富山鹿島町教会

伝道開始記念礼拝説教

「ただ神の言葉に導かれて」
エゼキエル書 2章1〜6節
テモテへの手紙 二 2章8〜13節

小堀 康彦牧師

1.私共の教会の伝道開始
 昨年から、私共は8月の第一の主の日を、伝道開始記念礼拝として守ることにいたしました。それまでは、長く夏期総員礼拝として守ってきました。年に4回しか聖餐を守らなかった時代、夏の聖餐礼拝を重んじましょうということで付けられた名称だろうと思います。今は、毎月第一の主の日に聖餐礼拝を守っておりますので、総員礼拝という名称も意味も薄らいできました。そこで、この8月第一の主の日の礼拝を、私共の教会の伝道開始記念礼拝として守ることにしたわけです。
 週報にありますように、私共の教会の伝道開始は、トマス・ウィン宣教師一行が1881年(明治14年)8月13〜15日の三日間、旅籠町の山吹屋においておこなった伝道集会であることが、当教会の百年史に記されております。そして、この時が、この富山の地にキリストの福音が初めて伝えられた時でありました。その後、2年ほどして1883年(明治16年)にキリスト教の講義所が出来ました。そして、次の年には総曲輪に講義所が出来ました。この講義所というのは、何人かの信徒がおり礼拝を守っているが、まだ教会として認識されていない、教会の準備段階のようなものです。この総曲輪の講義所が、やがて総曲輪教会となり、鹿島町教会となっていくわけです。この講義所の設置が正式にいつだったのかは、良く分かっておりません。しかし、伝道者が派遣されておりましたのは確かなことで、初代の伝道者として長尾巻が派遣され、次に林清吉、その次に戸田忠厚、さらに篠原銀蔵、田島堅三という伝道者たちが、富山の講義所で伝道したのです。この頃の教勢は、礼拝が十数名であったようです。この頃、講義所は借家で行われていたと考えられます。
 そして、1902年(明治35年)、伝道開始から既に20年が経っておりましたが、この年に特筆すべき出来事がありました。総曲輪の100坪の土地を米国長老教会が買い、翌年この土地に会堂と牧師館が建てられたのです。そして、中村慶治牧師が伝道者として遣わされてきました。この中村牧師が10年間この地で伝道し、ついに1912年(明治45年)富山講義所が富山伝道教会となったのです。実に伝道開始から30年が経っておりました。遂に教会となったのですが、この時はまだ「伝道教会」です。この伝道教会というのは、経済的に援助を受けなければ立っていけない教会ということです。富山伝道教会は、当時の日本基督教会浪華中会からの援助によって立っていたのです。援助を受けずとも自分たちだけで立っていける教会になりますと、伝道教会から独立教会となります。言い方としては、富山伝道教会から富山教会となるだけで、独立という言葉は使われませんけれど、教会は独立教会になって一人前ということではなかったかと思います。しかし、残念ながら、富山伝道教会は、旧日本基督教会時代に独立教会になることは出来ませんでした。そして、1941年(昭和16年)に日本基督教団が成立しますと、日本基督教団富山総曲輪教会と改称します。そして戦後、1954年(昭和29年)に鷲山牧師が赴任され、1958年(昭和33年)に日本橋教会に転任されるその前年まで、教団からの援助を受けていたのです。
 私共が今朝、この伝道開始記念礼拝において覚えたいことは二つです。一つは感謝、もう一つは伝統を守るということです。

