1.マルコによる福音書の連続講解を始めるにあたり
今日からマルコによる福音書から御言葉を受けてまいります。
マルコによる福音書は、四つの福音書の中で一番短い、分量の少ない福音書です。マタイによる福音書を短くしたものであると理解されていた時代もありましたけれど、今では四つの福音書の中で一番最初に記されたものと考えられております。記された時代は多分紀元後60年代、主イエスが十字架にお架かりになり復活されてから30年後ぐらいであろうと考えられています。マタイによる福音書はそれよりも10年後くらい、ルカによる福音書は更に少し後で、ヨハネによる福音書は90年代ではないかと考えられております。マルコによる福音書が短いのは、表現がとても簡潔であるという理由にもよります。また、マタイやルカは、マルコによる福音書を既に知っていて、これに記されていない記事を加えているということにもよります。
私共は、2年半にわたって、ヨハネによる福音書に始まりましてヨハネの手紙一、二、三と読んでまいりましたので、マルコによる福音書はずいぶん書き方が違うという感じを受けるだろうと思います。聖書でありますから、ヨハネ文書もマルコによる福音書も、記そうとしていること、伝えようとしていることは同じはずであります。しかし、記し方が違う。それは、同じ出来事であっても、それを見聞きした人が違えば、その伝え方が違うということでもありましょう。その辺の違いも弁えながら、マルコが告げようとした福音をしっかり聞き取っていきたいと思います。
2.マルコという人
この福音書を記したマルコという人物ですが、主イエスの直接の弟子であった使徒たちから数えるなら、第二世代のキリスト者であったと言えると思います。このマルコについての記述は、使徒言行録や手紙の中に何度も出てまいります。何箇所か見てみましょう。
最初に、使徒言行録12章12節に「こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」とあります。これはどういう場面かと申しますと、使徒ヤコブが殺されるという、十二使徒の最初の殉教があった時です。更に、ペトロも捕らえられ牢に入れられた。この時、生まれたばかりのキリストの教会は何をしたかといいますと、集まって祈ったのです。その家が、マルコの母マリアの家であったというのです。マルコの母が熱心なキリスト者であったことは間違いありません。まだ教会の建物さえ無い時です。小さな群れです。そういう時に、一番の指導者であるペトロが牢に入れられた。私共ならどうするでしょうか。「教会という所は危ない所だ。近づかないようにしよう。自分にも危害が及ぶかもしれない。」そんな風に考えるかもしれません。しかし、初代教会のキリスト者たちはそうではなかったのです。皆で集まって祈ったのです。ペトロが牢から救い出されるよう祈ったのです。その祈りの場がマルコの家でした。この時、ペトロは天使の導きによって、牢から助け出されます。そして、ペトロが牢から向かったのもマルコの家だったのです。このことは、マルコの家が日常的にキリスト者が集う場所であったということを示しています。マルコはそういう意味で、教会の子とでも言うべき環境の中で育った人だったのです。マルコはこの時もその場に居合わせたのではないかと思います。マルコは、主は生きておられるということを、驚きと喜びの中で知ったはずです。自分の家に来るペトロを初めとする多くの使徒たち、伝道者たちをマルコは知っておりました。
次は、使徒言行録12章25節で、「バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。」とあります。マルコはバルナバに伴われ、パウロの第一次伝道旅行に同行しました。しかし、15章37~40節には「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。」とあります。マルコは、何が原因か分かりませんが、パウロの第一次伝道旅行の途中で帰ってしまったのです。ですから、第二次伝道旅行にマルコを連れて行くかどうかで、パウロとバルナバが衝突してしまい、その結果別々に伝道することになり、マルコはバルナバと伝道することになったのです。ちなみに、バルナバはマルコのいとこであると、コロサイの信徒への手紙4章10節に記されています。この若い時のマルコの挫折も意味があったと思います。自分の弱さを知らされ、しかしそれでも彼は、キリストの福音を伝える者として立ち続けたのです。バルナバを初めとする周りの人たちの支えもあったでしょう。しかしそれ以上に、主が彼と出会い、彼を励まし、彼を慰めたに違いないと思う。この時、マルコとパウロは決別したのですけれど、その後のパウロが記した手紙の中で、マルコはパウロから大変愛され、信頼されていることが分かります。テモテへの手紙二4章11節に「ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」とあり、フィレモンへの手紙24節に「わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。」とあります。
