富山鹿島町教会

礼拝説教

「洗礼者ヨハネの誕生」
マラキ書 3章1~5節
ルカによる福音書 1章57~80節

小堀 康彦牧師

1.洗礼者ヨハネの誕生
 アドベント第三の主の日を迎えております。ルカによる福音書は、主イエスの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生を記しております。それは、主イエスの誕生が、偶然、たまたま、その時に起きたことではなくて、神様の御計画の中で起きたことであり、旧約聖書において預言という形で示されていた神様の御心の成就であるということを示しているわけです。先程お読みいたしましたマラキ書にも「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」(3章1節)と預言されていたように、救い主が来られる前には、主の道を備える者、神様からの使者が遣わされることになっていたからであります。救い主が来られる前に、救い主に先立つ者、道を備える者が来ることが預言されており、それが洗礼者ヨハネであると告げているわけです。神の民は長い間、救い主が来られるのを待っておりました。アッシリアに、バビロンに、ペルシャに、ローマに、神の民は800年にわたって世界帝国と言われる巨大な国家に支配され続けました。その中で彼らは待ち続けたのです。そして、遂に救い主が来られたのです。それが主イエス・キリストでした。
 神様はアブラハムとの契約を忘れず、神の民に救い主を与えてくださったのです。そのことを指し示す者として、洗礼者ヨハネが主イエスの誕生に先駆けて生まれたのです。その意味では、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とを結びつける者としての位置が与えられていると言って良いかと思います。マタイによる福音書は、その冒頭において長い主イエスの系図を掲げることによって、旧約と新約とのつながりを示しました。それに対して、ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生を記すことによって、旧約とのつながりを示したということなのではないかと思うのです。

2.洗礼者ヨハネの誕生の前に
 今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが誕生した場面が記されておりますけれど、その前に何があったのかをまず少し振り返っておきましょう。1章5~25節に記されていることです。
 洗礼者ヨハネの父ザカリアは祭司でありました。彼が、神殿で香をたく務めをしていた時、天使ガブリエルが現れて、こう告げました。13~17節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」この天使ガブリエルの言葉の中に、生まれて来る子が救い主のために道を備える者であることが示されておりました。16~17節です。しかしこの時、ザカリアは天使ガブリエルの言葉を受け入れることが出来ませんでした。ザカリアも妻のエリサベトも既に年をとっていたからです。100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが与えられた出来事をザカリアは知っておりましたが、そのようなことが我が身に起きるとは信じられなかったのです。だから彼は、天使にこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」これは「しるし」を求めたということでありましょう。それに対して天使ガブリエルは、20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と告げ、ザカリアはその時から口が利けなくなってしまったのです。そして、それから妻のエリサベトは本当に身ごもったのです。

3.沈黙の10ヶ月
「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。」(57節)というのは、今申しましたようなことがあって、そして10ヶ月が過ぎて男の子が生まれたということです。当然、ザカリアはこの間、口が利けないままでした。この10ヶ月間の沈黙、それはザカリアにとってどういう時間だったのでしょうか。ザカリアは天使ガブリエルによって口が利けなくなってしまったわけですけれど、そのことを恨んで過ごす10ヶ月ということではなかったでしょう。そうではなくて、天使ガブリエルが言った言葉、先程お読みした1章の13~17節の言葉の意味を考え、思い巡らしていたのではないかと思います。そしてまた、アブラハムにイサクが与えられた時のような驚くべき奇跡が起きて自分たちにも子が与えられることの意味、神様がそのことによって示そうとされている御心、それらについて思い巡らす日々ではなかったかと思うのであります。
 10ヶ月というのは短い時間ではありません。しかし、本当に神様の御心を知り、そのことによって自分が変わる、神様の御業に仕え切る者となる、そのためには三日や一週間では駄目だったのではないかと思うのです。人が変わるには、時間が必要なのです。そして、口が利けなくなるというのは、日常的に忘れることが出来ないことです。声を発し、話そうとする度に、思い起こさせられることです。それは少しも観念的なことではなく、我が身に刻まれた神様の御業でありました。この神様の御業と共に10ヶ月間、ザカリアは生活しなければならなかったのです。このことは、とても大切なことだったと思います。ザカリアはそのような時を過ごし、そして遂に「月が満ち」たのです。

