富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスを指し示す者」
イザヤ書 44章1~5節
マルコによる福音書 1章2~8節

小堀 康彦牧師

1.旧約の預言の成就として
 マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と書き出し、すぐに「預言者イザヤの書にこう書いてある。」と続けます。これは明らかに、イエス・キリストというお方が、旧約において預言されていた方であるということを語ろうとしているわけです。しかし、この「預言者イザヤの書にこう書いてある。」と言われている2~3節を丁寧に見ていきますと、3節は確かにイザヤ書40章3節の引用なのですが、2節の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」はイザヤ書からではなく、出エジプト記23章20節とマラキ書3章1節からの引用であることが分かります。出エジプト記23章20節にはこうあります。「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」また、マラキ書3章1節にはこうあります。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」つまり、神様の救いの御業が為される時、その前に主の使い、使者が送られてくる、そう旧約において預言されており、その預言の成就として、洗礼者ヨハネが現れたのだと告げているわけです。
 もう少し、この旧約の引用の所を見たいと思います。3節は、イザヤ書40章3節の引用だと申しました。そこにはこうあります。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」ここでイメージされております道とは、田んぼのあぜ道のような、狭い、小さな道ではありません。道幅が何十メートルもある大きな道です。戦いに勝った王が全軍を従えて凱旋する、その凱旋パレードが為される壮大な道です。確かに、主イエス・キリストによる勝利の業はまだ成されていません。しかし、主イエス・キリストが来られたということは、そういうことなのです。すべての人間を罪の縄目から解放し、悪魔の手から神様のものへと取り戻し、死を打ち破るという決定的な救いをもたらす方として、まことの王として、主イエス・キリストは来られたのです。そして、そのお方の前に神様から遣わされた使者として、洗礼者ヨハネが現れたのだと告げているのです。
 この洗礼者ヨハネでありますが、6節を見ますと、「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」とあります。この格好は異様です。昔はこんな格好をしている人もいたのではないかと思う方も居られるかもしれませんが、そんなことはありません。今とは違いますが、皆、服を着ていました。ですから、この姿、この格好は異様なのです。そして、またこの姿、この格好も意味を持っていたのです。それはどういう意味かと申しますと、この洗礼者ヨハネの姿は、列王記下1章8節に記されております預言者エリヤの格好と同じです。つまり、洗礼者ヨハネは、エリヤの再来という位置付けの中、ここに登場しているということなのです。マラキ書3章23節には「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」と預言されています。「大いなる恐るべき日」とは、神様の審判の時であり、救い主の到来の時なのです。つまり主イエスの到来は、この預言の成就として、救い主の到来であることを、洗礼者ヨハネの格好は示しているのです。マルコはいくつものあり方で、旧約の預言の成就として救い主が来た、その方を指し示す者として、これもまた預言の成就として洗礼者ヨハネが来た、現れたのだと告げているのです。

