富山鹿島町教会

礼拝説教

「私たちを救うただ独りの方」
エレミヤ書 31章31~34節
使徒言行録 4章5~12節

小堀 康彦牧師

 お手元にありますハイデルベルク信仰問答の問29、30をお読みいたします。

『ハイデルベルク信仰問答』 吉田隆訳(新教新書252 新教出版社)

問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。
答  それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできないからです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。
答  いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。

1.私たちとハイデルベルク信仰問答
 今朝は北陸連合長老会の交換講壇です。私は、今年は金沢教会の代務者として金沢教会に行かなければならない時が多いので、自分の教会の講壇を守るように配慮していただきました。しかし、北陸連合長老会の交換講壇の日でありますから、定められましたハイデルベルク信仰問答の問29、30をめぐって御言葉を受けてまいりたいと思います。
 北陸連合長老会の交換講壇の日は、どうしてハイデルベルク信仰問答なのかと思われる方もおられるかもしれません。この問いは、どうして北陸連合長老会は交換講壇をするのかということと重なります。この交換講壇というのは、いつも同じ牧師の説教ではつまらないので、たまには別の牧師の説教を聞くのも良いだろうといって為されているのではないのです。そうではなくて、違う牧師が来ても、同じ福音が語られる。わたしたちはいつもは別々の教会で礼拝を守っているけれど、与っている福音は同じなのだ。信じている信仰の筋道は同じなのだ。そのことを確認するために為されているのです。そして、これを更に明確に分かりやすくするために、ハイデルベルク信仰問答を用いているのです。何故なら、このハイデルベルク信仰問答というのは、世界中の改革派、長老派の伝統にある教会の共通の信仰告白だからです。
 私共は、信仰告白と言いますと、毎週礼拝で用います日本基督教団信仰告白を思い起こすでしょう。これは、一枚の紙に記される分量のものです。だから、信仰告白と言えば一枚の紙に記すことが出来るような分量のものを想像しがちでありますが、実はそうではないのです。日本基督教団信仰告白のような簡易信条、簡単信条とでも言えるような短い信仰告白の方が極めて珍しいのです。例えば、ハイデルベルク信仰問答などは129の問いと答えから成っており、当然一枚の紙に記すことは出来ませんので、一冊の本になっています。信仰告白というものは、その教会の信仰の筋道、教会の教理を明確に言い表したものですから、どうしてもそのくらいの分量になってしまうものなのです。
 ハイデルベルク信仰問答が出来ましたのは1563年のことです。今年はそれからちょうど450年になりますので、世界中でハイデルベルク信仰問答450年記念の行事が行われております。ルターの宗教改革が1517年ですから、ハイデルベルク信仰問答が出来たのは、それから50年ほど後になります。つまり、宗教改革第二世代の時であったと言って良いでしょう。当時のドイツは、現在のような統一国家の形をとっておりません。領邦と呼ばれる、いくつもの独立した国の集まりでした。ハイデルベルクがありますプファルツ選帝候国はフリードリッヒ三世が治めておりました。このプファルツ選帝侯国は、宗教改革を行って一応ルター派の立場をとっていたのですが、ハイデルベルク大学(これは1386年に出来たドイツで一番古い大学です)の神学部において、論争が起きるのです。それはルター派と改革派の間の論争でした。フリードリッヒ三世は、この論争に決着を付けないと自分の領内での混乱にもつながりかねないということで、公開討論なども行いまして、ついにカルヴァンの流れに立ったこの信仰問答を作成するに至ったのです。以来、450年の長きにわたって、世界中の改革派、長老派の信仰告白として受け継がれてきたのです。私共の教会が加盟しております北陸連合長老会は、その名称からも分かりますように、長老派教会の伝統にある教会の群れであり、そのことを自覚的に受け継ごうとしてしているわけです。だから、交換講壇でハイデルベルク信仰問答なのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、第一部(問3~問11)「人間の悲惨さについて」、第二部(問12~問85)「人間の救いについて」、第三部(問86~問129)「感謝について」という三部構成になっています。第二部の「人間の救いについて」が一番長く、使徒信条の解説と聖礼典について記されています。
 今朝与えられております問29、30は、この第二部にあって、使徒信条の「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。」から始まる部分の解説の、冒頭の所です。この部分は、父なる神への信仰を確認した後、子なる神に対しての信仰が言い表されています。

