1.アブラハムの召命
神の民の歴史はアブラハムから始まります。神様はある日、アブラハムにこう告げられました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」アブラハムはこの主の言葉を受けて、この言葉に従って旅立ちました。これが神の民の始まりです。今から四千年近くも前のことです。このアブラハム以来、神様の召しを受け、その召しに応えて歩む民としての神の民が誕生しました。ここに、神の民とは如何なる者であるかということが明確に示されております。神の民とは、神様によって召し出され、その召しに応えて生きる者の群れなのです。この時アブラハムは75歳であったと聖書は記します。決して若くはありません。既に家族もあり、生活の基盤を持ち、それなりに安定した生活をしていたことでありましょう。そのアブラハムに、神様は突然、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」と告げるのです。そして、アブラハムはその神様の言葉に従って旅立ったのです。
聖書は、この出来事について何も説明をしません。この記事を読む人は、いろいろな?(ハテナ)、疑問を持つでしょう。どうして神様はアブラハムにこんなことを告げたのだろう? どうして他の人ではなくてアブラハムだったのだろう? そして、どうしてアブラハムはこの神様の言葉に従ったのだろう? アブラハムは生まれ故郷を、父の家を離れるのに不安はなかったのだろうか? いろいろな疑問が出て来るかもしれませんが、聖書はそれについて一切の説明を記していません。しかし、この出来事は何の説明もないから、何のことが語られているのかさっぱり分からない、そういう出来事ではないのです。そうではなくて、この出来事には確かに何の説明もされておりませんけれど、それは神の民にとって自明のこと、分かり切ったことだからなのです。何故なら、このアブラハムと同質の出来事に与った者、それが神の民だからです。神の民は皆、アブラハムと同じように神様からの召しを受け、その召しに応えて、神の民に加えられた者たちだからです。アブラハムのこの記事を読んで、神の民に連なる者は、私にもアブラハムと同じことがあった、だから今こうして神の民に加えられ主の日の礼拝を守っているのだ、そう言えるのです。
2.神様の召命によって生まれる神の民
この神様による召し出しを召命と言います。神の民とは、神様から召命を受けた者なのです。もちろん、アブラハムに与えられた召命は、アブラハム固有のものです。アブラハムだけに与えられたものです。しかし神様は、アブラハムに臨んで御自身の御計画に基づいて召命を与えられたように、私共一人一人の上に臨み、御言葉を与え、神様と共なる新しい歩みへと私共を招いてくださいました。この招き、この召し出しによって私共はキリスト者となり、今もキリスト者として歩んでいるのです。
私共が教会に来るようになったきっかけ、動機は様々でありましょう。親がキリスト者で、気がついた時には教会に居たという人もいるでしょう。若い日に、真理を求めて教会の門を叩いたという人もいるでしょう。中年になってから、様々な問題を抱えて神様に助けを求めるようにして教会に来たという人もいるでしょう。或いは、夫が、妻がキリスト者で、誘われて教会に集うようになったという人もいるでしょう。その動機、きっかけは様々であります。しかし信仰が与えられますと、自分が自発的に求めて教会に来たつもりでいたけれど、本当は神様に招かれていたのだということを知るようになります。このことを知るということが、私共の信仰において決定的に大切なことなのです。信仰は、私共が手に入れるものではなくて、神様が与えてくださるものだからです。しかし、このことを説明して分かってもらうことは、とても難しいのです。何か信仰の本を読んだり、キリスト教の歴史やその教えのようなものを学べば、信仰が分かる、信仰を手に入れることが出来る。そういうものでは全くないからです。もちろん、聖書を読み、信仰の書を読んで学ぶということは、とても大切なことです。しかし、そういう学びをしていけば分かるというものではないのです。キリスト教の信仰というものは、キリスト教的考え方とか概念といったものを理解することではないからなのです。そのように申しますと、だったらどうすれば分かるのか、それを分からせるのが牧師の仕事ではないのか、と言われるかもしれません。そんな風に言われると本当に困ってしまうのですけれど、キリスト教の信仰というものは、神様によって与えられるものですから、何とも仕方がない所があるのです。ただ、どのようにして与えられるのか、このことについては答えることが出来ます。それは、神様の語りかけ、神様の招き、神様の召し出しによってだということです。
3.主イエスの最初の四人の弟子
