富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの第一声」
詩編 47編2~10節
マルコによる福音書 1章14~15節

小堀 康彦牧師

1.主イエスの救い主としての第一声
 主イエスはヨハネから洗礼を受け、荒れ野でサタンから誘惑を受けました。そして、遂に救い主としての公の歩みを始められます。その救い主としての第一声が、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。この主イエスの救い主としての第一声は、単にこの時語られた言葉であるという以上に、これから始まる主イエスの救い主としての歩みのすべてを総括している言葉であると言って良いでしょう。主イエスがお語りになったこと、主イエスが為された業、そして主イエス・キリストの存在そのものが、この第一声に告げられた事柄を示している。そう言って良い言葉であると思います。そうでありますから、牧師が毎週この講壇の上から語りますこと、皆さんが毎週礼拝で聞くこともまた、この主イエスが最初に告げられた言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」を語り直したものなのです。更に言えば、キリストの教会は二千年の間ずっとこの主イエスの言葉を語り直し、語り続けてきたのです。そして、それは今もそうなのです。教会が語り、教会が為しているすべての業は、この主イエスの第一声に根拠を持ち、この第一声に告げられたことを指し示すことでしかないのです。そうでありますから、この主イエスの第一声は実に内容が豊かであり、一回の説教でどこまで語り得るだろうかと思います。皆さん、この主イエスの第一声は是非覚えていただきたい。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」ここにわたしたちが聞くべきこと、伝えていくべきことのすべてがあるからです。

2.時は満ちた
 順に見ていきましょう。まず「時は満ちた」と主イエスは告げられました。ここで告げられております「時」は、カイロスという言葉が用いられています。それに対して、私共が普通に用いております時計で計ることが出来る時間、それはクロノスという言葉を用います。クロノスは、止まることなく当てもなく流れていく時です。つまり、クロノスは過ぎ去っていく時と言って良いでしょう。しかし、主イエスがここで告げられた時「カイロス」は、満ちていくのです。ある決定的な出来事に向かって進んでいく時間、それがカイロスです。この時が満ちる、カイロスが満ちるということのイメージとして、出産に向かって満ちていく、子をお腹に宿した人の時間を思い浮かべると良いでしょう。一日一日とお腹が大きくなっていきます。この様なとき、数え方としては3ヶ月、6ヶ月と言うように赤ちゃんがお腹に宿ってからの時を数えますが、その時私共の心は出産まであと何ヶ月というように感じているでしょう。出産、赤ちゃんの誕生という出来事に向かって、時が満ちていくのです。主イエスが「時は満ちた」と言われた時、それは出産と同じように、必ずやってくる神様の救いの御計画の成就、その出来事が起きる時に向かって時は満ちた、遂にその時が来たという意味だったのです。
 この時のことをマルコは14節で「ヨハネが捕らえられた後」と言っています。救い主を指し示す者として神様に遣わされたヨハネが捕らえられたのです。つまり、救い主を指し示し、救い主の道備えをするヨハネの時は終わり、救い主の登場の時が来たということなのです。しかしそれは、人間の目から見て、救い主として活動を始めるのにちょうど状況が良くなったからというようなことではないのです。神様の御計画の時が来たということなのです。洗礼者ヨハネが捕らえられたのは、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスによってでありますから、ヨハネによって洗礼を受けた主イエスが活動するのに都合が良い時になったとか、ガリラヤが救い主としての活動を始めるのに都合の良い場所であったとは、とても言えません。主イエスがこの時ガリラヤで宣教を始めるというのは、人間の目から見て都合が良いかどうかということを超えた理由があったのです。それが神様の御計画によるということです。それを主イエスは「時は満ちた」と言われたのです。

