富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの権威」
エゼキエル書 21章29~32節
マルコによる福音書 1章21~28節

小堀 康彦牧師

1.安息日の会堂にて
 「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」と聖書は告げます。これが、マルコによる福音書が告げる主イエスが具体的に神の子、救い主として人々の前に公に姿を現され、人々を教えられた最初の時です。「一行」とあるのは、直前に主イエスによって召し出されて弟子となった四人の者、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、それに主イエスを合わせて五人のことを指しています。彼らは、ガリラヤ湖の北西の湖畔の町、カファルナウムに来ました。そして、安息日にシナゴーグと呼ばれる会堂に行きました。当時、ユダヤの人々は、土曜日の安息日にはシナゴーグと呼ばれる会堂で礼拝を守っていたのです。このシナゴーグにおける礼拝は、祈りと賛美と旧約聖書の朗読、そしてその聖書箇所についての説教が為されておりました。まるで、私共の主の日の礼拝のようですが、キリスト教の礼拝はこのシナゴーグの礼拝のあり様を受け継いだものだと考えて良いでしょう。イエス様が最初に教えられたのは、この会堂における安息日の礼拝においてだったのです。
 これは、偶然たまたまそうなった、ということではなかったと思います。ここには主イエスの明確な意図があったのだと思います。それは、安息日の礼拝において聖書の朗読と説教という形で為される神の言葉の告知は、本来、主イエス御自身が為さなければならないことであったということです。何故なら、主イエスは神の御子であり、神の言葉そのものであり、神様の御心をはっきりと御存知であるただ独りのお方だからです。また、旧約聖書において御心を示された神様が、今、御子を遣わされるというあり方において御心を示されたからです。天と地を造られた全能の神様が、主イエス・キリストという存在を通して、その言葉と業とをもって御自身を顕されたのです。ですから主イエスは、神様の御心を現し、告げる者として、安息日の会堂に来られたのです。神の御子が、神様の御心を伝える最もふさわしい場所、それがシナゴーグにおける安息日の礼拝という場だったからです。
 もちろん、主イエスはこの時、「わたしこそが神の御子であり、救い主である。」とは言っておられません。まだ時が来ていないからです。そのことが明らかにされるのは、十字架と復活の時です。しかし、主イエスは自らが神の子、救い主であることを隠しておられたわけではありません。いや、それはそもそも隠そうとして隠し切れるものではないのです。主イエスの存在そのものが、そのことを現してしまうからです。それはちょうど、たくさんの鯉の中に一匹だけ錦鯉がいるようなものです。本人が言い出さなくてもおのずと明らかになってしまう、そういうことだったのだと思います。

2.権威ある者として語る
 主イエスはこの時、安息日の礼拝の中で説教されました。当時の安息日の礼拝は、私共の礼拝のように、週報があってその日の礼拝の順序や役割があらかじめ決まっている、そういうものではなかったのでしょう。もう少し、自由な形であったようです。多くの場合、その町のラビと呼ばれる律法学者が、その日の聖書の箇所について説教をしたようですが、それ以外の人は説教することは出来ない、してはいけないということではなかったようです。この時、主イエスが何をお語りになったのかは記されておりませんので分かりません。しかし、どのようにお語りになったのかは、ある程度想像することが出来ます。22節に「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあります。人々は主イエスの教えに非常に驚いたのです。それは、いつも聞いている律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからでした。律法学者というのは、学者ですから、「聖書にこう記されているのはこういう意味です。」「偉い先生はこのように説明、解釈しています。」そのように語っていたのでしょう。しかし、主イエスは、誰々はこう言っている、こう解釈しているということではなくて、「この聖書が告げているのはこのことである。」「神様がこの聖書の言葉によって告げたかったことはこういうことである。」そのようにお語りになったのだろうと思います。なぜなら、イエス様は神の御子ですから、神様と一つであられ、それ故神様の御心を完全に知ることが出来たからです。このように語ることは、どの人間にも出来ないことですし、許されないことです。
 主イエスが権威ある者として語られたその根拠は、主イエスが神の独り子、救い主であるという事実に基づいています。主イエスの権威は、人間によって与えられたり、認められたりするものではなく、存在そのものから発せられるものでありました。これは地上のどのような権威とも異なります。地上の権威というものは、王様であれ、宗教的権威であれ、人間が与えたり、人に認められて成立しているものです。ですから、その人が身に帯びている権威とその人自身との間には、いつも分裂があるのです。例えば、その道で大変な業績を収め、ナンバーワンとしての権威を持つ人であったとしても、その人の人格とその道での業績とは何の関係ありません。ですから、その道ではナンバーワンとしての権威を持つ者であったとしても、まことにとんでもない、あきれてしまうようなことを平気で言ったり、行ったりするということが起きるのです。しかし、主イエスの権威というものは、神の御子としての存在そのものから出てくる、隠しておくことが出来ない権威でありますから、主イエスが語られたこととその為される業、そしてその人格との間には全く矛盾がないのです。

