富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスが手を伸ばし、触れると」
レビ記 14章1~20節
マルコによる福音書 1章40~45節

小堀 康彦牧師

1.重い皮膚病
 先週はクリスマス記念礼拝に始まり、クリスマス祝会、子どものクリスマス会、キャンドル・サービス、キャロリングとクリスマスの行事が立て続けにありました。まだその余韻が残る中で、今年最後の主の日の礼拝をささげております。
 今朝、私共に与えられております御言葉は、重い皮膚病を患っている人が主イエスによって癒やされたということが記されております。この「重い皮膚病」というのは、以前は「らい病」と訳されておりました。皆さんがお持ちの聖書には「らい病」と訳されているものあると思います。「らい病」というのは、現在は「ハンセン病」とも呼ばれているものです。しかし、現在ではこの「重い皮膚病」というのは、「らい病」「ハンセン病」と同じではないと考えられております。でも、この聖書の「重い皮膚病」にかかった人が、社会全体から差別を受け、はじき出され、隔離されたりしたのは、ハンセン病にかかった人と同じでありました。この「らい病」「ハンセン病」にかかった人に対してなされた差別の歴史というものは、忘れてはならないものだと私は思っております。現在の日本では、この病気を発病する人は一人もいません。しかし、以前はこの病を治す薬もなく、大変恐れられて、天が刑罰を下したためにかかる病、「天刑病」とまで呼ばれていたのです。日本はこの病のために法律を作り、この病にかかった人は世間と交流することがない隔離された施設に入らなければならないとしたのです。一度入ったら二度と出ることの出来ない施設です。この病にかかった人は名前を変え、家族もその人がどこに行ったのかを隠しました。このような政府の対応が不当であり、世間の差別を助長したということは言えるでしょう。私共の礼拝に出席されておられるK姉は、このような施設の中にある教会の牧師を長くされていた方のお嬢さんです。一度、婦人会などでお話しを聞かせていただいたら良いと思います。現在発病する人は一人もいないわけですから、このような施設に新しく入ってくる人はいませんし、住む人も高齢化しています。やがて、忘れられていくのかもしれません。しかし、それで良いのかと思います。この病に近いものとして、戦前・戦中の結核、あるいは現代のエイズが挙げられるでしょう。どちらも治す方法が分からない、感染する、命に関わる病であるということにおいて共通しています。前任地の教会員の中にも、夫が結核にかかり、町の中に住めなくなり、桑畑の中に小さな家を建てて住んだという人がおりました。彼女が女手一つで二人の息子を育てた苦労も聞きました。その誰も訪ねて来る人などいない小さな家に、牧師だけが訪ねて来てくれた。そして、自分が出したお茶を飲んでくれた。そんな話をしてくれました。その牧師はきっと、この重い皮膚病にかかった人に対しての主イエスの姿に従ったのだろうと思います。

2.御心ならば=主イエスの意思によって
 この重い皮膚病にかかった人はどうしなければならなかったか。レビ記13章45~46節に「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」と記されております。この病気にかかった人は「宿営の外に住まねばならない」のですから、イエス様の時代でも町の中に住むことが出来なかったのです。そして、誰かと会えば、「わたしは汚れた者です。」と自分の口で呼ばわらなければならなかったのです。まことにつらいことだったでしょう。
 そのような人が主イエスの所に来たのです。理由ははっきりしていると思います。主イエスが様々な病を癒やされたということを聞いたからでしょう。イエス様なら自分のこの病も癒やしてくれるのではないか。そう期待したからです。しかし、この人が自分から町の中にいる主イエスの所に出かけて行ったというのは考えにくいと思います。重い皮膚病にかかっていることは、見た目で分かります。そのような人が町に入ってくれば大変な騒動になったでしょうし、石をもって追われかねなかったと思います。ですから、主イエスが町から町へ、村から村へと回る中で、町や村に入る前の所で、この人は主イエスを待っていたのではないでしょうか。この方なら私を癒やしてくれる。そう期待し、この方が来るのを待つ。どのくらい待ったのでしょう。一週間、二週間、一ヶ月と待ったかもしれません。そして、遂に主イエスが来られた。彼は主イエスの所に来て、ひざまずき、そしてこう願ったのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」何とも回りくどい言い方です。「わたしを清くしてください。」そう言えば良さそうなものです。しかし、彼は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言ったのです。この言い方の中に、この人の主イエスに対する思いが表れているのだと思います。これは、「イエス様、あなたがそうしようと思われるなら、わたしを清くすることがおできになる。」ということです。確かにこの男の人は、「癒やしてください」「清くしてください」との思いを強く持ちつつも、「そうなるかどうかは、そうしてくださるかどうかは、イエス様、あなたの意思、あなたの思い一つです。」と言ったわけです。これは自分の願いを主イエスにぶつけるということ以上に、イエス様の意思、御心によって事が起きるのだという、彼の信仰が言い表されていると言って良いと思います。それに対して、イエス様は「よろしい。清くなれ。」と言われた。これも直訳すれば、「わたしは望む。清くなれ。」「わたしは意思する。清くなれ。」ということなのです。実に、このいやしは主イエスの意思によって行われたのだ。そのことがはっきり示されているのです。
 イエス様の御業は、イエス様がそのように望まれる、そうしたいと思われる、そのことによって為されるということなのです。私共が熱心に願い続けたら、その熱心さによって事が起きるということではないのです。もちろん、熱心に祈り求めることは大切です。しかし、それが事を起こすのではないのです。イエス様の御心、それが事を起こすのです。
 さて、この時の主イエスの御心でありますが、聖書は「イエスが深く憐れんで」と記しています。この「深く憐れんで」という言葉ですが、これは聖書においてイエス様にだけ使われている言葉です。その意味は、「はらわたが痛む」というニュアンスを持つ言葉なのです。イエス様は、この重い皮膚病にかかった人と出会い、その思いを受け取り、「はらわたが痛む」ように憐れんだのです。「憐れむ」という日本語には、上の者が下の者に向かって、これを見て憐れに思うというニュアンスがあります。しかし、イエス様はこの時この人に対して、そのように思われたのではないのです。この人が置かれている状況、今までの歩み、そのようなものを主イエスは見通されたのでしょう。そして、はらわたが痛んだのです。これが主イエスの御心であり、主イエスの憐れみであり、主イエスの愛なのです。イエス様は、この思いを私共一人一人に向けてお持ちなのです。