2.悔い改めの洗礼
 それでは、洗礼者ヨハネは何をしたのか。4節を見ますと、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。ここには「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあり、洗礼を施したとは記されていません。それは、ヨハネは悔い改めの説教を宣べ伝え、悔い改めのしるとしての洗礼を施したということなのでしょう。このことは、マタイによる福音書に詳しく記されています。マタイによる福音書3章7節b~10節「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」とあります。ヨハネはこのように大変厳しい、悔い改めを求める説教を為し、洗礼を授けていたのです。このヨハネの説教は、神の民であるというプライド、自信、そういうものを心の支えにしていたユダヤの人々には、大きな驚きと共に受け取られたことだろうと思います。ある人々には反感を買い、しかし一方では熱烈な支持者を集める。そういうことではなかったかと思います。
 ここで洗礼者ヨハネが人々に求めたのは、悔い改めです。この「悔い改め」というのは、反省ではありません。反省というのは、ここが悪かった、あそこが悪かった、もうしないようにしよう、ということです。反省は、しないよりした方が良いに決まっています。しかし反省しても、何度も同じようなことをする私共です。反省では、人は本当には悪いと思っていないからでしょう。
 一方、「悔い改め」というのは、元々「方向を変える」という意味の言葉です。どのように方向を変えるのか。神様に造られ、神様の御心に従って歩むべきはずの人間が、自分の欲に引きずられ、神様なんて知ったこっちゃないと生きていた。これが罪です。元々、罪という言葉は、「的外れ」という意味を持っています。生きる的を外しているのです。その的を外して生きていた人が、神様の方に顔を向けて、方向を変えて生きるようになるのです。それが悔い改めです。悔い改めは、自分が生きていた方向そのものが間違っていたということを認めなければなりません。方向が違うのですから、何をやっても間違っているということなのです。今までの歩みの全否定です。
 この全否定というのは、今まで自分が何を求めて、何を誇りとして生きてきたのか、そのすべてが変わるということです。何を求めて生きてきたのか。それは、人それぞれでしょう。しかし、そこに神様というお方がおられたのかということです。決定的にそこが欠けていたということなのです。神様の栄光のために、神様の御業に仕えるために、私共は造られたのであり、命を与えられた。そのことを知らされ、その御心にかなうように生きようと志すのです。自分の力や能力や地位や富を頼りとせず、ただ神様を頼る者となるのです。神様に愛され、神の子、神の僕とされていることを誇りとする、生きる力とする者となるということであります。
 全否定と申しましたけれど、今まで自分が歩んできた道、自分の過去というもののは変えようがないわけで、そこで得た知識や知恵というものは捨てようがない所もあります。また、家族にしても、全否定だといって、親を捨て、子を捨てるというようなことではないのです。悔い改めるというのは、それらすべてを神様の与えてくださったものとして受け取り直すということなのです。神様の御心の中で与えられたものとして受け取り直し、神様の栄光のために、神様の御業に仕えるというあり方で、その関わりをやり直していくということなのです。
 「悔い改め」という言葉は、ギリシャ語では「メタノイア」と言うのですが、これを逆から読みますと、「アイノタメ」:愛のため、となります。それがどうした、ということですが、こうすると上から読んでも下から読んでも同じ言葉になるのです。「アイノタメノメタノイア」言葉遊びです。しかし、これはなかなか良い出来だと思います。私共は悔い改めてどうなるのか。神様の愛を知り、その愛に生かされて、隣り人を愛していこうとする者に変わるわけです。まさに、愛のためのメタノイアなのです。

3.水による洗礼と聖霊による洗礼
 洗礼者ヨハネは、悔い改めを求め、そして洗礼を授けておりました。この洗礼者ヨハネの洗礼が、キリスト教会に受け継がれたと考えて良いでしょう。私共の為しております洗礼も、悔い改めを求めるものであります。悔い改め無しの洗礼はありません。だったら、洗礼者ヨハネの洗礼とキリスト教会の洗礼は同じかと申しますと、全く同じということではないのです。それは、ヨハネ自身こう申しております。8節「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
 ヨハネの洗礼は、水の洗礼です。しかし、主イエス・キリストによって定められ、キリストの教会において為される洗礼は、聖霊による洗礼なのです。もちろん、キリストの教会の洗礼も水を用います。しかし、そこに聖霊が働いてくださる。この聖霊のお働きによって、私共は主イエス・キリストと一つにされ、主イエスの十字架による罪の赦しを受け、主イエス・キリストの復活の命に与る者とされるのです。聖霊が働いてくださり、私共は神の子として新しく生きる者とされるのです。
 こう言っても良いでしょう。洗礼者ヨハネによる洗礼は、イエス様が十字架にお架かりになり三日目に復活されるよりも前でありますから、神様による救いの御業はまだ成就されておりません。ですから、洗礼者ヨハネの洗礼においては、完全な罪の赦し、新しい命の誕生という所にはまだ至っていないのです。しかし、主イエス・キリストによって与えられた洗礼は違うのです。主イエス・キリストの十字架と復活の救いの御業に与るのです。