3.汚れた霊を追い出す
 そしてそのことが明らかになる出来事が、この時起きたのです。主イエスが安息日の会堂で教えを語られた時、汚れた霊に取りつかれた男が突然大声で叫びだしたのです。礼拝中にそんなことが起きれば、みんな驚き、その場は騒然となったことでしょう。この時主イエスは、この汚れた霊に向かって「黙れ。この人から出て行け。」と叱りつけました。そして、この男から汚れた霊を追い出したのです。
 主イエスは、突然のことでありましたけれど、御自身に汚れた霊を追い出すことが出来る力があることを示されました。主イエスの権威が、力を伴わない、ただの張り子の虎のような見せかけのものではないということが明らかにされたのです。主イエスの権威は、神の子、救い主としての権威であり、それ故主イエスには父なる神様の力が伴っているのです。これはとても大切なことです。主イエスは、権威ある者として語るけれども、この世界においては力なき者であるという理解は、聖書が告げている主イエスの姿とは違います。聖書が告げる主イエス・キリストというお方は、力と権威に満ちた方なのです。

4.汚れた霊の言葉
 ここで、汚れた霊に取りつかれた男が叫んだ言葉に注目してみましょう。この言葉は、この男の口から出たものではありますが、この男の言葉というより、この男に取りついた汚れた霊が語った言葉と考えて良いと思います。
 ここで第一に驚くことは、この汚れた霊は主イエスを知っていたということです。「ナザレのイエス」と言い、「正体は分かっている。神の聖者だ。」と言うのです。この時、主イエスが誰であるかを知っていた人は一人もいませんでした。しかし、この汚れた悪霊は知っていたのです。このことは、主イエスというお方が、見えない霊の世界においては隠れようがない存在であったということでありましょう。天と地を造られた神様の独り子。それが主イエスの霊の世界における身分、立場であったということであります。実に、主イエスが誰であるかということは悪霊でも知っていることであって、知っているだけなら、何の力にも救いにもならないということです。主イエスが誰であるかを知って、それ故、主イエスを信頼し従うということでなければ、意味がないのです。救われないのです。
 第二に、この汚れた霊は「我々を滅ぼしに来たのか。」と叫びました。これは、悪霊は主イエスが何をしに来たのかということも知っていたということです。一切の悪しき霊の支配を打ち破り、神の支配、神の国を来たらせるために、主イエスはおいでになった。霊の世界においては、このことも明らかなことであるということです。このことは、ルカによる福音書の2章において、主イエスがお生まれになった時、天使が羊飼い達に救い主の誕生を告げたわけですが、この時「天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」と記されています。主イエスの誕生は、地上においてはまことに密やかな小さな出来事でした。まだ幼いと言った方が良いほどのマリアと大工のヨセフが、旅先の馬小屋で出産したというだけのことです。誰も注目することもない、小さな出来事でした。しかし、天上においては、霊の世界においては、隠しようがない大事件であったということなのであります。天地創造以来の神様の決定的な救いの業が開始された時だったからです。永遠の神の独り子が、天上より人間の赤ちゃんとしてた降られた時だったからです。悪霊はそのことを知っていたのです。
 第三に、汚れた霊は「かまわないでくれ。」と叫びました。これは、汚れた霊は主イエスとの関わりを拒むものであるということを示しています。ここに、聖霊と悪霊の決定的な違いがあります。主イエスとの関わりを邪魔し、これを拒むのは、悪霊の業であるということです。私共は悪霊をこの目で見ることは出来ません。しかしその働きは、これを基準に考えますと、すぐに分かるのです。
 第四に、この時汚れた霊は自分のことを「我々」と複数形で言っています。これは、この男に取りついていた汚れた霊が一つではなかったということを示しています。そのことは、この男に取りついていた悪しき霊の力が大変強力であったということを示しているのでしょう。またこの男は、自分の思いとは違って、汚れた霊の言葉を言わされているわけで、汚れた霊は私共の人格を分裂させる、そういうことも考えられると思います。私共が神様を信じ、主イエスと共に歩む時、私共はいつでもどこでも何をしていてもキリスト者です。神様の御前に生きる者として一貫しています。しかし、悪霊の影響の下にある時、私共はしばしば分裂してしまうのです。その時の立場などによって、言うことが違ってしまう。しかも、その矛盾に気づきもしない。これは、日本の社会の中では普通に見られることであり、当たり前と考えられているかもしれません。しかし、これはまことに奇妙なことなのではないでしょうか。一人の人間が分裂しているのです。日本では、本音と建て前という言葉があります。しかし、キリスト者に本音と建前というものはあり得るのでしょうか。私は、この本音と建前を良しとする文化、その場その場で全く違ったら人間になってしまう人格分裂症とでも言うべきことに何ら疑問を抱かない文化、それは汚れた霊の影響の下にあるからなのではないか、そう思うのです。人格が分裂していてもいっこうに変だと思わないということは、実に変なことなのです。このことは、私共が聖霊の導きの中で生きる者とされる時、明らかにされてきます。