2.感謝すべきこと
 感謝の第一は、米国長老教会によって総曲輪の土地を与えられたということ。第二の感謝は、伝道開始から数えて今年で132年になりますが、その内の1881年から1958年までの77年間、私共の教会は援助を受け続けていたということです。つまり、私共は自分の力だけでここまで歩んできたなどと、決して思い上がってはいけないということです。私は中学生の頃、よく母に「一人で大きくなったような顔をして。」と言われました。その頃は何を言われたのか、意味が分かりませんでした。今は分かります。私共の教会も、一人で大きくなったような顔をしてはいけないのです。感謝を忘れてはなりません。具体的にどのように感謝を表せば良いのか分かりませんけれど、米国長老教会に対して、また浪華中会(これはもう存在しないのですけれど)に対して、何らかの感謝を表していかなければならないのではないか。そう思うのです。
 第三に、金沢教会との交わりです。私共の教会の伝道は、金沢教会との深い交わりにあったということです。私共の教会は、金沢教会の子教会とは言えないかもしれませんが、大変な恩恵を金沢教会から受けてきたのです。トマス・ウィンも、長尾巻も、林清吉も、金沢教会から遣わされてきた伝道者たちでした。金沢教会が無ければ、私共の教会は生まれることも歩み続けることも出来なかったのです。金沢教会としては、独立教会として当然のことをしたまでのことでしょう。金沢教会から恩着せがましい言葉など、一度も聞いたことがありません。当たり前のことです。教会は、主から受けた恵みに感謝して、何とか主にお応えしようとする中で、恵みを愛を外に向かって注いでいくものだからです。今、私は金沢教会の代務者をしております。来週も礼拝の後すぐに、長老会のために金沢教会へ行かなければなりません。毎週木曜日には聖研祈祷会に行きます。午後の4時に出て、戻るのは10時半です。なかなか大変です。しかし、132年間の私共の歩みの中で、私共の教会が金沢教会から受けた恩恵を思いますならば、ささやかな恩返しにもならないようなことなのです。今、独立教会となった私共は何を為していくのか。そのことを、きちんと受け止めなければならない。そう思うのです。

3.伝統を守る
 二つ目の、伝統を守るということですが、私共が受け継いだ長老教会の信仰の伝統をしっかり守っていかなければならないということです。トマス・ウィン以来、会堂が与えられるまでに遣わされてきた伝道者、長尾巻、林清吉、戸田忠厚、篠原銀蔵、田島堅三、そして中村慶治は、皆、日本基督教会あるいはその前身であります日本基督一致教会の伝道者たちでありました。私共は今日、1890年に制定されました「日本基督教会 信仰の告白」を告白します。それは、この信仰をもって私共の教会は伝道をしてきましたし、この信仰をもって教会を建ててきたからです。日頃告白しております「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)は、この信仰告白の上に積み重ねられているものなのです。この伝統を忘れてしまえば、私共の教会は変化していく時代の中で、自分が何者であるかを忘れてしまい、何によって建っているのか、何を伝えているのかが分からなくなってしまうのではないかと思います。

4.伝道の困難を突き抜けて
 さて、この伝道開始記念礼拝のために『総曲輪教会百年史』を読み返して、改めて思わされますことは、今日振り返りました伝道開始から40年間というものは、実に困難な伝道の戦いを為し続けたということです。1898年(明治31年)の浪華中会での報告において、「富山市は不相変布教困難。書記官、公然県議会堂に立て基督教の防御策を講せりと聞くを以て一班を知るべし。目下求道者三名あり。」とあります。よく「富山の伝道は大変だ。」という言い方がされます。改めて百年史を読んで、本当に大変な中、伝道し続けてきたことを思わされるのです。しかし、キリスト教の伝道の歴史は、世界中どこでも、例外的な事例を除けば、ほとんどいつでも大変なのです。何故なら、キリスト者が生まれる、洗礼者がある、教会が建ち続けていくということは、神様による新しい命の誕生であり、新しい価値観が生まれることであり、そこでは当然、主イエスを知ることのなかった文化、生き方、考え方とぶつかるということが起きるからです。それは、その人個人の中でも起きますし、その社会や地域というレベルでも起きます。これは必然的なことで、避けることは出来ません。ですから、伝道というのはいつでも、どこででも困難なものなのです。
 今朝、与えられている御言葉において、聖書はこう告げます。テモテへの手紙二2章8節「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」とあります。このテモテへの手紙というのは、使徒パウロが、若い伝道者テモテに送った手紙です。経験の豊かな伝道者であるパウロが、若きテモテに様々なアドバイスをしている手紙なのです。パウロが伝道した時も、テモテが伝道した時も、やっぱり大変な時代だったのです。楽に伝道出来たわけではないのです。そのような中で、パウロはテモテに、「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」と言うのです。伝道者に向かって「イエス・キリストのことを思い起こせ」というのは、あまりに当たり前のことを言っているようにも思えます。しかし、「イエス・キリストを思い起こす」ということは、その誕生と十字架と復活によって示されている神様の圧倒的な恵みと力とを思い起こせ、その圧倒的な恵みと力の中に自分が生かされていることを思い起こせ、と言っているのでしょう。ですから、パウロは続けてこう言うのです。「この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」わたしが信じ、述べ伝えているイエス・キリストというお方は、肉体をとって人としてダビデの子孫として生まれた。天と地を造られたただ一人の神の御子が、肉体をもって現れたのだ。まことにあり得ない、考えることも出来ないほどの神様の力ではないか。しかも、御子はわたしのために、わたしに代わって十字架で殺され、神様の一切の裁きを身に受けるために来てくださったのだ。何とありがたいことか。そして、御子は三日目に復活された。死を打ち破られたのだ。この復活の命に生かされ、復活の力に守られているのだから、伝道という困難な状況の中でも打ちひしがれてはならない。イエス・キリストを見上げて、雄々しくあれ。そうパウロは告げたのです。この御言葉は、困難な伝道をしている代々の伝道者たちを励まし続けてきました。トマス・ウィンも、長尾巻も、林清吉も、戸田忠厚も、篠原銀蔵も、中村慶治も、皆、イエス・キリストを思い起こしつつ、この富山での伝道の業に励んだに違いないのです。

