富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」
イザヤ書 25章6~10節
ローマの信徒への手紙 6章3~11節

小堀 康彦牧師

1.復活の日の先取りとして
 今朝、私共は先に天に召された愛する兄弟姉妹を覚えて礼拝をささげています。お手元にあります召天者名簿に記された方々のお名前をご覧になりながら、既に天に召された愛する者と地上の歩みを共にした日々を思い起こしておられることと思います。お一人お一人は全く異なる人生を歩まれましたけれど、皆、神様に愛され、主イエス・キリストの救いに与り、御国に向かってこの地上の生涯を歩み抜かれました。今は天の父なる神様の御許にあって、全き平安の中に入れられていることを信じるものです。私共もまた、いずれはそこに行かなければなりません。そして、やがて時が来れば、復活の命に与り、代々の聖徒たちと共によみがえり、共々に主をほめたたえることになるのです。
 私共は今朝、主の御前に集い、共に礼拝をささげ、共に主をほめたたえているわけですが、この主の日の礼拝は、やがて与えられる復活の日、私共が共に主をほめたたえることになるその日を先取りし、その日に与えられる喜びに先に与っている、そういうことなのだと思います。私共は今、100人程度のまことにわずかな人数で礼拝をささげておりますが、その日には何十億、いや何百億という、おびただしい数の代々の聖徒たちと共に御前に立って、主をほめたたえることになるのです。何と壮大な光景でしょう。私は、その時に主をほめたたえるために歌われる賛美の歌声を想像しただけで圧倒され、わくわくしてしまいます。こう言っても良いでしょう。目には見えませんが、今朝、全世界で何億という人々が礼拝をささげています。そして、天上においても、代々の聖徒たちが礼拝をささげている。私共は、その人たちと共に、今、礼拝をささげているのですが、最後の日には、そのことが目に見えるあり方ではっきりと現れるということなのです。

2.将来に目を向ける
 日本の文化の中には、この終末における復活というものはありませんので、先にこの地上での生涯を閉じられた方を記念するとなりますと、どうしてもその人が地上で生きていた時のことを思い起こすということになります。それは大切なことであり、また、自然なことであります。しかし、聖書はそのような過去に目を向けるだけではなくて、将来に目を向けることを促すのです。その将来とは、やがて来る終末の時です。主イエスを信じてこの地上の生涯を歩み通した者たちが、共々に復活する。その日に思いを向けるように、信仰の眼差しを向けるようにと促すのです。そして、そこに私共が目を向けた時、私共は皆、同じ希望を持つ者となります。この地上においてどのような歩みをした者であっても、皆、同じ希望を持つ。皆、同じ目当てを持つことになるのです。これは驚くべきこと、そして実に素晴らしいことではないでしょうか。社会的な地位も富も性格も国も肌の色も関係ありません。この地上において人と人との間を隔てていた一切のものが姿を消し、同じ希望を持つのです。
 私共は、この地上においては同じ人生を歩む者はいません。一人一人全く違った人生を歩みます。けれど、誰一人例外なく、この地上での生涯を閉じる時が来ます。死を迎えます。死は、全く平等にやって来ます。しかし、それで終わりではないのです。その先があるのです。復活の時です。そこに私共の希望があり、目当てがあります。私共のこの命が死で終わってしまうのなら、私共はどこに希望を見出すことが出来るでしょう。何を手に入れようと、どんな楽しい日々を過ごそうと、成功者として名を残しそうと、死はそのすべてを奪っていきます。しかし、それですべてが終わるのではないのです。私共の命は、この地上での命がすべてではないのです。