2.救済者イエス
 問29「なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。」と問います。先週も申し上げましたが、「イエス・キリスト」という言い方は、それ自体が「イエスはキリストである」という信仰告白になっているわけです。そして、「イエス」は人間として生まれ、十字架にお架かりになり、三日目に復活された方の名前であり、「キリスト」は救い主、メシアという意味の称号です。つまり、「イエス・キリスト」という言い方自体、あの十字架に架かり、三日目に復活されたイエスこそ救い主、キリストであるという信仰告白になっているわけです。
 今朝与えられているハイデルベルク信仰問答問29ではさらに、この「イエス」という名前にも意味があるというのです。マタイによる福音書1章20~21節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」とあります。主イエスが生まれる前、父親のヨセフに天使が夢で現れて告げたのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスというのは、両親が付けた名前ではないのです。神様によって、こう名付けるようにと命じられた名前だったのです。
 ちなみに、イエスは、ヘブル語ではヨシュアであり、「神は救う」という意味の名前です。ヨシュアという名前は、旧約聖書でも見られるように、特に珍しい名前ではありませんでした。しかし、ここで大切なことは、この名前は神様が与えられたものであり、それは「神は救う」という意味があり、その名前を付けられた理由が「この子は自分の民を罪から救うからである。」と主の天使によって告げられていたということなのです。主イエスというお方は、愛を語り、愛を実践され、十字架に架かり、復活されたから、神の子となったのではないのです。神の子が、わたしたちを罪から救うために人となられたのです。それは、神様が付けられたこのイエスという名前にも表れているということなのです。

3.私たちを罪から救うために
 ここで、「わたしたちを罪から救ってくださる」ということについて、少し考えてみましょう。ハイデルベルク信仰問答は、第一部において人間の悲惨について記していると申し上げましたが、この悲惨とは罪の悲惨、私共が罪の中にあるが故の悲惨というものを語っているのです。問5の答に「わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」と言われています。これは原罪と言われるものですが、この罪から自由な者は一人もいないのです。放っておけば、神様に敵対し、これをないがしろにし、隣り人を愛してこれに仕えることなど考えもつかない、それが私共なのであり、ここから様々な罪の現実が引き起こされるのです。その罪の現実、罪の悲惨から私共を救い出すために主イエスは来られたのです。この罪の現実、罪の悲惨から私共を救い出すとは、神様の子として、神様の僕として、神様に造られた私共の本来の姿を回復するということであり、隣り人との関係においても、互いに愛し合い、仕え合うという和解を与えられるということであります。
 神様との和解、隣り人との和解。私共はこれをどれほど求めていることでしょう。私共の人生における悩み、苦しみの多くは、この愛する隣り人との間における関係のこじれということではないでしょうか。主イエスの救いは、そこに至るというのです。私共に与えられる罪からの救いは、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命という言葉でも言い表されますが、これを私一人だけに与えられる個人的な救いという風にだけ考えては誤りだろうと思います。私が罪赦されるということは、私と神様との関係、私と隣り人との関係が変わるということでもあるはずなのであります。憎しみが愛に変わるということであるはずであります。これは、にわかに信じ難いと思われるほどのことでしょう。まさに神様による奇跡としか言いようのないことかもしれません。しかし、私共はその奇跡を本当に信じて良いのです。神様の救いの御業は、他でもないこの私の上に、私とあの人との上に起きるのです。
 私は、刑務所に毎月行っておりますが、そこでの語らいの中で思わされていることがあります。それは、人間は自分が救われることを求め始めると、自分の罪によって悲惨な状況に陥った人々のことを気にかけ始めるということです。刑務所に入っている人にとってそれは分かりやすいことですけれど、事柄としては、私共とて同じことだろうと思うのです。私が神様に愛され、神様の赦しに与り、神様の子とされるという救いの恵みに与ることを知る時、私共は「自分が救われるだけでは駄目なのだ。」そんな思いが湧いてくるのではないでしょうか。それが、私共の伝道の原動力となるという面もあるでしょう。そして、この思いが「執りなしの祈り」というものへと私共を導くということでもあるかと思います。
 そして、私はこう思っています。私が救われるということは、私個人が、私だけが救われるということにとどまることは決して無い。私という存在は、私だけで存在しているわけではないからです。家族を含め、多くの人との関わりの中で私は生きており、生かされている。そして、その関わりの中でこそ、私共は罪を犯している。その罪が赦され、救われるということは、罪の結果としての悲惨が乗り超えられていかなければならないということなのではないでしょうか。この多くの人との関わりを含めて、救われるということでなければならない。そうでなければ、私は救われたことにならない。そう思うのです。こう言っても良い。私が主イエスによって救われたのなら、そのことを本当に信じるなら、罪の悲惨の中にあるあの人もこの人も救われると信じることになるということなのです。私は救われた。それが本当なら、私の愛するあの人、困窮の中にあるあの人も救われる。神様の救いの御手の中にある。そのことを信じて良いのです。