4.口は何のために
 私はここで、神様の御業を信じることが出来ないと言ったザカリアの口、その口が利けなくなった10ヶ月、そしてそこで変えられたザカリアのことを考えますと、私共の口というものについて改めて考えさせられるのです。
 私共の口はしばしば不平や不満でいっぱいになります。困ったことです。しかし、この口から出る言葉は、ただ口だけの問題ではありません。心にあることが口から出てくるのです。ですから、不平や不満というものは、自分の思い通り、願い通りに事が運ばなければ、それを誰かのせいにしてしまうという心の動きと結びついています。しかし、そうしている間は、私共は少しも変われないのではないかと思うのです。
 私は、初めて伝道者として遣わされた舞鶴という場所で、初めの一年間、とてもつらい苦しい時を過ごしました。伝道者として全くの新米ですから、何も分からない。しかも、近くには信頼出来る先生、相談できる先生はいない。牧師の勉強会もない。孤独でした。そして、あれが無い、これが無い、無いものばかり数えておりました。そして、いつも不平・不満ばかりを心の唇で呟いていました。しかし、二年目に気付いたのです。無ければ作ればいい。このことに気付いてからは、まことに自由になりました。私のために勉強会を開いてくださいと先輩の牧師にお願いして、毎月一回京都で勉強会を開いてもらうことにもなりました。神学書の読み方をここで教えていただきました。また、関西の若い牧師を集めての勉強会も作りました。本当に楽しい交わりが与えられました。少しも孤独ではなくなりました。無ければ作れば良い、そのために自分はここに遣わされたのだと思うようになりました。そして、その牧師の勉強会の交わりの中で、私と前任地の教会は、改革長老教会協議会、連合長老会へと導かれていくことになりました。

5.畏れに満ちた喜び
 さて、子どもが誕生するというのは、いつの時代でも、どこの国でも、喜ばしいこと、嬉しいことです。洗礼者ヨハネが生まれた時もそうでした。近所の人々や親類が皆喜んだのです。これは自然なことです。しかし、ここには神様の御業に対しての驚きと畏れがありません。私共を根底から支え、生かす、力ある喜び。それは神様の御業に対しての驚きと畏れというものと不可分です。自然な喜びというのは、悲しいことがあればそれによって取って代わられてしまうような喜びなのです。しかし、ここで神様がザカリアと妻エリサベトに与えられた喜びは、自然な喜びを超えた、神様への驚きと畏れに満ちた喜びでありました。
 生まれた子に割礼を施し名前を付ける。この命名式というものが、当時のユダヤにおいては大変重要で、近所の人や親類が集まって為される、子どものお披露目のような意味を持ったものでした。その時に、生まれた子に父の名を取ってザカリアと名付けようとしたのです。ザカリアの家は祭司の家でしたので、親類の多くも祭司だったはずです。親類の内の偉い人がそう言ったのかもしれません。しかし、その時母のエリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」と言ったのです。女性がこのような公の時に口を挟むことが許されるような時代ではありませんでしたから、人々は驚いたことでしょう。この嫁はなんということを言い出すのか。そんな空気が流れたことでしょう。そこで、人々は父のザカリアに「この子に何と名を付けたいか。」と尋ねました。するとザカリアは、口が利けませんので字を書く板を出させ、そこに「この子の名はヨハネ」と書いたのです。
 ザカリアは10ヶ月の間、口が利けませんでしたけれど、どうして自分が口が利けなくなったのか、神殿で天使ガブリエルに会った時のことを、妻のエリサベトに伝えていたに違いないと思います。口は利けないのですから筆談によったのでしょうが、ザカリアはエリサベトに事の成り行きを話したに違いないのです。そして、ザカリアもエリサベトも10ヶ月の間に、神様の御心をきちんと受け取り、それに応える者へと変えられていったのだと思います。
 何気ないことでありますけれど、この時ザカリアとエリサベトが同じように神様の御心を受け入れたということが、とても大切なことだと思います。ザカリアだけ、エリサベトだけ、ではなかったのです。ここには信仰において一つとされた夫婦がいるのです。これはまことに幸いなことです。
 ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた時、それはザカリアが単に天使ガブリエルの言った通りにしたという以上に、ガブリエルが告げたことをすべて受け入れた、信じたということを意味しています。示された神様の御心に従って歩んでいくということを意味していたのです。神様に対しての信仰の告白が、こういう形で成されたということなのであります。
 64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」とあります。10ヶ月の長い沈黙の後にザカリアの口から出て来たのは、神様への賛美だったのです。ここに、神様の御臨在に触れた者、生ける神様と出会った者の姿があります。私共の姿がここにあると言っても良い。私共は、ザカリアと同じように神様を賛美する者として、神様の救いに与ったのですから。
 ザカリアが神様を賛美する姿を見て、人々は恐れを感じたと65節にあります。どうして人々は恐れたのでしょう。それは、ザカリアの口が利けなくなったことから始まり、老いたエリサベトが身ごもったこと、子が生まれたこと、そして急にザカリアの口が開いて主を賛美したこと、その一連の出来事が神様の御業であることを知らされたからであります。彼らは今まで、普通に赤ちゃんの誕生を喜んでいたのです。しかし、この普通だと思っていた出来事が普通ではない、神様の御業であるということを知って、恐れたのです。
 私共はどうでしょうか。普通であると思っていることの中に神様の御業を見る眼差しを持っているでしょうか。神様の御業は私共の日常の中に溢れています。しかし、多くの場合、私共はその前を普通のこととして通り過ぎているのではないかと思うのです。私共の眼差しが神様の御業に開かれ、この唇が神様を誉めたたえるために開かれていくことを願うものです。

