富山鹿島町教会

礼拝説教

「誘惑」
詩編 66編1~12節
マルコによる福音書 1章12~13節

小堀 康彦牧師

1.誘惑を受ける者と同じ所に降られた主イエス
 主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとすぐに、荒れ野でサタンから誘惑をお受けになりました。神の独り子である方が、どうしてサタンから誘惑をお受けになったのか。それは、前回主イエスが洗礼を受けた所で見ましたように、洗礼を受けられたということは主イエスが罪人である私共と同じ所に降って来られたということでありますから、洗礼を受けられた主イエスはサタンから誘惑を受ける罪人である私共と同じように、サタンから誘惑を受ける者となられたということを示しているのでありましょう。このことは、創世記の第3章におきまして、アダムとエバが蛇の誘惑を受けて、神様が食べてはいけないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまったということが、私共の罪の源にあることを思い起こさせます。創世記においては蛇とあってサタンとは記されておりませんけれど、内容的に見て、これはサタンと考えて良いでしょう。つまり、主イエスが罪人である人間と同じ所に降って来られたということは、蛇の誘惑、サタンの誘惑を受ける者となったということなのだと聖書は告げているのです。

2.サタンの誘惑
 サタン、悪魔というのは、私共を神様の御心に逆らわせよう、神様から離れさせようとする存在です。それは、誰の目から見ても明らかなあり方で私共に近づいてくるのではありません。それは、神様が誰の目からも見えるあり方で私共と共におられるのではないというのと同じです。神様も、サタン・悪魔も、共に霊的な存在です。ですから、「ここに居る」「ほらそこに居る」というようには分かりません。しかし、このサタンに対してのリアリティーは、神様というお方に対してのリアリティーと共に、シンクロして私共に迫ってくるのです。こう言っても良いでしょう。神様を知らない時、私共はサタンのことも意識することはありません。それは、決してサタンと無関係に生きているからではなく、完全にサタンの手の中に生きておりますので、サタンの誘惑を誘惑とも感じない、意識しないということなのです。しかし、主イエスを知り、神様を知りますと、神様の救いに与り、神様の御心に従って歩んでいこうするようになりますと、そうはさせじとする様々な力、勢力に、自分が囲まれていることを知るのです。ここで初めて、サタンの誘惑というものを意識するようになると言って良いと思います。神様に従おうとすればするほど、そうはさせないという力もまた強く働くようになります。その意味で、サタンの誘惑と無縁な信仰者の歩みというものはあり得ないのです。そのことをよく分かっておられたイエス様は、私共に主の祈りを与えてくださり、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」と祈るよう教えてくださったのです。
 このサタンの誘惑というものは、私共の中にある元々の罪の性格、これを原罪と言いますが、これと呼応して為されるものであります。私共が完全に神様に従って生きているなら、神様と共に生きることを喜びとする所に完全に生き切っているなら、サタンも誘惑しようがないのでしょうが、私共の中には、ぬぐってもぬぐってもしみ出してくるような罪の思いがありますから、サタンも私共を誘惑し続けるということなのだろうと思います。  だったら、罪無き神の子である主イエスにサタンの誘惑は有効であったのか。無効でした。罪無きお方だったからです。しかしそれは、サタンの誘惑が主イエスに対して何の影響も与えなかったということではありません。天におられた時の神の子キリストであったのなら、サタンは声をかけることさえ出来なかったでありましょう。しかし、罪人と同じ所に降って来られた主イエスに対し、サタンは誘惑することが出来たのです。しかし、その誘惑は有効ではありませんでした。たとえ罪人と同じ所に降って来られたとしても、主イエスは罪無き神の独り子、キリストであられたからです。主イエスがサタンの誘惑に負けるようなことはなかったのです。

3.誘惑を退けられた主イエス
 このマルコによる福音書は、この時主イエスがサタンから受けた三つの誘惑の内容について、マタイやルカが記しているようなことは何も記しておりません。マタイとルカは、その記事の順番において若干の違いはありますが、内容は同じです。①石をパンに変えてみよ、②神殿から飛び降りてみよ、③わたしを拝め、の三つですが、これについてマルコは一切触れていません。それは、マルコがその誘惑の内容を知らなかったからではなくて、マルコが告げようとしたことから言えば、誘惑の内容についてはそれほど重要ではなかったからでありましょう。マルコにとって重要だったことは、主イエスがサタンから誘惑を受けたということ、そしてそれに負けることはなかったということだったからでます。何故なら、サタンの誘惑というものは、ありとあらゆるあり方で主イエスにそして私共に襲いかかってくるのであって、それを挙げればきりがありません。だからマルコは、主イエスがサタンの誘惑にあった、しかしそれに負けなかったということだけを記したのであります。この事こそ、重要なことだったからです。
 今私は、主イエスはサタンの誘惑に負けなかったと申しましたが、それはマルコによる福音書のどこに書いてあるのかと思われた方もおられるかもしれません。確かに、直接的な形で、主イエスはサタンの誘惑を退けたという言い方では何も記されておりません。マルコは、主イエスが40日間サタンの誘惑を受けたと記し、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」と記しているだけです。私は、この記述が、主イエスがサタンの誘惑を退けたことを示していると読んだのです。
 これは一見しますと、荒れ野には恐ろしい獣がたくさんいたけれど、天使たちが主イエスに仕えて、それらの獣から主イエスを守っていたという風に読めるかもしれません。しかし、そうではないと思います。この「野獣と一緒におられた」というのは、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」という、イザヤ書11章6~9節の預言の成就を示しているのです。この預言は救い主によって到来する神の国を告げています。つまり、マルコがここで告げていることは、人間の力が全く役に立たないような荒れ野において、主イエスはサタンからの様々な誘惑に遭った。しかし、主イエスはイザヤが預言した救い主として、その荒れ野において神の国の到来を示された。神様の御支配を明らかにされた。そう告げているのです。