3.主イエスが手を伸ばして触れる
 イエス様は、この時この男の人に「手を差し伸べて触れ」ました。この男の人は汚れた者だと思われていたわけですから、それは汚れた男に触れた人もまた汚れるということを意味していました。しかし、イエス様はそんなことは少しも気になさらないのです。どうしてか。それは、主イエスというお方は、人間の一切の汚れを清めるために来られた方だったからです。イエス様を汚すことが出来るものなど、この世界に存在しないからです。この世界における最大の汚れは何か。それは死でしょう。古今東西、いつの時代でも死は最も強い汚れでした。日本でもそうです。死んだ者を見る。触れる。それだけで汚れてしまう。ですから、葬式の後で清めの塩を振りかけるのでしょう。しかし、イエス様はこの死を打ち破るために、十字架にお架かりになって死んで三日目に復活されるお方として来られたのです。ですから、どんな汚れもイエス様を汚すことは出来ないのです。ちなみに、死の汚れはイエス様の復活によって打ち破られておりますので、キリスト教の葬式ではお清めの塩を配ったりはいたしません。
 この時、イエス様はこの男の人のどこに触れたのでしょうか。聖書には記してありませんので分からないと言えばその通りなのですが、私はこう思っています。この時イエス様は、この男の人の最も激しく病に冒されている患部、醜くただれた患部、自分も見たくないような最も汚れているそこに、手を伸ばして触れられたに違いない。何故なら、イエス様はいつもそうされるからです。私共が自分でも見たくない、触れたくない、隠しておきたい、そういう汚れた所に主イエスは触れてくる。そして、清め、癒やすのです。私共の罪が赦されるというのも、そういうことです。私共は、自分が罪人であるなどということは認めたくないのです。そんな所は人にも自分にも隠しておきたいのです。しかし、イエス様は「それを、わたしに隠しておいては駄目だ。そこが清められなければ、そこが癒やされなければ、あなたは健やかになれないではないか。」そう私共に迫られるのです。しかし、イエス様は無理強いはされません。この男の人のように、自分が癒やされること、清められることを主イエスに求めないのなら、自分の汚れを主イエスの前に清められることを求めないのなら、私共には何も起きないのです。主イエスの癒やし、清めはとても具体的なのです。主イエスが私共のことをはらわたを痛めるようにして憐れんでくださっている、それが十字架ではないですか。主イエスは十字架にお架かりになってまで、私共の一切の罪を赦そうとしてくださったのです。私共はこの主イエスの愛を信じて、自らの汚れ、自らの具体的な罪をすべてさらすのです。そして、すべてを癒やしてくださることを願い求め、すべてをお委ねすれば良いのです。そうすれば、必ず主イエスが事を起こしてくださいます。