4.キリストを大きく
 ここで洗礼者ヨハネは、明らかに次に来られるまことの救い主、イエス・キリスト御自身を、主イエス・キリストによる救いの御業を指し示しておりました。ここに、ヨハネの意味、偉大さ、価値というものがあったということなのであります。洗礼者ヨハネ自身、そのことを良く弁えておりました。彼はこう言っております。7節「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」ヨハネは、自分が神様から遣わされた者であり、悔い改めを求める説教を為して、人々を神様に向かって方向転換させる役目であることを自覚していたと思います。しかし、それですべてが完成するのではない。まことの救い主、まことの神の子が来られて、神様の救いの御業を完成される。自分はあくまで、そのことを指し示す者、その方を指し示す者である。そう弁えていたのです。
 ですから彼は、自分のことを「その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言ったのです。当時、履物のひもを解くのは奴隷の仕事でした。つまりヨハネは、自分は主イエス・キリストの奴隷になる値打ちさえないと言ったのです。私は、この洗礼者ヨハネの姿に、まことに神様に仕える者の姿を見るのです。彼は、主イエスを大きく、自分を小さくします。そのことによって、来るべき方、主イエス・キリストを指し示すのです。
 私共もそうなのでしょう。私共は、悔い改め、洗礼に与り、神の子、神の僕とされました。それは、私共に善い所があったからではありません。私共には何も無いのです。ただ神様のあわれみによって、私共は選ばれ、赦され、立たされている。私共は、主イエス・キリストを大きな方として示すことを願っています。そのためには、私共が小さくなるということが大切なのです。私が小さくなる。それは自分を卑下することでも、卑屈になることでもありません。そうではなくて、神様をほめたたえ、賛美することです。自分の小ささ、愚かさ、欠けている所を見つめることでもないのです。そうではなくて、主の大きさ、主のあわれみの豊かさ、主の力強さ、主の素晴らしさを語るのです。その中で自ずと、自分の小ささ、愚かさは明らかになるでしょう。私共の愚かさにもかかわらず、主が立て、用いてくださる所に、神様の大きさが現れるからです。私の弱さにもかかわらず、事を為してくださる所に、神様の強さは現れるからです。この神様をほめたたえるということと結びつかずに自分の欠けや愚かさを示した所で、それは少しも神様の栄光を現すことにはならないのです。それは愚痴でしょう。悔い改めた者の視線は、自分に向かうのではなく、神様に向くのです。方向転換した、メタノイアしたということは、そういうことなのです。
 聖霊によって洗礼を受けるとは、圧倒的な神様の力によって新しい命に生きる者にされるということです。繰り返し繰り返し悔い改める者になるということです。自分が生かされている意味、目的、誇りを、主によって与えられ続ける者にされるということです。自分の小ささ、愚かさ、欠けといったものからも解き放たれるということです。眼差しが天に向けられるということなのです。

5.伝道礼拝・集会に向けて
 次の週、私共は伝道礼拝・伝道集会を持ちます。そこで私共は何を伝えるのか。神様の大きさ、圧倒的な力、素晴らしい愛、新しい命でありましょう。それを伝えたいと願っている私共は、まず自分たちが、その素晴らしい神様の御業を、愛を、喜びほめたたえていなければ、伝えることは出来ないでしょう。この主をほめたたえる姿こそ、主を指し示す者の姿なのです。ハガキを出す。チラシを配る。聖歌隊の練習をする。そのすべての所で、主をほめたたえるということがなければならないのです。
 礼拝の後で賛美と証しをしてくださる清藤久美姉から、夕礼拝の後でも賛美をさせて欲しいという申し出がありました。「遠くから来られてお疲れでしょうに。」と申し上げましたら、「主に用いられるこのような機会は滅多にないのですから、存分に用いられたい。」とのことでした。主に立てられ、用いられる方の言葉だと思いました。
 今日は、礼拝後に愛餐会が行われます。転入された方、洗礼を受けた方の歓迎会も兼ねますので、多くの人に残って欲しいと思います。そこでテーブルごとに歓談の時を持ちますが、そこでは「私が初めて教会に来た時」というテーマでお話しいただければと思っております。きっとそこでも、神様はこんな風に私を導いてくださったという証しが為されるでしょうし、互いに主の御業の素晴らしさをほめたたえることが出来るのではないかと思います。この神様をほめたたえる者の群れとして立っていく時、私共は伝道する教会、伝道できる教会、神様に用いられる教会となっていくのだと思います。
 私共はまことに小さく、弱く、愚かです。しかし、主は大きく、力強く、あわれみ深く、知恵に満ちておられます。その方によって神の子とされ、神の僕とされ、愛され、選ばれ、立てられ、生かされている私共なのです。まことにありがたいことです。

[2013年9月22日]

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