1.主イエス・キリストを信じる者
主イエス・キリストを信じる人は、その信仰によって主イエス・キリストと一つに結ばれます。そして、主イエス・キリストに結ばれた人は、主イエス・キリストの内にある永遠の命、復活の命を与えられます。実に、主イエス・キリストを信じるということは、驚くべき恵みを私共に与えてくれるのです。私共は、この恵みに感謝し、この恵みを与えてくださった神様をほめたたえるために、ここに集っているのです。
私共は日々の生活の中で、自分に与えられております救いの事実、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと一つにされ、永遠の命を与えられているという事実を忘れ、目の前で起きる様々なことに心を奪われてしまいます。まるで自分一人の力ですべてを為していかなければならないかのように思い、自らの力の無さにうろたえ、打ちひしがれてしまうこともあります。しかし、そのような私共に向かって、今朝も主なる神様は、私共が何者であり、どのような救いの恵みの中に生かされているかを、聖書の言葉を通して告げてくださいます。そして、私共のうつむいてしまいがちな眼差しを、しっかり天に向かって、神様の御手にある明日に向かって、上げさせてくださるのです。ため息をついてばかりいるような私共の唇に、主をほめたたえる賛美と感謝と祈りとを備えてくださるのです。
2.水と血によって来られた方
さて、主イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか、改めて御言葉に聞いてまいりましょう。
6節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。」とあります。ここで、主イエス・キリストは「水だけではなく、水と血とによって来られた」と告げられています。一読しただけでは何を言っているのか良く分からない所ですが、ここで言われている「水」とは、主イエスが洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けたことを指しています。そして、「血」というのは、主イエス・キリストの十字架を指しているのです。
どうして「水だけではなく」と言われているのかと申しますと、今までも何度か申し上げてきましたが、このヨハネの手紙一が書かれた頃、教会の中で間違った教えを宣べる人たちが出て来ていたのです。どういう教えかと申しますと、天におられた神の独り子であるキリストは、主イエスが洗礼を受けた時にイエスに下ってきた。そして、そのキリストは、主イエスが十字架にお架かりになって死ぬ直前に、天に戻ったのだという主張でした。この人たちの主張を、イエス・キリストは「水だけで来た」と言っているのです。この背景にあるのは、霊は聖いが肉は汚れている、だから神の独り子キリストが肉体をもって来られたということを認めないというものでした。まして、霊的な神が肉体的苦痛を味わうなどということはとんでもない。当然、主イエスの十字架は意味のないものになってしまいます。
それに対して、このヨハネの手紙一を書いた人は、そうではなくて、確かに主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことは重要であるが、その時からイエスがキリストになったのではなく、主イエスは生まれた時からキリストであり、十字架で死に、三日目に復活された時もキリストであった。イエスとキリストを別々に分けることは出来ない。そういう主張を、「水と血によって来られた」と言ったのです。
新約聖書は二千年近く前に記されたものですから、当時の人には何も説明がなくても分かることであっても、私共には、このような説明が加えられませんとなかなか分からないという所もあるのです。
ここで、「水によって来られた」ということと、「血によって来られた」ということについて見たいと思いまず。
3.水によって来られた方
「水によって来られた」というのは、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという出来事を示しているのですが、これは四つの福音書すべてに記されている出来事です。この時、”霊”が鳩のように主イエスに降ったこと、そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という御声があったと聖書は記しています。この出来事の後、荒野の試みを経て、主イエスは伝道活動に入られたのですが、この出来事はその意味で、これから始まる伝道活動に対して神様からのお墨付きが与えられた時と言っても良いと思います。それがどういう内容のお墨付きであったかと申しますと、主イエスの歩みは十字架へと続いていくわけですが、神様は主イエス・キリストのこの十字架への歩みを良しとされたということなのです。