6.ザカリアの歌
 68節以下にザカリアが主をほめたたえて告げた言葉が記されています。これは、この部分のラテン語訳の聖書の最初の言葉を取って「ベネディクトゥス」と呼ばれ、1章47節以下のマリアの賛歌「マニフィカート」と共に、教会で大変重んじられてきたものです。
 このベネディクトゥスの中で、76~77節が洗礼者ヨハネに関するものです。それ以外はすべて、主イエス・キリストによってもたらされる救いの恵みを告げています。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」とあります。「幼子」とはヨハネのことです。そして彼は「いと高き方の預言者と呼ばれる」というのです。ヨハネはあくまでも預言者です。それは、自分の後に来られる主イエス・キリストを指し示す者だからです。「主に先立って行き」の「主」は、イエス・キリストを指しています。ヨハネは、主イエス・キリストに先立ってその道を整え、主イエス・キリストの民に、罪の赦しによる救いを知らせるのです。そういう者として来た、そうザカリアは歌ったのです。
 68節以下は、神の民イスラエルの歴史を振り返り、旧約において約束されていた神様の救いが成就されるということを歌っています。69節の「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」とは、イザヤ書11章1~2節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」という預言を思い起こさせますし、ダビデ契約も思い起こさせます。72~73節「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。」とあります。神様が救い主イエス・キリストを送り、救いの御業を成就してくださるのは、アブラハム契約以来の神様との契約に基づくと言うのです。実に、主イエス・キリストの誕生、その十字架と復活による救いの御業は、アブラハム以来の神様との契約に基づき、多くの預言者によって預言されてきた、神様の御計画、神様の御心の成就なのであります。
 そして、ベネディクトゥスは、78~79節「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」で終わっています。「あけぼのの光」とは、主イエス・キリストの光であります。この主イエス・キリストの光が、「暗闇と死の影に座している」すべての罪人を照らし、平和の道に導くのです。そして、主イエス・キリストによって与えられる新しい命の道は、平和の道なのです。平和への道ではありません。この方と共に歩む道だからです。この方の守りと支えと導きの中に歩む道だからです。この道を歩む者には平和が備えられるのです。そして、この平和の道を歩む者として、私共は招かれているのです。この主の平和を破ることが出来る者はおりません。どんな悪しき力も、この平和の道を潰すことは出来ないのです。罪も嘆きも死も、主イエス・キリストの御復活によって既に打ち破られているからです。
 ザカリアは10ヶ月の間、天使ガブリエルの言葉を思い巡らし、まことの救い主によって救いの成就が成されるということ、そのために我が子ヨハネが用いられること、そのような神様の救いの御計画の中で自分たち夫婦が選ばれたということを知るに至ったのでしょう。もちろん、それを悟らせたのは聖霊なる神様です。ザカリアの10ヶ月間も口が利けないという状況は辛い日々であったに違いありません。しかし、その時を神様の時として過ごした者は、神様を賛美する者へと変えられていくのです。私共もまた、そのような者として召されているのです。来週はクリスマスの記念礼拝です。忙しい日々が続きます。その日々を私共は、自らの口を不平や不満のために用いて過ごすのではなく、主が私に与えてくださった救いの御業を思い巡らす時としていきたいと思うのです。

[2013年12月15日]

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