そして、もう一つ大切な所は、ペトロの手紙一5章13節に「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」とあります。マルコはペトロの通訳として、ペトロと同行していたと伝えられています。つまり、マルコは主イエスの直接の弟子ではありませんでしたが、主イエスの言葉と業を語ったペトロのそばにおり、キリストの福音の教理を明確にしたパウロの教えを聞いていた。そして、彼自身、伝道者としてその福音を伝える者であったということであります。
マルコにとって、彼がこの福音書で伝えようとした福音とは、理屈ではありません。自分が生まれ育った家で起きた救いの出来事。福音が告げられ、それによって主イエス・キリストを信じる人が起こされる。皆で祈る中で、ペトロが牢から救い出される。自分が挫折した時に、再び立ち上がらせられた。そのような圧倒的な神様の救いの御業と結びついていることでした。そして、愛するペトロが、パウロが、バルナバが、命を賭けて伝えているものでありました。その福音を伝えるために、彼はこの書を記したのです。
3.イエス・キリストの福音
この福音書の冒頭は、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。大変印象深い言葉です。この言葉は、ギリシャ語では七つの単語から成る大変短い文章です。「初め、の、福音、イエス、キリスト、子、神の」です。これを1章8節までの部分の表題であるという読み方をする人もおりますが、そうではなくて、これはマルコによる福音書全体の表題として読むのが正しいと思います。
ある人はこの文章を、「神の子イエス・キリストの福音はこうして始まった。」と訳しています。これもなるほどと思います。マルコが記し、伝えようとしたのは、福音です。その福音は、ペトロが伝え、パウロが伝え、バルナバが伝え、自分自身も伝えてきたものであり、多くの人々が信じ、それによって救われているものです。この福音はイエス・キリストというお方の業と言葉、もっと言えば、イエス・キリストというお方そのものに端を発していることなのです。だから、イエス・キリストというお方が何を為し、何を語り、どういうお方であったかということを抜きにして、福音は分からない。だから、その福音を伝えるために、この書を記す。その思いが、この冒頭の言葉に表れていると言って良いでしょう。
マルコは、ここで単に福音とは言わず、「神の子イエス・キリストの福音」と記しました。これは重要なことです。現在では、福音と言えば、ほぼキリスト教会で用いられている意味でしか用いられません。しかし、当時はそうではなかったのです。福音という言葉は、ギリシャ語ではエウアンゲリオン( ευαγγελιον)と言いますが、これは元々、エウ:「良い」という言葉と、アンゲリオン:「知らせ」という言葉から成っており、合わせて「良い知らせ」となります。英語でも同じで、ゴスペルという言葉は、ゴッドスペル(god-spell)です。ゴッドというのは古い英語で「良い」、goodの古い形です。スペルというのは「話」という意味で、合わせて「良い話」「良い知らせ」となります。後に、ゴッドを神を意味しているととって、「神の言葉」「神の話」と説明する人もいますが、それは間違いです。ちなみに、日本語の「福音」は、日本語より先に聖書が翻訳された中国語の訳から借りたものです。日本語なら「吉報」「嘉信」となるのかもしれません。
このエウアンゲリオンという言葉、福音という言葉は、キリスト教会が使う前から使われておりました。それは、戦いに勝ったという知らせを意味したり、皇帝が即位したり、皇帝に子が生まれた時にこの言葉が使われておりました。しかしマルコは、戦争に勝ったとか、新しい皇帝が即位したとか、皇帝に子が生まれたということが、本当の福音ではない。本当の良き知らせなどではない。そうではなくて、イエス・キリストが来られたということこそ、福音の始まりなのだと告げているのです。
本当の福音。それは、神様に敵対していた者、罪の闇の中にいた者が、神様の赦しに与り、神の子、神の僕として、永遠の命に生きる者とされることではないか。強い者が弱い者を食い物にして虐げるのではなくて、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う者として生きるようになることではないか。まことの愛であられる神様が、まことの王としてその御支配を確立されることではないか。その福音はどこから始まったのか。神の子イエス・キリストによって始まったのだ。そうマルコは告げているのです。
今朝は、2020年オリンピックの東京招致が決まったというニュースが流れていました。これもまた喜ばしい知らせでありますけれど、これによってすべて全の人がどんな時でも生きていけるという知らせではありません。まことの福音とは、これがあるから私は生きていける、そうすべての人が言える喜びの知らせなのです。その福音を、私共はここで聞き続けているのです。
4.神の子、イエス・キリスト