4.だれにも話さないように
 さて、この男の人は主イエスに重い皮膚病を癒やしてもらってどうなったでしょうか。イエス様はこの男の人を去らせる前に、厳しく注意して、こう告げました。44節「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」主イエスは、祭司に体を見せて、清めの献げものを献げて、人々に証明するように言われたのです。この重い皮膚病は、単に癒やされるだけでは駄目だったからです。この病は汚れによるものと考えられておりましたから、清められたということが明らかにならなければ、社会復帰が出来なかったのです。汚れというのは宗教的な概念です。ですから、この清められたことを明らかにすることが出来るのは祭司でした。イエス様はこの男の人に社会復帰するための手続きをきちんと踏むように言われたのです。先ほどお読みいたしました、レビ記14章にその煩雑な手続きが記されています。これは簡単なことではないのです。
 そして、主イエスは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。」と言われました。どうしてでしょうか。それは、この後を見れば分かります。45節「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。」とあります。この男の人は、主イエスの言いつけを守らず、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。気持ちは分かります。嬉しくて仕方がなかったのでしょう。イエス様はそれが分かっていたので、「だれにも、何も話さないように」とわざわざ言われたのでしょう。それでも、この男の人は主イエスの言われた通りにはしなかったのです。その結果、何が起きたでしょうか。イエス様は「公然と町に入ることができ」なくなってしまったのです。イエス様は町の外の、人のいない所にいるしかなくなってしまったのです。何故か。それは、人々がこの男の人の癒やしを聞いて、イエス様に目に見える癒やしだけを求めて集まって来るようになったからです。イエス様は、カファルナウムの町においても同じ事が起きたので、宣教するためにカファルナウムの町を離れ、町々村々に出て来たはずでした。しかし、ここでも同じ事が起きてしまったのです。
 人々は主イエスにこのような目に見える癒やしだけを求めました。しかし、主イエスが来られたのはそのためではなかったのです。神の国の到来を告げ、悔い改めて福音を信じるようにと告げるためでした。しかし、人々はそんなことには関心がなく、目に見える癒やしだけを求めて集まって来て、その結果、イエス様は町の中に入ることさえ出来なくなってしまったということなのです。このような人々の姿を、「徹底的現世主義」と呼ぶことも出来るかと思います。本当のところ、イエス・キリストなどどうでも良いのです。ただその力だけが欲しいのです。自分に目に見える幸いが与えられさえすれば良いのです。しかし、それでは人は何も変わらず、まことの幸いから遠いままです。主イエス・キリスト御自身も、キリストの教会も、二千年の間いつもこの徹底的現世主義というものと戦い続けてきたし、今も戦っているのです。この徹底的現世主義というものは、まことに手強いのです。これは、いつの時代、どの国においても圧倒的な力を持っています。今も、この日本においても同じです。
 先週はクリスマスでしたけれど、世の人々がクリスマスに求めているものはサンタクロースであり、プレゼントであり、家族との楽しいひとときであって、決してイエス・キリストではないのです。私は、五つの幼稚園・保育園でクリスマスの奉仕をしましたが、そこで行ったことは、クリスマスをサンタクロースの手からイエス・キリストの手に取り戻すことでした。しかし、あまり成功したとは思えません。

5.主イエスの犠牲によって
 この男の人がしたことは、いわゆる証しであり、伝道でありました。ところが、ここで主イエスはそれをするなと言われた。どうしてでしょうか。教会では、いつも伝道しなさい、神様が自分にしてくれた恵みの御業を語りなさい、証ししなさいと言われているのではないでしょうか。しかし、この時主イエスはこの人に禁じたのです。それは、この人がまだ自分の身の上に起きたことを良く分かっていなかったからなのです。彼は、清めの儀式をするように主イエスに言われましたけれど、それをしませんでした。清めの儀式において行われることは、汚れを引き受ける犠牲が献げられるということです。しかし、彼はそれをしませんでした。よく分かっていなかったのです。もっとはっきり言えば、この人は自分の上に起きた癒やし、清めという業が、主イエスの十字架の犠牲ということによって与えられるものなのだということが分かっていなかったのです。十字架抜きの癒やし、十字架抜きの救いなど、言い広められてもらっては困るのです。
 この男の人は、町の中に入ることが出来るようになりました。その結果、主イエスは町の外にいることになったのです。この男の人はそのことが分かっていないのです。町の中に入れなかった男の人は町の中に入るようになり、町の中に入れていた主イエスは入れないようになった。それが、主イエスによるこの男の人の癒やし、清めにおいて起きたことなのです。先週のクリスマス礼拝において読んだ聖書の言葉、コリントの信徒への手紙二8章9節の御言葉を思い出してください。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」この御言葉は、クリスマスの出来事を指し示していると共に、何よりも十字架の出来事を指し示しています。馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされた幼子主イエスの姿は、十字架の先取りだったのです。それと同じように、重い皮膚病の人が癒やされ、清められ、町の中に入れるようになると、主イエスは町の外にいるようにされたのです。私共の救い、私共の清めには、対価があるのです。確かに、私共は無償で救われました。ただ主イエスを信じる信仰だけで救われました。しかしそれは、私共に代わって、私共のために、その対価を支払った方がおられたからです。犠牲となってくださった方がおられたからです。十字架という、自らの命をもって私共の罪の対価を支払ってくださった方がいた。主イエス・キリストです。その尊い血潮をもって、一切の罪の裁きから解き放たれ、自由になり、救われたのが私共なのです。私共の救いは、この神の御子の身代わりという出来事無しにはあり得ないのです。何故、キリストの教会には十字架が掲げられているのか。それは、この出来事によってキリストの教会が立っているからです。  十字架抜きの救いも、十字架抜きのクリスマスも、十字架抜きの癒やしも、私共は知らない。ただ十字架です。この主イエスの十字架のもとに集い、この十字架の主イエスをほめたたえつつ、来たるべき2014年も歩んでまいりたい。そう願うのであります。

[2013年12月29日]

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