1.私のためのクリスマス
今日からアドベントに入ります。週報にありますように、金曜日にはノアの会のクリスマス、土曜日には刑務所のクリスマス、北陸学院同窓会富山支部のクリスマス、教会学校中高科のクリスマスと、クリスマスを祝ういくつもの行事が行われます。クリスマス・リースが飾られ、アドベント・クランツの一本目のろうそくにも火がともされました。今日は、教会学校の子どもたちがクリスマス・ツリーの飾り付けをいたします。私共が主イエス・キリストの御降誕を喜び祝う。それは、この方によって私共が救われたからです。この恵みの事実がなければ、私共がこれほどまでにクリスマスを祝うということはなかったはずです。牧師にとってこのシーズンは、毎日がクリスマスに関わることになります。ほぼ一ヶ月間、毎日です。多忙と言えば多忙なのですけれど、このようにクリスマスを祝えること自体、何と幸いなことかと思っています。イエス様が私のために来てくださった。私のために天から降って来られた。私のために十字架にお架かりになり、私のために復活してくださったのです。まことにありがたいことです。ですから、クリスマスは私のための喜びの日であり、私のための祝いなのです。「私のためのクリスマス」なのです。
2.忙しい中でも祈る
さて、今朝与えられております御言葉は、35節「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。前の日の朝、イエス様は安息日の礼拝を会堂で守り、そこで教えを宣べられました。その時、汚れた霊に取りつかれた男が叫び出しましたので、イエス様は汚れた霊をその男から追い出されました。それから、シモン・ペトロの家へ行き、シモンのペトロのしゅうとめを癒やされました。やがて日が沈むと、悪霊を追い出したことが評判となったのでしょう、イエス様の所には、病気にかかっている人や悪霊に取りつかれた人が大勢やって来ました。その癒やしの業は真夜中まで続いたことでしょう。そして、「朝早くまだ暗いうちに」です。夜遅くまで続いた癒やしの業、その大変な一日の次の日なのです。私共でしたら、午前中はゆっくりしていたいところでありましょう。しかし、主イエスは日が昇る前に起き、人里離れた所で祈られたのです。
このことは、私共に大切なことを教えております。それは、イエス様は忙しい日々の中でも祈っておられたということです。それは、祈りにおける父なる神様との交わりこそ、イエス様にとってなくてはならないものだったからでありましょう。イエス様には必要だったけれど、私共にはそれ程必要ではない。そんなことは言えないでしょう。神様と一つであられたイエス様でさえ必要とされたのですから、私共にはなおさらのことです。ただ、この祈りの必要性というものは、神様との交わりが深く、豊かに与えられれば与えられるほど、必要になってくるということは言えるでしょう。私共が神様を知らなかった時、信仰を与えられていなかった時、私共は祈りを必要なものとは考えていませんでした。しかし、信仰が与えられて、神様との交わりの中に生きるようになって、祈らなければならないということを思うようになったのでしょう。ですから、祈ることとが私共と神様との交わりのバロメーターとも言えるでしょうし、祈ることでいよいよ私共の中に神様との交わり、神様への愛、神様への信頼が醸成されてくるとは言えると思います。
確かに、私共は祈ることが大切だということは知っています。しかし、知っているということと、祈っているということは違います。どのようにして私共は祈る人になっていくことが出来るのか。このことを本気で考え、やってみなければならないのでしょう。何を祈るのか。祈るとはどういうことか。そのようなことを学ぶことが、意味がないとは思いません。それらを弁えることは大切なことです。しかし、それを知ったからといって、祈るようになるとは限らないのです。祈りにおいて最も大切なこと。それは、祈ることです。実際に祈っていかなければ、祈りについてのどんな立派な考察も意味を持ちませんし、そもそも実際に祈っていない人は、祈りについて教えられても、何を言われているのか分からないのだと思います。それは水の中で泳いだことのない人に、どんな高度なスイミング理論を教えたところで、何を言われいるのか分からないのと同じです。
3.祈る者になるための三つの工夫
祈ることが大切であることを知りながら、祈る人になっていくための工夫や努力を怠るとすれば、それは怠慢でしかありません。私も洗礼を受けてから、ずっと祈りについていろいろなことを試しました。今、それをすべて言ういとまはありませんけれど、どうしたら祈りの人になれるのか。これは、すべてのキリスト者の課題でしょう。主の日の礼拝を守るということの他に、今日は三つのことだけを申します。どうか、是非、今日から実践してみてください。
第一に、食前の祈りをする。決まった言葉でも良いですし、短くても構いません。出来れば家族みんなでするのが良いでしょう。声を出して祈った方が良いです。言葉が分からなければ、私に訊きに来てください。我が家は子どもが生まれてからずっと同じ言葉で祈っています。食前の祈りが身につきますと、一日三回は祈ることになりますし、食べるという私共の生活の根本が、神様の憐れみの中にあるということが明らかにされ、心に刻まれることになります。小さな習慣ですが、これはとても大切です。既にこれはやっているという人の方が多いでしょう。