3.アダムと主イエス
 聖書は、私共の命の原点として、二人の人の名を告げます。一人はアダムです。そしてもう一人は主イエス・キリストです。アダムというのは、皆さんもよく知っている、創世記の最初に記されている、人類最初の人、アダムとエバの、あのアダムです。アダムとエバは、神様が食べてはいけないと言われた木の実を食べてしまい、神様の信頼を裏切ってしまいました。その結果、楽園から追放され、地上での歩みが始まりました。この神様の信頼を裏切り、神様との親しい交わりを失った状態を「罪」と言います。人類はすべてこのアダムの子孫ですから、生まれたままでは神様との関係を失ってしまっています。ですから、自分のことしか考えられなかったり、自分の損得でしか行動出来なかったりするわけです。三歳の子どもでも、自分が叱られないようにと嘘をつきます。子どもの嘘ですからすぐに嘘だと分かってしまうようなものですけれども、嘘をつくのです。子どもはかわいいし、純真ではありますが、残念ながら罪がないとは言えないのです。そして、この罪の値が死なのです。ですから、アダムの子孫である私共は、例外なく死ななければならないのです。
 しかし、それがすべてではありません。主イエス・キリストが来られたからです。主イエス・キリストは、私共をこの罪の縄目から解放するために来られました。確かに私共は、ぬぐってもぬぐっても中からしみ出してくるような罪を持っています。ですから、罪の値としての肉体の死というものを免れることは出来ません。しかし主イエス・キリストは、私共のためにこの肉体の死では終わらない命に道を拓き、これを与えてくださったのです。それが復活の命です。
 イエス様は十字架に架かり死なれました。この十字架の死は、私共が受けるべき罪の裁きを、イエス様が私共のために、私共に代わってお受けになったということなのです。そして、主イエスは十字架の上で死んで三日目に復活されました。肉体の死がすべての終わりではない、復活の命があるということを示してくださったのです。そして、その復活の命へと私共を招いてくださったのです。

4.主イエス・キリストと一つにされて
 更に主イエスは、私共を御自分の十字架と一つとし、御自分の復活の命と一つにするための恵みの手段を与えてくださいました。それが洗礼です。ローマの信徒への手6章3~4節に「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とあります。主イエス・キリストと結ばれる、一つに合わせられる。それが洗礼を受けることによって私共に与えられる救いの出来事なのです。私共は、洗礼によって主イエス・キリストと一つに合わせられたのです。そして主イエス・キリストと一つに合わせられた者は、主イエスの十字架と一つにされ、更に主イエスの復活とも一つにされるのです。
 主イエスの十字架と一つにされるとは、6節「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にはならないためであると知っています。」とありますように、古い自分、アダムからずっと受け継いできた罪人としての自分が滅ぼされるということです。アダムの罪を受け継いでいた古い私が死んで、イエス・キリストに結ばれた新しい私が生まれたということなのです。確かに、私共の中には、ぬぐってもぬぐってもしみ出してくるような罪の思いがあります。洗礼を受けたキリスト者であっても、その罪から一切自由になっているわけではありません。しかし、洗礼によって主イエス・キリストと一つにされた新しい命が、私共の中に息づき始めました。この新しい命に生き始めた私、新しい私は、神様と共に生きたいと願い、神様の御心にかなうように生きたいと願い、イエス様が与えてくださった「互いに愛し合いなさい。」という戒めに心から従っていきたいと願うのです。このようなことは洗礼によって新しくされるまでありませんでした。そして新しい私は、何が罪であり、何が御心にかなわないことであるかを知るようになりました。自分の中から湧き上がってくるような罪の思いに抵抗するようになったのです。奴隷は抵抗しませんし、出来ません。つまり、このことは私共が罪の奴隷ではなくなったということをはっきりと示しているのです。私共は、罪に抵抗し、神様に信頼し、神様との愛の交わりを回復された者として、新しく生きる者となったのです。それが、キリストの復活の命という、新しい命に生きるようになったということなのです。