4.神様が主イエスを試みられた
 そして、そのような主イエスに、天使たちは仕えていた。この「仕える」というのは、「給仕をする」とも訳せる言葉ですから、荒れ野において天使たちが給仕する天来の食物、神様の養いによって40日の間主イエスは生きたということなのです。
 この40日というのも、旧約における様々な苦難、試練の時を連想させるものです。ノアの大洪水は40日40夜続きました。出エジプトの荒れ野の旅は40年続きました。モーセはシナイ山で40日40夜断食しました。エリヤは40日40夜荒野を歩き続けてホレブの山に着きました。40日というのは、そのような旧約の出来事を思い起こさせるわけです。大変厳しい試練の時であったということです。そして、それはすべて神様が与えた試練の時、苦難の時であったということなのです。
 このことは、主イエスの荒れ野の誘惑の時においても同じです。12節に「それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」とあります。”霊”というのは、聖霊です。この「送り出した」という訳は、何とも穏やかな言葉で、この状況にそぐわないと思います。これは、「追い出した」「追いやった」というニュアンスの言葉なのです。つまり、聖霊が、神様が、主イエスを荒れ野へと追いやった。そして、主イエスは40日間サタンから誘惑を受けたということなのです。
 何故神様は主イエスを荒れ野に追いやり、サタンの誘惑を受けさせられたのでしょうか。この「誘惑」という言葉は、「試み」「テスト」とも訳せる言葉です。聖書では、文脈の中で訳し分けています。ですから、ここで「主イエスはサタンから試みられた。」「主イエスはサタンにテストを受けさせられた。」、そう訳しても良いのです。つまり、この荒れ野におけるサタンの誘惑は、神様が与えたテストだったのです。14節から主イエスは福音を宣べ伝え始められるわけですが、その前の最終チェックが、この荒れ野におけるサタンの誘惑であったということなのです。
 主イエスが洗礼をお受けになった時、神様は主イエスに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」との言葉を与えられました。神の独り子が罪人と同じ所に降られたことを、神様は良しとされたのです。この罪人と同じ所にというあり方は、三本の十字架の真ん中に架けられて死ぬという所まで徹底されました。この洗礼の時に、主イエスの歩みは十字架への歩みであることが定まったと言って良いでしょう。
 そして、その十字架への歩みの最終チェックが、この荒れ野での誘惑であったということなのです。主イエスの十字架への歩みは、サタンの誘惑との戦いの歩みであったに違いありません。神の独り子である主イエスを、人々はののしり、あざけります。それに対して、神の独り子としての大いなる力を人々の前に示して、従わせることも出来た。しかし主イエスは、人々を自分の前にひれ伏させるためにその力を用いることはありませんでした。人々が求めるユダヤ人の英雄、ローマ軍を破り祖国ユダを再興する英雄になることも出来た。ユダヤ人の王、いや世界の王となることだって出来た。しかし、そうはされませんでした。何故か。それは御心に適わないことだったからです。それらはすべてサタンの誘惑だったからです。そして、このサタンの誘惑が最高潮に達したのが、主イエスが十字架にお架かりになった時でした。サタンは人々の口を用いて言わせます。「もしお前が神の子なら、十字架から降りてみよ。」何と厳しい、激しい誘惑でしょう。しかし、主イエスはその誘惑をも退けられたのです。主イエスは、最終チェックを通り、この十字架への道を歩むこととなったということなのです。

