことがどうなるとしても、私共は「神に近くあることを幸いとする」のです。私共の幸いは、この「神に近くある」という一点にかかっています。神に近くあることさえ出来れば、私共はどのような状況の中に置かれても幸いであることが出来るのです。私共の幸いは、何か良いことがある、困ったことが起きない、自分の希望通り願い通りに事が進む、そういう所にあるのではありません。そうではなくて、私共の幸いは「神に近くある」という一点にかかっているのだと、聖書は告げているのです。
 では、「神に近くある」とは、どういうことなのか。神様の御言葉を日々受け取り、祈り、神様との親しい交わりの中に生きるということでありましょう。単純なことです。父なる神様との親しい交わりの中にあるのならば、私共は、何によっても奪われることのない幸いの中に生きることが出来るのです。この神様との親しい交わりこそ、聖書が私共に告げている「まことの幸い」なのです。私共は、この「まことの幸い」に生きるようにと召し出された者なのです。世は、この「まことの幸い」を知りません。目に見える幸いしか知りません。ですから、それしか求めようとしません。しかし、そのような目に見える幸いは、目に見える災いによって、すぐに取って代わられてしまうのなのです。一方、この「まことの幸い」は、決して奪われることのない幸いです。目に見えるいかなる災いによっても奪われることのない幸いなのです。この幸いに生きよ。この幸いの中にあなたの道を見出せ。それがあなたに与えられている新しい道なのだと、聖書は告げているのです。私共も主イエスによって救われるまで、この「まことの幸い」を知りませんでした。ですから、目に見える幸いしか求めていなかった。しかし、今は違います。だから私共は今朝、隣の護国神社ではなく、ここに集っているのでしょう。私共の求める幸いは、家内安全、商売繁盛ではないのです。それらを超えた、まことの幸いです。

2.主イエスによって
 この幸いを私共に与えてくださるために、主イエス・キリストは来てくださいました。ヘブライ人への手紙10章19節以下には、そのことが筋道を立てて記されております。10章19~20節「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」とあります。ここで「聖所」と言われているのは、エルサレムの神殿の中の最も奥まった所にあった、至聖所と呼ばれる場所のことです。ここは、年に一度大祭司だけが入ることを許された所でした。神様が御臨在される、最も聖なる所です。この至聖所は、重く厚い垂れ幕によって、大祭司以外の祭司たちが通常祭儀を行う所と区切られておりました。祭司といえども、この垂れ幕の内側、至聖所に入ることは出来なかったのです。しかし、主イエス・キリストが十字架にお架かりになった時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たと、マタイによる福音書27章51節に記されております。この「神殿の垂れ幕」とは、この至聖所を区切る垂れ幕のことでした。この出来事は、年に一度大祭司だけが入ることが出来る至聖所と人々とを隔てていたものが取り除かれて、私共はいつでもどこでも神様との親しい交わりの中に生きることが出来るようになったということを意味しているのです。この重く厚い垂れ幕は、私共人間の罪を意味していたと言って良いでしょう。主イエス・キリストが私共に代わって十字架にお架かりになってくださったことによって、聖なる神様と人間を隔てていた罪の中垣が取り払われ、父と子としての親しい交わりに生きることが出来るようになったということなのです。

3.新しい生きた道
 ここに、父なる神様と私共とを結ぶ新しい道が開かれました。神様との親しい交わりに生きる道です。まことの救いに至る道です。神の国に至る道です。この道を、聖書は「新しい生きた道」と言っています。この道は「生きた道」なのです。生きるための道ではありません。「生きた道」です。つまり、この道は私共をまことの救いへと導く主イエス・キリスト御自身を指しているのです。それは、こういうことです。私共が神様に向かって「アバ、父よ」と呼び奉る時、主イエス・キリスト御自身が聖霊として私共の上に臨んでくださり、私共に祈りの言葉を与えてくださるということであます。そしてまた、私共が神様からの召しに従って一歩を踏み出す時、主イエス・キリスト御自身が共にいてくださって、その歩みを守り、支え、導いてくださるということなのです。
 主イエス・キリストは、十字架にお架かりになってくださり、私共の罪の贖いとなってくださいましたけれども、そこでもう全ての業をやめられたということではないのです。その十字架の贖いの業が、私共の具体的な歩みにおいて全うされるよう、私共と共に歩んでくださり、その歩みの全てを支え、導いてくださり、まさに道そのものとなってくださって、私共が確実に神の御国へ至るようにと導いてくださっているのです。この「新しい生きた道」を歩むことこそ、私共のまことの幸いなのであります。