主イエスは洗礼者ヨハネから「罪の赦しを得るための洗礼」を受けられたのですけれど、これは本来イエス様には必要のないものでした。主イエスは罪無き神の独り子なのですから、「罪の赦しを得るための洗礼」などは元より必要ないのです。ところが、それを受けられたのです。何故か。それは、主イエスがすべての罪人と同じ所に下って来られたということなのです。罪人と同じ所に下り、罪人と一つになる。そのために主イエスは洗礼を受け、そのことを神様は良しとされたということなのです。
4.血によって来られた方
次に、「血によって来られた」ということですが、主イエス・キリストは十字架にお架かりになって、すべての罪人の受ける裁きを御自身の上に引き受けられました。この十字架もまた、洗礼と同じく、神様の裁きなど受ける必要など全く無かったのです。しかし、お受けになりました。私共が神の子、神の僕として新しく生きるためです。この十字架の前にキリストはイエスから離れて天に帰ったなどということであれば、あの十字架は何の意味があるのでしょう。更にその後に続く復活は、どんな意味があるのでしょう。まことの神の独り子、イエス・キリストが十字架にお架かりになってくださったから、私共の罪は赦された。このお方が復活してくださったから、私共もまた復活する、永遠の命を与えられるということになったのです。
この「水と血によって来られた」方こそ、私共を一切の罪から救うために天から下って来られた神の独り子、イエス・キリストなのです。
5.聖霊によって
そして、そのことを証しするために、神様は聖霊を与えてくださいました。私は、このヨハネの手紙を説教する中で何度も語ってきましたが、あの十字架に架かり三日目に復活されたイエス様を神の独り子、救い主と信じる信仰は、聖霊なる神様によって私共に与えられたものです。聖霊なる神様が私共に注がれ、私共の中に宿り、「イエスは主なり」との信仰の告白を与えてくださったのです。聖霊によらなければ、誰も「イエスは主なり」とは言えないのです。私の知恵、私の認識、私の決断といったものは、私共の信仰に不可欠なものではありますが、それはすべて聖霊によって与えられたものなのです。聖霊によって与えられた知恵であり、聖霊によって与えられた認識であり、聖霊によって与えられた決断なのです。そして聖霊なる神様は、信仰による希望を与え、平安を与え、喜びを与え、生きる意味を与え、目標を与え、生きる力と勇気を与えてくださいます。この聖霊なる神様のお働きの中で、私共の信仰の歩みはことごとく導かれているのです。
6.主イエスから私共に
7〜8節「証しするのは三者で、”霊”と水と血です。この三者は一致しています。」とあります。これは、聖霊なる神様のお働きの中で、主イエスの洗礼、主イエスの十字架の意味が私共に教えられ、あの十字架にお架かりになった主イエスが、神の独り子キリストであるということが証しされ、私共がそれを信じることが出来るようにされているということなのです。そして、これは神様が与えてくださった証しなのだと、続いて9節に記されるのです。9節「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」
ここで私共は、聖霊なる神様のお働きの中で、主イエス・キリストの洗礼と十字架の出来事が、私共の信仰の歩みにおいても受け継がれ、私共の信仰を確かなものとするために与えられているという事実に目をとめなければなりません。
それは、主イエス・キリストの洗礼が、主イエスだけのことにとどまらず、私共の洗礼へとつながっているという事実です。洗礼は、キリスト者が誕生する出来事です。教会は、復活の主の御命令である「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイによる福音書28章19〜20節)という、主イエスの大号令に基づいて洗礼を授けてきたわけですが、その大本には主イエス御自身の洗礼があるのです。主イエスが洗礼をお受けになって、罪人の所に下ってきて一つになられた。この罪人と一つになられた主イエスの洗礼があるから、私共は洗礼を受けることにより主イエスと一つにされるのです。