第二に、聖書を学び祈る会に出席する。これはなかなか大変です。皆さん忙しいのですから、そのための時間を取るのは本当に大変です。しかし、私共が祈らない最大の理由は、この祈りのための時間を確保するという戦いに負けてしまうからです。この戦いを諦めずに行い、週の半ばの日に聖書を読み、共に祈る。このことを習慣付けていく中で、私共の信仰生活は確実に変わっていきます。私共は本当に忘れやすいからです。主の日に与えられた御言葉、神様との交わりを、日々の忙しい歩みの中で忘れてしまうのです。それを思い起こし、心に刻む。これは大切な時です。
第三に、祈りのカードを作る。私は現在、カードがリングで閉じられた、学生時代に使ったような単語帳を使っています。私共は、自分のことや家族のために祈るということはするでしょう。しかし、私共の祈りはそこに限定されることなく、どんどん広がっていきます。この執りなしの祈りはとても大切です。その際に、誰のために何を祈るのか、そのことを忘れないで祈るために、カードを用いるのです。カードを繰りながら祈るのです。カードはどんどん増えていきます。そこで、私が本当に祈らなければならないことは何かということを考えることにもなります。別にカードでなくても良いのです。祈りのノートでも良い。それを使って、毎日祈る。空いた時間に祈る。私は、出張の電車や移動のバスに乗っている時間は、これに使うようにしています。
祈りについてお話しすることはいくらでもあります。でも、まずこの三つをやってみてください。そうすれば、私共の祈りの生活は確実に変わっていきます。
何故イエス様は、忙しい最中、疲れ切っていたに違いない体で祈られたのか。それは、必要だったからです。祈りは私共に必要なことなのです。何故なら、私共の信仰は、父なる神様との交わりそのものだからです。私共は、主の日のたびごとにここに集って礼拝をささげています。それは、私共の信仰に必要なことだからです。まず週の初めの日に礼拝をもって歩み出す。他のことは横に置いて、ここに集う。それは、それが私共に必要なことだからです。私共の祈りの生活の中心に主の日の礼拝があって、ここから遣わされていくそれぞれの所において、六日間の祈りの生活が為されていくのです。そして、祈りの時間を確保するためにはどうしても、仕事であれ何であれ、とりあえずそれを横に置く、中断するということが必要です。私共は暇になんかならないのですから。いつだって忙しいのですから。その中で祈るためには、どうしても戦わなければならないのです。祈ろうとしない私と戦わなければならないのです。
4.宣教するために来られた主イエス
主イエスが祈っておられますと、イエス様がいないのに気付いた弟子たちが、イエス様を捜しに来ました。そして、主イエスにこう言います。37節「みんなが捜しています。」この「みんな」とは誰のことでしょう。日が昇り、多分昨日と同じように多くの人たちが主イエスの癒やしを求めてやって来ていたのでしょう。ところが、肝心のイエス様がおられない。それで、弟子たちが主イエスを捜しに来たということなのでしょう。イエス様は、こうなることを分かっておられたと思います。だから、シモン・ペトロの家から出て、人里離れた所に来られたのでしょう。あの家にいれば祈ることさえ出来ない。そのことを良く分かっておられたからです。
主イエスの癒やしは、瞬く間に評判になったのです。その話を聞いて、大勢の人が主イエスのもとに来た。弟子たちも、主イエスが行われる癒やしを見、人々がイエス様のところに押し寄せて来るのを、興奮をもって喜んでいたことでしょう。そして弟子たちは、当然イエス様は引き続き人々を癒やされると思っていたでしょう。
この箇所と同じ記事が、ルカによる福音書4章42節以下にあります。そこでは、42節「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」とあります。カファルナウムの人々は、イエス様の癒やしの奇跡を見て、自分たちのところに引き止め、自分たちのために、自分たちだけのために、イエス様を囲い込もうとしたのです。気持ちは分かります。どうにもならないと思っていた病気が治る。悪霊が追い出される。このような力のある方が自分たちの町にずっといてくれたら、どんなに安心か。引き止めておきたい。それはちょうど、無医村にお医者さんを迎えることが出来た感覚と同じなのではないでしょうか。人々は主イエスによって癒やされました。しかし、主イエスは人々を癒やすために来られたのではないのです。人々が主イエスに求め、主イエスを喜んで受け入れたのは、この一点においてだった。ここには誤解があります。すれ違いがあります。弟子たちも、そのように人々に主イエスが求められることを喜んでいたと思います。