4.主イエス・キリストによる救い
 今朝与えられております御言葉、使徒言行録の4章5節以下は、3章からの続きです。3章において、ペトロとヨハネは、毎日エルサレム神殿の「美しい門」と呼ばれる門に施しを乞うために座っていた、生まれながら足の不自由な人に対して、「わたしに金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と告げ、癒やしました。生まれつき足の不自由な人が、躍り上がって立ち、歩き出したのです。ペトロもヨハネも、私を救ってくださった主イエスというお方は、私だけを救うお方だとは思ってもいなかったのです。主イエスというお方は、この目の前の足が不自由であるが故に悲惨な状況の中にあるこの人を、必ず救ってくださるし、救うことかお出来になる方であるということを、少しも疑っていなかったのです。そして事実、主イエス・キリストの名によって奇跡が起きたのです。ペトロやヨハネに力があったわけではありません。主イエス・キリストの御名です。
 ペトロとヨハネはそのまま神殿に入り、主イエス・キリストによる救いを宣べ伝えました。主イエスが十字架に架けられてから、まだ二ヶ月ほどしか経っていません。主イエスを十字架に架けた人々は面白くなかったでしょう。ペトロとヨハネは捕らえられ、サンヘドリンと呼ばれる当時のユダヤの議会に立たされました。そして、7節「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と問われます。「ああいうこと」とは、足の不自由な人を歩けるようにしたことであり、主イエスの救いを宣べ伝えたことです。
 ペトロは、この問いに堂々と答えます。ペトロは聖霊に満たされて語りました。自分の知恵や勇気によって語ったのではありません。聖霊に満たされてです。そして、12節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と告げたのです。議会に集まっていた人々は当時のユダヤ教の指導者たちであり、知識も富も力も権威もありました。しかし、神様の御前でそれらのものは何の役にも立たない。ただ、イエス・キリストの御名、イエス・キリスト御自身だけが、私共を救うことが出来るということを、奇跡と言葉とをもって宣言したのです。

5.ただ主イエスのみを信じる
 ハイデルベルク信仰問答の問30は「それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。」と問います。この信仰問答は1563年という時代に記されたものですから、ここで「聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々」という言葉が使われています。主イエス以外の聖人に頼ったり、自分の良き業に頼ったり、聖人が使っていた遺物を見たり触れたりして癒やされることを願ったりという、中世の信仰のあり方に対して、否と言っているのです。このことは、文字通りには私共の今の信仰の有り様とは対応しないでしょう。しかし、主イエス・キリスト以外のものに頼ろうとする心は、私共現代のキリスト者の中にもあるでしょう。「自分の幸福や救い」を主イエス・キリスト以外のものに頼る。それは富であったり、地位であったり、自分の能力であったり、知恵であったり、甚だしくは占いであったりするかもしれません。しかし、そのようなものに頼る者は、結局の所、主イエス・キリストによる救いを本当には信じていないのであって、そうであるならば、救いは「自分の救い」という所にとどまり、決して、罪にあえぐあの人の救いには至らないということになりましょう。そして、その自分の救いというのも、自分が安泰に暮らせるということを言い換えたに過ぎないものなのであります。そのような安泰は、まことに小さな歯車が一つ狂うだけで、すべてが瓦解してしまうようなものに過ぎません。その小さな歯車の狂いとは、病気であったり、家庭内のトラブルであったり、経済的な問題であったりしますが、そのようなことは長い人生の中で必ず起きるものなのです。
 しかし、主イエス・キリストの与える救いは、それらの出来事をもってしても、決して奪われることのない平安であり、喜びであり、希望なのです。そしてそれは、私だけに与えられるのではなく、私共が愛するあの人この人にも与えられるものなのです。何故なら、主イエス・キリストは、私共を一切の罪から救ってくださる、神の御子だからです。この方の御名にこそ、この方御自身にこそ、この方との交わりの中にこそ、私共すべての罪人の救いがあるのです。私共を救ってくださる名は、この名の他にはないのです。 

[2013年9月15日]

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