5.何故、汚れた霊を黙らせたのか。=メシアの秘密
 さて、主イエスは、汚れた霊に対して「黙れ。」と言われます。この時、悪霊は主イエスが誰であるかを知っていました。この時主イエスを知っていたのは彼らだけです。主イエスは神の独り子、救い主として教えを宣べ伝え始めたところです。だったら、ここで汚れた霊を黙らせないで、主イエスが誰であるのか、はっきり言わせれば良かったのではないでしょうか。宣教のためにこの汚れた霊を利用すると言ってはなんですが、これを用いるということをしても良かったのではないでしょうか。どうして、汚れた霊、悪霊に語らせることを止めさせたのでしょうか。実は、マルコによる福音書の中には、このことは何度も何度も語られるのです。この後の34節でも「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」とあります。また、3章11~12節には「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。何故、主イエスは悪霊を黙らせたのでしょうか。いろいろと理由は考えられます。
 一つには、悪霊の語らせるままにしておけば、悪霊が主イエスを聖なる方と言えば言うほど、主イエスと悪霊が仲間であると受け取られかねないということがあったと思います。また、悪霊はその本来のあり方からして、主イエスによって完成される神様の救いの業を邪魔する、そうはさせないと働くものです。とすれば、この主イエスの宣教の最初から汚れた霊、悪霊が出てくるのは偶然ではなくて、意図があった。悪霊に意図があった。悪霊が主イエスを神の聖者だと言うのにも意図があった。そう考えるべきではないかと思います。その意図とは、主イエスを十字架に架からせないという意図です。もし人々が主イエスを神の聖者、神の遣わされた救い主と受け止めたなら、彼らは主イエスを祭り上げ、ローマの支配から独立するための道具としたことでしょう。そうなれば主イエスは英雄となり、十字架はなくなります。これこそ、悪霊たちの本当の狙い、目的だったのです。主イエスはそのことも御存知でした。そして、悪霊がどんなに良い顔をして近づいてきても、これを退け、語ることさえお許しにならなかったのです。

6.私共の為すべきこと
 私共は、これらのことから何を学ぶのでしょうか。
 第一に、私共はこの世の権威を恐れることはないということです。私共はキリストのものとされたのですから、ただ神様の権威の前にひれ伏すのであって、この世の力や権威の前にひれ伏すことはないのです。ここに、キリスト者という新しい人格の特徴が現れるのです。ただ、誤解されては困るのですが、それはこの世の秩序を無視するとか、人々を上から見下ろして尊大な人になるということとは全く違います。私共は、市民としての義務を忠実に果たす良き市民であり、キリストに倣って、謙遜な者として歩むのです。しかし、信仰の事柄においては、決してこの世の権威に膝を屈めないのです。
 第二に、悪しき霊の業を見分けて、これを退けるということです。この世においては、悪しき霊がいつも私共の信仰の歩みを弱めようと働いています。このことに、私共は鈍感であってはなりません。私共の罪を利用し、神様から離れさせようとする悪霊のうまい口車に乗ってはいけないということです。もちろん、私共にはそれを遂行していくだけの力はありません。ですから、キリストの霊である聖霊なる神様の助けを求め、聖霊なる神様の導きの中でこれを為していくということなのであります。
 ただ主イエスを我が主、我が神と告白し、御名をほめたたえつつ、この一週もまた、御国への歩みを確かにしてまいりましょう。

[2013年11月17日]

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