3.時は今も満ちつつある
 私共は、この「時は満ちた」という言葉をどう受け取れば良いのでしょうか。この「時は満ちた」という主イエスの御言葉から、私は、「今も時は満ち続けている」「神様の救いの御計画は前進している」、そのようなメッセージを受け取るのです。この神様の救いの御計画というものには、私の人生という小さな計画から、全世界の救済という大きな計画まで、いろいろあると思います。神様の小さな御計画、その一つ一つが成就していく中で、最終的な御計画、神様の救いの完成に近づいているのです。そしてまさに今、時は満ち続けているのです。
 大きな計画で言えば、主イエスが再び来られるのがいつであるのか私共には知らされておりません。しかし、このことははっきりと言えます。それは、主イエスが十字架にお架かりになり、復活されたあの時より、二千年分はその時が近くなっているということです。時は二千年分、救いの完成に向かって満ちて行っているということなのです。
 また、私に対するという小さな計画、そして神の国の完成にしても、時は今も満ちつつあるのです。私は、神様から牧師となるように召命を受けてから神学校に入るまで七年間かかったのですが、それは無駄な七年だったのではなくて、時が満ちるのに七年かかったということなのだと思っています。今日の礼拝にも求道者の方が何人も集っておられますが、そのお一人お一人にも神様の御計画があって、信仰が与えられる時に向かって今、時が満ちているのだと思うのです。これは神様の時でありますので、私共が努力して時を満たすことは出来ません。しかし、必ず時は満ちていくのです。神様の御計画というものがあるからです。
 教会では駐車場の用地が与えられますようにと、毎週の祈祷会で祈っておりますけれど、これもまた、今、時が満ちていっているのだと思っています。私共は、この時を速くしたり遅くしたりは出来ませんけれど、いつ時が満ちても良いように態勢は整えておかなければならないのだと思っています。神様を知った者にとって、時は過ぎ去っていくのではなく、満ちていくものなのです。過去へと流れ去っていくのではなくて、神様の御手の中にある将来に向かって満ちていくのです。そしてここに、希望に向かって歩む私共の歩みがあります。

4.神の国は近づいた
 次に、「神の国は近づいた」です。神の国というのは、神様の御支配ということです。主イエス・キリストが来られましたから、キリストがおられる所では、神様の御心が天に成るごとく地にも成ったのです。神の国は来たのです。しかし、まだ完成はされていません。近づいたとはそういうことです。もう来たのです。しかし、まだ完成されていないのです。
 主イエスは「神の国は近づいた」と言われた。神の国は向こうから来るのであって、私共が頑張って神の国に至ろう、近づいていこうというのではないのです。素敵なことでしょう。私は、この「神の国は近づいた」ということのイメージとして、駅のプラットホームを考えます。はくたかでもサンダーバードでも良いのですが、もうプラットホームに入ってきているのです。まだ止まってドアが開くまでにはなっていないけれど、もう列車が入って来ていますから、私共は荷物を持って乗り込む準備をするわけです。友人がキオスクで買い物をしていたら、「早くせんかい!」と言うでしょう。「ゆっくり買い物していなさい。」などとは言わないのです。それが伝道です。
 どうして、もう列車が来ている、神の国が来ていると分かるのか。それは、私共が既に主イエス・キリストの救いに与っているからです。神の国に生き始めているからです。だから、来るか来ないか分からないけれど神の国を待っているというのではなく、もう来ているのですから、あなたも早く準備をしなさいと言うわけなのです。私共は主イエス・キリストの救いに与り、神の国に生き始めています。だから、天と地を造られた神様に向かって、「父よ」と呼んで祈ることが出来るのです。困り果ててしまうような状況の中でも祈ることが出来、神様の御手の中にある明日を信じることが出来るのです。
 神の国は主イエスと共に到来しました。しかし、この時「神の国」は点でしかありませんでした。その後、主イエスと共に生きる者の群れが生まれ、今は世界中に広がっています。神の国はどんどん近くなってきているのです。しかし、まだ完成はされていません。これが完成されるのは主イエスが再び来られる時です。終末の時です。