別に洗礼を受けなくても、信じていればいいではないか。洗礼という儀式など、単に頭に少し水をかけるだけのことではないか。そんな思いを、今まで何人もの求道者から聞きました。しかし、それは信仰というものを「私が信じる」という観点からしか理解していないのであって、それは聖書が告げる信仰ではないのです。信仰は聖霊によって与えられるものであり、それによって主イエスと一つにされるという、驚くべき事態なのです。この主イエスと一つにされるという出来事は、神の独り子である罪無き主イエスがまず、罪人と同じ所に下って来られて、洗礼を受けた。そして、その洗礼へと罪人を招き、罪人がそれに応えることによって生じる事態なのです。もちろん、そこには聖霊なる神様が働いてくださらなければなりません。この聖霊の働きの中で、私共は洗礼という出来事を通して、主イエス・キリストと一つにされた者、神の子、神の僕とされ、全く新しい存在へと生まれ変わるのです。
次に、主イエスの十字架でありますが、私共は聖餐のたびごとに主イエスの血に与っています。この聖餐は、主イエスの体と血とに与ることによって、私共が主イエスと一つにされたことを覚え、主イエスの命が私共の中に与えられることを覚えるのです。もちろん、パンはパンであり、ぶどう液はぶどう液です。しかし、聖霊なる神様が働いてくださり、私共に信仰が与えられて、この聖餐に与る時、このパンはキリストの体であり、ぶどう液はキリストの血潮なのです。私共は、この聖餐において、天におられる主イエス・キリストと一つにされ、私共の心は天へと向けられ、引き上げられるのです。
あの十字架に架けられて死に、三日目によみがえられたイエス様が、ただ一人の神の子、キリストであられるが故に、聖餐において私共は永遠の命に与っている恵みを味わうのです。
主イエス・キリストが水と血とによって来られたことを聖霊なる神様が証ししているというのは、実に洗礼と聖餐によって私共が味わっている、救いの恵みの現実そのものなのです。それが、10節で「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがある」と告げられていることなのです。
7.聖霊が与える信仰
実に聖書というものは、私共と同じ信仰に生きた人が、その信仰によって与えられている救いの恵みを語っているものなのです。聖書は、主イエスの救いに与った者の証言集なのです。ですから、信仰をもって読まなければ聖書は分かりません。しかし、聖書を読まなければ信仰は与えられない。これも確かなことです。「信仰が先か、聖書を読むのが先か」といった具合に、まるで「ニワトリが先か、卵が先か」みたいな話になってしまいますが、このように考えるのは信仰の現実を知らない者の理屈にすぎません。聖書を読み、聖書に聞く時、そこに聖霊なる神様が働いてくださるのです。そこで、聖書の言葉が光を放ち、私共を主イエスに出会わせ、信仰を与えるのです。聖書というものは、この聖霊なる神様のお働きによって記され、読まれてきました。私共が聖書を読む中で聖霊が働いてくださり、信仰を与えるので、聖書が分かるようになるのです。そして、聖書が分かると、いよいよ信仰が確かにされていくのです。これは、全て聖霊なる神様のお働きによります。聖霊なる神様が与えてくださる信仰は、一つです。信仰が一つである理由は、ここにあるのです。唯一人の聖書の著者であり、聖書を解き明かしてくださる聖霊なる神様が与えてくださるのですから、違うはずがないのです。もちろん、小さな所ではいろいろな違いはあります。しかし、イエス様が誰であるのか、またイエス様を救い主と信じるところにおいてどのように救われるのか、救いの恵みとは何であるのか、そこにおいて違いはありません。
このヨハネの手紙一が記された時も、その前もその後も、すべてのキリスト者はイエス様が神の独り子、救い主と信じてきましたし、その信仰によって、主イエス・キリストと一つにされ、永遠の命を与えられた者として生きたのです。その信仰をもって洗礼を受け、聖餐に与ってきたのです。私共は今朝、既に天に召された何十億人、何百億人という代々の聖徒と共に御前に立ち、同じ信仰をもって主をほめたたえているのです。そして今朝、この主の日の朝、何十億人という人々が、同じ信仰をもって主をほめたたえているのです。この壮大な神様の救いの御業の中に生かされていることを心から感謝し、主をほめたたえたいと思います。
[2013年7月21日]
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