先程アブラハムの話を見ましたが、イエス様の最初の弟子となった四人の弟子の場合を見てみましょう。16~18節「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」イエス様は洗礼を受け、荒れ野でサタンからの誘惑を受け、遂にガリラヤで福音を宣べ伝え始められたのですが、そこで最初に何をなさったかと申しますと、弟子を召し出したのです。最初の弟子は、シモン(これは後にペトロと呼ばれるようになる人です)とその兄弟アンデレでした。彼らはガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。彼らはいつものように網を打って魚を捕っておりました。すると、そこに主イエスが来られ、いきなり「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われたのです。そして、この二人は「すぐに網を捨てて従った。」主イエスの弟子になったのです。次に19~20節を見ますと、「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」とあります。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。彼らも漁師でした。そして、主イエスは彼ら二人にもきっと、シモンとアンデレに言った言葉を継げたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と。すると、このヤコブとヨハネもまた、父も雇い人も舟も残して、主イエスに従ったのです。
ここで、アブラハムが召し出された時と同質の出来事が起きています。ただ、ここで四人に与えられたのは神様の声ではなく、主イエス・キリスト御自身の語りかけでした。主イエスが四人に声をかけ、「わたしについて来なさい。」と告げたのです。どうしてこの出来事がアブラハムに起きたことと同質のことと言えるのか。それは、イエス・キリストというお方がまことの神、神の独り子であるからです。主イエスの「わたしについて来なさい。」という招き、召し出しによって、キリスト教会最初のキリスト者は誕生したのです。
4.召命への問い(1)
ここでまた、アブラハムの時と同じようにいろいろな疑問が生まれてくるでしょう。第一に、どうして神様は、イエス様は、シモン・アンデレ・ヤコブ・ヨハネに声をかけ、召し出しされたのか。理由は記されておりませんので、神様が御心の中でお選びになったからとしか言いようがないのですが、この四人の資質、能力、性格といったものによるのではないということは言えるでしょう。彼らは漁師でしたから、決して教養があったり、教育を受けた者であったり、育ちが良かったり、財産があったり、ということではありませんでした。このことは、私共が主イエスの弟子であるキリスト者とされたのも同じです。私共の中にキリスト者になるに適している、相応しい性格やら、能力などがあったからではないでしょう。神様が何故か私共を愛し、選んでくださったからなのです。
5.召命への問い(2)
第二に、どうしてイエス様は福音を宣べ伝えるに際して、弟子を求められたのか。私共が弟子を取るといった場合、一人では大変なので、手伝いをする者を求めるということがあるかもしれません。しかし、主イエスが弟子を取られたのは、そういうことではないでしょう。そうではなくて、主イエスの弟子になって、主イエスについていく、従っていく、そのような者が主イエスの救いに与る者だからなのです。主イエスの告げる福音を信じ、救われるということは、主イエスに従うということと切り離せないことだからです。もっと言えば、主イエスを信じるということは、主イエスに従うということだからです。主イエスは、福音を宣べ伝え、これを信じる者が救いに与り、そして救いに与る者が世界中に満ちるようになること、すべての者がこの救いに与るようになることを求められたわけですが、それはすべての者が主イエスの弟子になる、主イエスに従う者になるということなのです。ですから、主イエスは福音を宣べ伝えると共に、弟子を作られたのです。イエス様の語られた教えは素晴らしいし、本当だと思うけれど、私はイエス様に従うのではなく、私の考え方、生き方において参考にさせていただきます、という人が居ます。しかしこれでは、主イエスの救いに与ることにはならないのです。これでは、私が主、イエス様は従ということになってしまいます。
6.召命への問い(3)
第三に、どうしてシモンもアンデレもヤコブもヨハネも、主イエスの言葉によってすぐに網を捨て、父や雇い人や舟を残して主イエスに従ったのか。これは、アブラハムの場合と同じ問いです。この問いの背後には、「私は、仕事も家族も捨てられない。そこまでしなきゃいけないのか。」という思いがあるのだと思います。これに対して、まず確認しておかなければならないのは、この召命は、シモン・アンデレ・ヤコブ・ヨハネに対してのものであったということです。アブラハムの場合も同じです。神様の召命というものは、人それぞれ違うのです。私は牧師になるよう召命を受けました。ですから会社を辞めました。でも、誰もがみんな牧師になるわけではありません。皆が牧師になってはいけないのです。牧師だらけで信徒がいなくなってしまうからというのではありません。召命を受けた者しか牧師になってはいけないのです。大切なことは、自分に与えられた召命は何かということを、しっかり受け取ることです。それは、私にはこれが出来る、この能力がある、だからこれをする、というのとは全く違うのです。神様がこれをするように召してくださった、だからこれをするということです。この召命は、誰一人として同じものはありません。ですから、自分に与えられた召命をしっかり受け止めることです。そして、それに応えるのです。