その福音をもたらした方、イエス・キリストとは誰か。神の子である。そうマルコは告げます。申すまでもなく、イエスというのは名前であり、キリストというのは元々ヘブル語ではメシアと言い、旧約以来、神様によって遣わされると約束されていた救い主のことです。ですから、私共は何気なくイエス・キリストと言っていますが、この言い方自体が、「イエスはキリストである」という信仰の告白になっているのです。ギリシャ語では、よほど強調する時以外は、英語で言うbe動詞、日本語の「である」という言葉は省略されますので、イエス・キリスト(Ιησους Χριστος )と言えば、「イエスはキリストである」という意味になるのです。
しかし、これは旧約を知っている人にとっては、イエスはキリストである、イエスはメシア、救い主であるということで通じるのですが、旧約を知らない人々にキリスト教が伝わっていく中で、このことが分からなくなっていったようなのです。イエス・キリストという言葉は固有名詞となり、イエスが名前でキリストが名字であるというような誤解さえ生じてきたらしいのです。これは、現代の日本においても同じようなことになっているのではないかと思います。マルコによる福音書は、このような誤解を避けるために、「神の子」という言葉を加えたのだと考えられています。
しかしこの一語は、大変重要な意味を持っておりました。それは、あのナザレで育ち、十字架に架かり、三日目に復活したイエスという人間が、旧約以来預言されていた救い主、メシアであり、まことの神の御子、神そのものであられるという信仰を言い表しているからです。あのイエス・キリストというお方がまことの神の子でなければ、福音にならないのです。福音というのは、イエス・キリストがお話しになったことや、イエス・キリストがなさった様々な奇跡を指しているのではないのです。そうではなくて、まことの神であるキリストが、人間イエスとしてこの地上に降って来られ、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになり、私共の一切の罪の裁きを担ってくださった。それ故私共は、この神の独り子、イエス・キリストを信じるならば、一切の罪を神様に赦される。神の子、神の僕としていただける。永遠の命に生きる者とされる。死の縄目から、サタンの支配から、解き放たれる。それが福音です。
ですから、イエス・キリストというお方が、まことの神の独り子、まことの神でなければ、すべての人の罪の裁きを一人で担うなどということは出来るはずもないのであって、そうであるならば、福音は成立しないのです。マルコによる福音書はどこまでも、神の子であるイエス・キリストによってもたらされた福音を告げようとしているのです。ですから私共も、この福音、神の子イエス・キリストの福音を聞かなければ、マルコによる福音書を読んだことにはならないのです。この1章1節の言葉は、私共がどのようにマルコによる福音書を読むべきか、そのことを明確に示しているのです。
5.旧約の預言の成就としての主イエス・キリスト
さて、マルコによる福音書には、主イエス・キリストの降誕の記事、いわゆるクリスマスの記事はありません。洗礼者ヨハネの登場から書き始めています。それも、旧約の預言の成就として洗礼者ヨハネを描き、その後に来られるイエス・キリストを指し示す者として描いています。ここで確認しておかなければならないことは、洗礼者ヨハネにしても、主イエス・キリストにしても、旧約の預言の成就であったということです。たまたま、偶然、この時代のこの場所に洗礼者ヨハネが、主イエス・キリストが生まれ、出会ったのではないということです。ここには、神様の御計画があったということなのです。
それは、私共一人一人においても同じことであります。私共は今日、ここで主の日の礼拝を守り、神様に祈り、御言葉を受け、神様をほめたたえております。このことは、少しも偶然ではないのです。神様の永遠の御計画の中で、私共はここに招かれ、導かれてきたのです。私共は、このことをきちんと受け止めなければなりません。
マルコは、先程お話ししましたように、母親がキリスト者の家で生まれ、神様が生きて働いておられることを目の当たりに見て育ちました。そして、いとこにはバルナバという伝道者がおり、自分もまた伝道者として生きた。そして、この福音書を記した。それはマルコが、自分の生かされている場を、歩んできた道を、神様が与えてくださった場、神様が与えられた道として受け取ったからでしょう。
私共も、自分が神の子イエス・キリストの福音を聞いた。聞いている。この事実を、神様の御手の中の出来事として、しっかり受け止めたいと思うのです。そこで、私共はこの福音にどう応えていくのか、その問いの前に立たなければならなくなるでありましょう。神の子イエス・キリストが、私のために来られた。私を救うために、私が神の子として生きることが出来るようになるために来られた。そのために十字架にお架かりになった。このイエス・キリストというお方が、神様の救いの恵みの中に生きるようにと招いてくださったのです。私共は、この招きに応えて、精一杯、主の救いの御業にお仕えしていきたいと思うのです。この一週、イエス・キリストと共に、イエス・キリストが招いてくださった天の御国への道を、共々に歩んでまいりましょう。
[2013年9月8日]
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