5.悔い改め、即、福音を信じる
 この神の国に入るためには、悔い改めて福音を信じなければなりません。「悔い改める」とは、神様を知らず、それ故神様をあがめ、神様に従うことを知らなかった者が、天地を造られた神様が自分を造り、自分を愛してくださっていることを知り、神様に感謝をささげ、御名を崇め、神様と共に生きよう、神様に従って歩んでいこうと変えられることです。何度も申し上げてきたことですが、悔い改めは反省ではないのです。反省は、自分で自分の間違いに気付き、変わろうとすることです。そこには、本当は悪くない、正しい自分というのがいて、たまたまここだけ悪かったというようなことでしかありません。しかし、悔い改めというのは、その反省している自分が変わらないと駄目だということなのです。私共は良いとか悪いとか自分で判断しているわけですが、この自分の判断や自分の基準そのものが変わるのです。これは、新しく生まれ変わると言っても良い、根本的な変化です。
 そのような根本的な変化が、どうして起きるのか。それは、福音と出会い、福音を信じることによって起きるのです。悔い改めてから福音を信じるという順番でこのことを考える人もいるかと思いますが、悔い改めと福音を信じるということは同時に起きることなのであり、一つの事柄の別の言い方、別の側面からの表現と考えて良いのです。
 この辺のことをもう少し考えてみましょう。イエス様は「福音を信じなさい。」と言われましたが、「福音」とは平たく言えば「良い知らせ」です。どういう良い知らせかというと、神様が私共を愛してくださって、その愛の故に独り子キリストを人間として生まれさせ、私共の罪を赦すために、その独り子を十字架にお架けになった。その十字架によって私共は、ただイエス・キリストを信じるだけで一切の罪を赦され、神の子とされる。さらに主イエスは三日目に死人の中から復活されたが、この復活の命にさえ与ることが出来るというものです。これが「神の子イエス・キリストの福音」です。主イエス・キリストによってもたらされた良い知らせです。この福音を信じるということは、主イエス・キリストというお方と出会わなければなりません。もちろん、肉眼で見るというあり方で出会うことは出来ません。しかし、イエス様は復活された後、天に昇られ、そこから聖霊として私共の上に臨んでくださることになったのです。私共は、聖霊なる神様のお働きの中で、聖書を通して、説教を通して、主イエス・キリストの言葉を聞き、私に語りかけるお方として主イエス・キリストと出会うことが出来るのです。
 この主イエス・キリストと出会うことによって、私共は自分が何と身勝手で、傲慢で、愚かで、感謝知らずの者で、神様をないがしろにしてきたか、神様を裏切り、悲しませてきたかを知ったのです。自分は正しく、優しく、賢く、良い人だと思っていた一切のプライドが砕かれたのです。その自分に対しての評価、思いは、神様抜きで、神様のいない所で、自分勝手に思い込んでいたものであったことを知らされたのです。そして、神様はそんな私をも愛してくださり、そんな私のために愛する独り子を十字架に架けてまで、私共が罪の中に滅んでいかないように、命の道を歩むことが出来るようにと招いてくださったのです。このことを知った時、私共はどうして、それでも神様無しで生きていく、福音など信じない、そのような者であることが出来るでしょうか。このことを本当に知らされたなら、私共は、この私をそこまで愛してくださっている神様に従って歩んでいきたい、イエス様を愛し、イエス様と共に歩んでいきたい、そう願わないではいられないでしょう。それが悔い改めです。それは、主イエスを信じる、主イエス・キリストの福音を信じるという道へと歩み出すことなのです。悔い改めることは、神様を、イエス様を、福音を、信じるということ抜きには起き得ないのです。

6.宗教改革記念日
 10月31日は宗教改革記念日です。最近、日本では急に10月31日をハロウィンと言って、仮装したりすることが広まっているようですが、これはキリスト教会の行事ではありません。いずれにせよ、私共は10月31日は宗教改革記念日として覚えておきましょう。1517年のこの日、ルターはウィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の提題を張り出しました。それが宗教改革の始まりです。ルターは、その95ヶ条の提題の第一項目にこう記しました。「我々の主であり師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』と言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。」この言葉を聞いてどう感じるでしょうか。全生涯が悔い改めだというのは、何か暗いんじゃないの。プロテスタントのキリスト者は、いつも反省ばっかりして、真面目で、暗くて、どうも陰気臭い。そんな風に思う人もいるかもしれません。しかしこれは、悔い改めを反省のように受け取っているからです。この本当の意味は、全生涯を通じて新しく神様を、イエス様を、福音を、信じる者でありなさいということなのです。
 信仰は、生き生きした父・子・聖霊なる神様との交わりですから、一回信じたらそれで済むという話ではないのです。生き生きした交わり、それはいつも新しいのです。この神様との交わりに生きる時、神の国は既にそこに来ているのです。
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は、洗礼において結んだ神様との約束を新たにするものです。主イエス・キリストの福音を信じ、悔い改め、ここから新しく生き生きした神様との交わりに生きる者として、神の国の完成に向かって歩んでまいりましょう。神の国は近づいています。主があなたと共におられますから。

[2013年11月3日]

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