7.召命によって与えられる信仰
今、牧師の場合を申し上げましたけれど、牧師だけが召命を受けているわけではありません。すべてのキリスト者は、召命を受けてキリスト者となったのです。神様の、イエス様の、語りかけ、招き、召し出しを受けて、信仰を与えられたのです。この召命の出来事が、私共の信仰の原点なのです。信仰が与えられるものだというのは、このことを指しているのです。神様・イエス様からの語りかけを聞かなければ、私共は信じようがないのです。この神様・イエス様からの語りかけというものは、聖書を読んでいて、或いは主の日の礼拝の説教の中で、或いは一人で祈っている中でといろいろな場合があるでしょうが、本当に神様が私を愛してくださり、私を救おうとして、私を招いてくださっているということを受け止めることが出来た時に与えられるものです。それは、自分の罪を明確にされるというあり方で示されることもあるでしょう。それは、聖なる体験とでも言うべきものでありましょうけれど、そのあり方は様々です。その人に一番良いあり方で、神様は私共に語りかけてくださるのです。生まれた時から教会に居るような人は、少しずつ少しずつ、神様と共に生きる、イエス様に従って生きるという思いが育まれていくということもあるでしょう。ある時、聖書の言葉が鋭く胸に刺さってくるという場合もあるでしょう。いずれにせよ、神様・イエス様が私共に迫るということが起きるのです。それが召命というものであり、この召命によって私共に信仰が与えられるのです。
この召命を受けた者にとって、召命を退けるということは可能でしょうか。つまり、アブラハムが神様の言葉を聞かなかったことにして旅立たない。シモンやアンデレ、ヤコブにヨハネが、主イエスの「わたしについて来なさい。」という言葉を無視する。これらは可能なのでしょうか。理屈から言えばそういうこともあるのでしょうが、しかし実際には、それはあり得ないと思います。神様・イエス様が、天地を造られた神様の権威と力を持って私共に迫る時、私共はただ畏れと喜びとをもってそれに従うしかない。そこに生まれる新しい私としての歩みを、献身と言うのです。
8.召命から献身へ
召命は献身を生むのです。そして、この献身する者の群れを神の民と言うのです。献身というものは神様の召命によって生まれるものですから、そのあり方もまた、一人一人違っているのです。ですから、献身の有り様というものは、決して人と比べることは出来ません。ただ私共に求められることは、神様からの召命に忠実であるということだけなのです。ですから、アブラハムやシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネと、自分を比べることは意味がないのです。大切なことは、私共は自分に与えられている召命をしっかり聞き取り、それに応えるということなのです。
キリストの教会は、この献身者たちの群れです。牧師は牧師としての召命を受けて献身したから牧師なのであり、長老は長老として召命を受けて献身したから長老なのであり、執事は執事としての召命を受け献身したから執事なのであり、教会学校教師は教会学校の教師としての召命を受けて献身したから教会学校教師なのです。オルガニストも聖歌隊も、婦人会も壮年会も青年会も、皆、召命を受けて、それに応えて献身することにおいて立っているのです。このことがはっきりしていませんと、必ず、不平や不満というものが生まれてくるのです。良いですか皆さん。私共は一人一人召命を受け、それに応えて献身していくのです。その召命は皆、一人一人違うのです。だから献身のあり方も皆、一人一人違うのです。
ただ、召命を与えてくださる方はただお独りですから、私共の献身は主イエスの救いの御業に仕え、神の栄光のために仕えるものとなります。決して、自分の栄光を求めるものとはならないのです。更に言えば、この献身の歩みは主イエスに従う歩みでありますから、謙遜なものとなるということです。十字架の主に従っていくものとなるからです。
召命と献身ということがはっきりしている交わりは、実に気持ちが良いものです。そこには、主イエスへの愛、人への愛が、具体的な形で現れ出てくるものだからです。そのような交わりを形作る者として召されていることを心から感謝し、主の召命に応える者として、この一週も歩んでまいりたいと思うのです。
[2013年11月10日]
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