主イエスは、この人々の求めにどう応えられたでしょうか。38節「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」とあります。主イエスは冷たいのでしょうか。カファルナウムの人々を見捨てたのでしょうか。そうではありません。主イエスは神様によって遣わされた目的をしっかり弁えて、ぶれなかったのです。イエス様は、カファルナウムの人々のためにだけ遣わされたのではありませんし、人々の病気を癒やすために来られたのでもありません。主イエスの為された癒やしは、主イエスが誰であるかということを明らかにするための「しるし」であって、主イエスが来られた目的ではないのです。しかし、人々はそれを目的にしてしまいました。そして、主イエスにそれを求めました。しかし、主イエスは御自分が誰であり、何のために来たのかを知っておられました。そして、その神様の目的に従われたのです。その目的とは、宣教です。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と告げていくことです。もちろんそれは、言葉だけで告げていくことではありません。神の国の到来は、主イエス・キリストと共に来られたのですから、主イエスが誰であるかということを明らかにすることと別のことではありません。主イエスは引き続き、癒やしもされます。しかしそれは、主イエスが誰であるかということを示すための「しるし」です。主イエスは、悔い改めて福音を信じることを求められるのです。病気が治れば良いという思いの中に生きている人が、そうではなくて、神様の御心に従って生きていかなければ生きている意味がないという風に変えられていくこと、そのことのために主イエスは来られたのです。目に見えるこの世界がすべてだと思っている人々に、否、神の国がある、もう来ている。その神の国に生きる者になろう。そう人々を招き、救いに与らせるために来られたのです。そのために、神様の御支配に敵対する悪霊を追い出されるのです。
5.出かけて行く主イエス
主イエスは一つ所にとどまって、「救われたい者はここに来い。」と言うような方ではありませんでした。カファルナウムのシモンの家にいて、癒やしを求める人々、悪霊を追い出してもらうために来る人々に向かって、宣教しても良かったはずです。癒やしの業が評判を呼んで、ユダヤ全土から多くの人たちが来るようになるのもそう遠くはなかったかもしれません。その方が効率的だったかもしれません。しかし、主イエスはそうはなさらなかった。主イエス御自身が出かけて行ったのです。何故か。それは、父なる神様御自身が罪人を捜し求めるお方だからです。創世記の第3章で、罪を犯し、神様から身を隠したアダムとエバに対して、主なる神様は「どこにいるのか。」と声をかけ、捜されました。この「どこにいるのか。」という罪人を捜し求める父なる神様の御声が、聖書の全巻に鳴り響いています。そして、この神様の御心が現れたのが主イエス・キリスト御自身でした。ですから、主イエスは出て行って、宣教するのです。それが父なる神様の御心だからです。そして、これがキリスト教会の宣教の仕方、伝道の仕方となったのです。二千年間のキリストの教会の宣教は、いつも出て行くことによって為されてきたのです。
1977年にトマス・ウィンは、アメリカから出て来て、日本にキリストの福音を宣教するためにやって来ました。そして1979年に金沢での伝道を開始し、翌1980年に17名の洗礼者と共に金沢教会が設立されました。そしてさらにその翌年、1981年に彼は富山に来たのです。このように出て来てキリストの福音を伝える者がいなかったら、この町に福音が伝えられることもありませんでしたし、私共が救われることもありませんでした。当然、クリスマスを喜び祝うこともなかったでしょう。主イエスが宣教のために出て行かれたように、キリストの教会は出て行き続けたのです。ですから、私共も出て行くのです。
ここでイエス様が言われた「近くのほかの町や村へ行こう。」との言葉は、ある英語の訳では「Let's go on to the next towns.」となっています。「レッツ・ゴー」です。イエス様は弟子たちに「レッツ・ゴー」と言って、次の町へと行かれたのです。イエス様が先立って行かれるのです。私共は隣の町にまで行かなくても良いでしょうが、クリスマスを迎えようとするこの時、このイエス様の御声に聞いて、友人・知人・近所の方々を教会にお誘いしてまいりましょう。教会は、そのためにチラシも作りました。ハガキも作りました。伝道部の方から、この礼拝後、案内があると思いますが、それらを用いて家族・友人・知人・近所の方々お誘いしてまいりましょう。お誘いしても来られないかもしれません。それはそれで良いのです。大切なのは、私共がイエス様の御声を聞いて従うということです。イエス様が「さあ、行こう」と私共を宣教へと招いてくださっているのです。イエス様は私の所に来てくださいました。だったら、私の家族、友人、知人の所にも来てくださるはずです。私共は、神様の憐れみの中で、その人たちよりほんの少し早くイエス様と出会わせていただいただけなのですから。
[2013年12月1日]
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