5.神の言葉はつながれていない
 更にパウロは言います。9節「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」パウロは、主イエスの福音を述べ伝えるが故に牢につながれました。その牢の中から、若き伝道者テモテを励ましているのです。確かに自分は牢につながれている。しかし、神の言葉はつながれていない。神の言葉が広がりゆくのを誰が阻止しようとしても、それは出来ない。何故なら、この神の言葉によって、この福音によって、世界を生まれ変わらせ、人々を救おうとするのが、神様の御心だからです。時間はかかるかもしれません。しかし、神の言葉の広がりゆくのを止めることは誰にも出来ないのです。神の言葉は、1880年かかってこの富山の地まで広がってきましたし、それから132年かかってさらにこの富山の地において広がり続けてきたのです。この広がりゆく神の言葉を押しとどめることは誰にも出来ません。私共は、この広がりゆく神の言葉、神様の救いの御業にお仕えするために、先に召された者たちなのです。

6.聖霊による熱をもって
 パウロは、続いて10節で「わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」と告げます。自分の身の上に起きた労苦さえも、神の言葉によって救われた人が生まれるなら耐え忍ぼうと言うのです。まことに熱き心であります。この熱こそ、聖霊なる神様によって召し出された者に与えられているものなのです。
 良いですか皆さん、伝道において大切なのは、この熱なのです。伝道へと私共を押し出していくのは、この熱を帯びた愛なのです。神様への愛であり、隣り人への愛です。この愛は熱いのです。熱のない愛などあり得ません。何故なら、私共に注がれている愛は、罪人を救わんがために我が子を十字架にお架けになるという、熱く激しい父なる神様の愛だからです。この熱き愛に突き動かされて、代々の聖徒たちは伝道へと押し出されていったのです。
 11〜13節は、当時の讃美歌であると考えられています。11〜13節「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」何と教理的な讃美歌でしょう。洗礼を受けるということは、キリストと一つにされて、キリストと共に死ぬということであり、キリストと共に生き、キリストと共に復活させられる者になると歌うのです。イエス・キリストを思って、この地上における困難を耐え忍ぶならば、神の国における栄光を受ける。この地上でキリストを否むなら、神の国においてキリストに否まれることになってしまうと歌うのです。このような神様の救いの御業、恵みの事実が高らかに歌われる礼拝の中で、伝道する教会、伝道するキリスト者の信仰が養われていったのです。礼拝においてどのような讃美歌が歌われるかということは、とても大切なことです。私共の信仰が讃美歌によって養われるという面が確かにあるからです。ここで、このような教理的な讃美歌が歌われる教会において、伝道するキリスト者の信仰が養われていったということを見落としてはなりません。教理は冷たいとか、頭でっかちだという批判は当たらないのです。この教理というものは、神様の救いの御業を語るのですから、冷たくなりようがない。教理において語られる神様の救いの御業は、熱き神の愛が表に現れ出たものだからです。教理を語ることが、神様の愛を語ることにならないとすれば、それは正しく教理が語られていないということなのではないでしょうか。

 私共の地上での信仰の歩みはたどたどしいものです。欠けがあります。しかし、キリストは真実です。このキリストの真実に依り頼んで、このキリストの真実に生かされ、このキリストの真実を熱き愛をもって語っていくのです。広がりゆく神の言葉に仕え、広がりゆく神様の救いの御業に仕える者として、私共は召されたからです。

[2013年8月4日]

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