5.私のために主イエスは誘惑を受けられた
 主イエスの十字架への最終チェックとしてこの荒れ野での誘惑があったということは分かりました。では、この出来事と私共は、どんな関係があるのでしょうか。
 それは、この荒れ野におけるサタンの誘惑もまた、前回の洗礼と同じように、十字架との関連でその意味を考えなければなりません。つまり、この荒野の誘惑にも十字架と同じ意図が隠れているのです。それを見なければなりません。主イエスはここで私共のために、私共に代わって誘惑に遭われたのです。そして、その誘惑を退けられたということなのです。
 私共は、信仰の歩みを為している以上、いつでもサタンの誘惑にさらされています。これが分からないという人は、神様に対しても目が開かれていない人でしょう。神様を信じ、神様を愛し、神様に従っていこうとしたその時から、サタンは様々なあり方で私共に迫り、誘惑し、私共が神様を信じないように、愛さないように、従わないように、離れるように、仕掛けてくるのです。私共が洗礼を受け、神様と共に生きようとした途端に、サタンは仕掛けてきます。私共が洗礼を受けてからすべてが順風満帆、すべて上手くいく、そんなことはまずないのです。病気をしたり、怪我をしたり、仕事が上手くいかなかったり、いろいろなことが起きるのです。そして、サタンはそのすべての時を用いて誘惑してくるのです。例えばこんなささやきとして誘惑してきます。「神様が何をしてくれる。」「信仰なんて意味がない。」「神様を信じて、何か良いことがあったか。」「罪の赦しだって。お前は特に悪いことをしたわけじゃないだろう。」「永遠の命なんてものより、大切なのは今日の生活だろ。」「祈るのなんてやめてしまえ。」「礼拝に行くより映画に行こう。」等々、本当に様々なあり方で、私共の信仰を葬り去ろうとするのです。この世の富も、名誉も、家族も、仕事も、ありとあらゆるものをサタンは用いるのです。
 その誘惑に私共は耐えられるでしょうか。先程も申しましたが、サタンの誘惑というものは、私共の中にある罪と呼応するものです。外からだけやって来るのではないのです。私共の中に、それが好ましい、そうしたい、そういう欲求がある。そこを突いてくるのです。これを退けるのは、ほとんど不可能に近い。だったらどうするのか。イエス様に助けていただくのです。自分に代わって、イエス様に戦っていただくのです。イエス様はサタンの誘惑を退けられた方です。この方は、荒れ野であっても神の国にすることが出来た方です。ですから、この方に助けを求め、この方に戦っていただくのです。イエス様が主の祈りを私共に与え、そこで「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」と祈るよう教えてくださったのは、そういう意味なのです。わたしに助けを求めよ。わたしがお前に代わって戦い、退ける。そう言われたのです。

6.誘惑から逃げよ。そして、祈れ
 私は毎月刑務所に行っていますけれど、そこで受刑者の方に、いつもこう言っております。「刑務所を出たら、すぐに誘惑が来ます。必ず来ます。その時、自分でその誘惑と戦おうとしないように。必ず負けますから。そういう時には二つの対処をしましょう。まずは、その場から逃げること。現実的には、誘惑に遭いそうな所に近づかないこと。それでも誘惑にあったら、逃げること。その場から一刻も早く逃げ去ること。そして、主の祈りを何度も何度も唱えなさい。」そう教えています。何か、主の祈りを「おまじない」のように使っていると思われる方がおられるかもしれませんが、そういうことではないのです。私共が誘惑に負けそうになる時、それは私共が神様のことを忘れてしまう、遠くにやってしまう、そういう時なのです。ですから、主の祈りを何度も唱える中で、自分が何者であるのかを思い起こすのです。そして、神様の御前に立つのです。神様の御前に立つことが出来るなら、大丈夫なのです。同じ誘惑が何度も何度も来ることもあるでしょう。サタンはしつこいのですから、なかなか一度で諦めやしません。そうしたら、何度も何度も祈るのです。サタンは私共より賢いですし、私共の弱い所を知っていますから、そこを何度も突いてくるでしょう。でも、祈ることが出来れば大丈夫です。  サタンはこう考えるでしょう。「祈らせなければいいのだ。」この祈らないようにさせる誘惑は最も効果的です。もしこれに成功すれば、サタンはほんのわずかな誘惑で、私共のすべてを手に入れることが出来るからです。これに対抗するには、どうすれば良いのでしょうか。祈ることを習慣にすることです。祈りの習慣によって、私共は、サタンの誘惑を退けられた主イエスと共に歩むことが出来るのです。
 時々、「朝、祈れば良いのでしょうか。夜、祈れば良いのでしょうか。それとも昼間が良いのでしょうか。」という問いを受けます。多分、これを聞いてくる人は、朝か、晩か、昼間か、一日一回祈れば良いと思っているのでしょう。私はいつもこう答えています。「朝も、昼も、夜も、お祈りなさい。一日何度もお祈りしなさい。短くても良い。何度もです。」また、「寝る時に祈ると、祈りながら眠ってしまうのですが、そんなんで良いのでしょうか。」と尋ねてくる人も居ます。「良いのです。祈りながら眠ってしまう。素敵なことではないですか。最高の眠り方ですね。ただ、一日の中で眠る時にだけ祈るのではいけません。一日に何度も祈りましょう。」
 私共が主イエスにより頼み、主イエスの御名によって祈り続けている限り、私共は守られます。主イエスが私共のために、私共に代わって、すべての誘惑と戦ってくださるからです。私共は弱いです。しかし、主イエスは強く、あらゆるサタンの誘惑を退けられたし、今も退けてくださるのです。だから、主イエスは「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」と祈るよう教えてくださったのです。この祈りと共に、この一週も御国への歩みを確かに為してまいりましょう。

[2013年10月20日]

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