5.新しい命のしるし
 この新しい命、復活の命に与った者には、明らかな「しるし」が伴います。その「しるし」はいくつもありますが、その中で際立っているのは「祈り」です。神様との関係を失ってしまっていた時、罪の奴隷であった時、私共は祈ることを知りませんでした。祈りといえば、何かよく分からない、大いなる存在に向かって願い事をすることだと思っていました。しかし、それはまことの祈りではありません。
 新しい命に生きる者となったしるしとしての祈りは、第一に、誰に祈っているのかを知っています。罪の奴隷であった時には、神様を知らず、それ故に誰に祈っているのかも知らなかった私共でありました。しかし、神様の愛に触れ、自分を造り導いてくださっている方が誰であるかを知りました。天と地のすべてを造られた全能の父なる神様。この方こそ、私共が祈るべき方であることを知りました。私共の祈りは、天地を造られた神様に向かって「父よ」と祈るものなのです。
 第二に、祈る内容が違ってきました。祈りは神様との交わりですから、ただ願い事をするだけではありません。神様から受けている愛を知りましたから、神様に感謝をささげること、神様をほめたたえるということを知りました。そしてまた、自分のことばかりでなく、あの人のために、この人のために祈ることも知りました。自分のために、家族のために祈るという所から、あの人のため、この人のためというように祈りがどんどん広がったのです。
 第三に、祈りは特別な時にだけするのではなく、毎日、いつでも、どこででも祈るようになりました。それまでは、例えば初詣とか命日とかいった時にだけ祈っていた私共でした。しかし、毎日、いつでも、どこででも祈るようになった。それは、神様がいつでも、どこででも私共と共にいてくださり、私共の祈りに耳を傾けてくださっていることを知ったからです。このような祈りと共に、新しい命に生きるようになった私共なのです。
 さて、この祈りに代表されるような新しい命に生き始めた私共は、神様に向かって、神様の恵みの中を歩みます。地上のものはやがて消えていく。肉体の死と共に消えていく。しかし、死によっても消えることのない確かなもの、それは天地を造られた神様であり、神の独り子である主イエス・キリストです。この主イエス・キリストと一つに結ばれ、父なる神様との永遠の交わりに与った私共です。この神様との永遠の交わりにおいて大切なもの、価値あるものこそ、私共の人生において真に価値あるものであることに気付かされた私共なのです。
 神様との永遠の交わりにおいて大切なものとは何でしょう。それは、信仰であり、愛でありましょう。神様の御心にかなう者として生きるということでありましょう。それ以外の、目に見えるすべてのものは消えていくのですから。その本当に大切なものを大切にして生きる。それが、罪の奴隷の状態から解放された、私共の歩みなのであります。
 先に天に召された私共の愛する一人一人は、そのような歩みを神様の御前に為し、天の父なる神様の御許に召されていったのです。もちろん、そのお一人お一人のこの地上での歩みは、全く違ったものでした。しかし、その歩みは等しく、この地上の歩みを為し終えた後に私共が与ることになっている復活の命を目指しての、そこに向かっての歩みだったのです。そして、私共もまた、それを目指して歩んでいるのです。

6.既に復活の命に生きている
 5節を見てみましょう。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」とあります。神様と無関係に生きていた自分、この世の富や地位や快楽ばかりを追い求めていた古い自分が、主イエスの十字架と一つにされて死んだのなら、主イエスの復活の姿にもあやかることになります。主イエスが十字架にお架かりになって三日目に復活されたように、私共も復活するのです。もっとも私共は、死んで三日目にというわけにはいきません。私共は神様が定められた時、この天と地が新しくされる時、終末の時、主イエスが復活されたように復活するのです。
 これは信じ難いことでありますけれど、私共はこれが疑いようのない確かなことだと信じています。何故なら、私共は既に古い自分とは決別し、新しい命の中に生き始めているからです。この新しい命は、やがて与えられる復活の先取りです。洗礼によって主イエス・キリストと一つにされた人は、信仰を与えられ、祈ることを教えられ、復活の希望を与えられました。これらはすべて聖霊なる神様が私共に与えてくださったものです。そして、この聖霊なる神様が最終的に私共に与えてくださるのが、復活なのです。私共は、まだ復活そのものは与えられていませんが、そこに至る新しい命の息吹の中に生きているのです。このことは、この様にたとえることが出来るでしょう。私共は新しい家を建てる契約をしました。既に契約は終わり、工事が始まりました。新しい家に実際に住むのは半年後かもしれませんが、それが確実であることは疑いようがない。そして、その新しい家に住む日を楽しみに、古いアパートに住んでいる。新しい家での生活を楽しく思いながら過ごす、そんな状態が今の私共なのでしょう。新しい家に入ったら必要でないものは処分して、新しい家にふさわしいものだけ残し、買い換えたりするでしょう。それが天の御国、復活の日に備えつつ、私共が今という時を生きるということなのです。
 8節「わたしたちは、キリスト共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」とあり、11節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」とあります。キリストと共に、キリストに結ばれた者として、神様に向かって、神様の御前に生きる。それが、洗礼によって新しくされた者の歩みなのです。私共もやがてこの地上の生涯を閉じる時が来ます。キリストに結ばれないのなら、復活の命にあやかることがないのなら、それですべてが終わるでしょう。しかし、それが終わりではないのです。キリストに結ばれるなら、その次があるのです。復活です。それこそが私共の希望であり、目当てなのです。私共の人生の本当の希望、目標を見誤らないように、しっかりと御国を目指して、祈りつつこの一週も歩んでまいりましょう。消え去るものに目を奪われないように、心を奪われないように、見えないものに目を注いで歩んでまいりましょう。

[2013年10月27日]

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