4.信頼しきって神様に近づこう
 私共が、天地を造られた神様に向かって「父よ」と呼び奉ることが出来、聖書を通して神様の御心を聞くことが出来る。これは、まことに驚くべきことであります。出来るはずがない、許されるはずがない、驚くべき恵みの中に、私共は召されているのです。それは、私共が良い人、清い人であるからではありません。ただ、イエス様が私共に代わって血を流し、私共の一切の罪を洗い清めてくださったからです。21~22節に「更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」とある通りです。祭司は執りなすために犠牲を献げます。主イエスはまことの大祭司として、御自身の体を神様に犠牲として献げられたのです。何よりも尊い、罪無き神の子の犠牲です。これにより、私共には完全な執りなしが為され、完全な罪の赦しが与えられたのです。ですから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と告げられるのです。
 私共が神様に近づく。それは、詩編の詩人が73編28節で告げた、私共の「まことの幸い」のことであります。実に「神に近づこうではありませんか」とは、この「まことの幸いに生きようではありませんか」ということなのです。私共は、この幸いに生きるように招かれているのです。そこで求められるのは、「信頼しきって、真心から」ということです。主イエス・キリストの十字架の救いの御業を信頼しきって、本気で、二心なく、神様との愛の交わりに生きるということであります。本当に大丈夫なのだろうかと心配する必要はないのです。本当に私の心は清められているだろうかと自分の心の中をのぞき込めば、不安になるかもしれません。しかし、神様が私共の一切の罪を赦し、神様の子として受け入れてくださっているのです。ここで大切なことは、「信頼しきる」ということです。イエス様を、その救いの御業を、その愛を、「信頼しきる」ということです。自分がどれほどの者であるか、そんなことではないのです。顔を上げるのです。自分の足下ばかり、自分の心の中ばかり見ている眼差しを、上に上げるのです。主イエスの十字架を仰ぎ見るのです。その眼差しのまま、「父よ」と祈れば良いのです。
 私共はしばしば、祈っている時でさえも、心の眼差しを天に向けようとせず、自分の心の中をのぞき続けていたり、周りで起きる出来事ばかり見てしまうことがあります。そうではなくて、大胆にイエス様を信頼しきって、眼差しを上に上げるのです。天に向けるのです。主イエスに向けるのです。そうすれば必ず、天からの光を受けることが出来るでしょう。そして、そこに私共のまことの幸いがあるのです。
 聖書は続けてこう告げます。23節「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」約束してくださった方はイエス様です。イエス様は真実な方です。嘘はつきません。だから、イエス様が約束してくださった、そして教会が公に言い表している希望、つまり罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命の希望を、しっかり保っていきましょうと言うのです。この罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命とは、まさに「まことの幸い」の究極的な形を示しているのです。そして、このまことの幸いの約束を信じているが故に、その希望の故に、私共は愛の業に、良き業に励むことが出来るのです。

5.励まし合いつつ
 24~25節「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちとの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」とあります。ここで、「励まし合おう」と繰り返されております。何を励まし合うのかといえば、信仰の歩みを互いに励まし合おうというのです。そして、その信仰の歩みを励まし合うというのは、具体的に言えば「集会を怠ったりしない」ように励まし合うというのです。ここで、「ある人たちとの習慣に倣って集会を怠ったりせず」と言われているのは、主イエスが来られるのはもうすぐなのだから、主の日の礼拝なんかやっている場合じゃない、そんな集会なんて守ることは意味がない、そういう人たちがいたのです。しかし聖書は、そうではなくて、集会を怠ったりしないように互いに励まし合おうと告げるのです。それは、私共が神様との親しい交わりの中に生きる、神様の近くにあることの幸いに生きるということは、集会を守るということと切り離すことは出来ないからです。何故なら、この集会において私共は御言葉を受け、聖餐に与り、具体的に神様との親しい交わりに生きることになるからです。実に、まことの幸いに生きるということは、この主の日の礼拝に集い続けるということによって保たれるものだからです。
 これが2014年の最初に私共に与えられた、神様からのメッセージです。互いに励まし合って集会に集い、この新しい一年、まことの幸いの中に生きる歩みを共に為してまいりたいと、心から願うものであります。

[2014年1月1日]

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