富山鹿島町教会

礼拝説教

「世に打ち勝つ勝利」
エレミヤ書 50章33〜40節
ヨハネの手紙 一 5章1〜5節

小堀 康彦牧師

1.神から生まれた者
 私共は何者であるか。聖書は、「神から生まれた者」であると告げています。ヨハネの手紙一5章1節に「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」とある通りです。ここで「メシア」と訳されております言葉は、ギリシャ語の本文では「キリスト」です。私共は、マリアから生まれ、十字架につけられて死に、三日目に復活されたイエス様を、まことの神の独り子キリストであると信じ、告白しております。この主イエスをキリストと信じる信仰は、聖霊を注がれることによって私共に与えられました。ですから、イエス様を救い主、キリストと信じる私共は皆、神様によって新しく誕生した者なのです。
 イエス様は、ヨハネによる福音書3章におきまして、ニコデモとの対話の中で,3節「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。「新たに生まれなければ」と訳されている言葉は、直訳すれば「上から生まれなければ」です。「上から」、つまり「神様によって生まれなければ」です。人は、神様によって新しい者として生まれ変わらなければ、神の国を見ることは出来ない。神の国に入ること、救われることは出来ない。そうイエス様は言われたのです。ニコデモは、この主イエスの言葉に対して、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えました。ニコデモは、神様によって新しく生まれ変わるということが分からなかったのです。確かに、生まれ変わるということがどういうことなのか、初めて聞いた人には、何を言われているのかさっぱり分からないということなのかもしれません。主イエスはこの時、イエスをまことの神の子、キリストであると信じる信仰は神様によって与えられるものであり、この信仰を与えられるということは神の子とされることであり、それはまさに神様によって新しく生まれ変わること、神の子として新しく誕生することであると言われたのです。

2.聖霊による新生
 そして、この新しく神の子として誕生すること、これを新しく生まれると書いて「新生」と申しますが、この「新生」の恵みに与ったのが、キリスト者なのです。
 私共のこの肉体の命は、父と母から受けました。もちろん、神様が私共の父と母を用いて、私共にこの地上での生涯を与えてくださったのですけれども。しかし、この私共に与えられている信仰、イエス様を神の子、救い主キリストと信じる信仰は、聖霊なる神様によって与えられました。聖霊なる神様以外に、この信仰を与えることが出来る方はおられません。使徒パウロが、コリントの信徒への手紙一12章3節で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と告げている通りです。
 私共は、このことをよくよくしっかりと受け止めなければなりません。私共がイエス様を救い主と信じるようになった経緯は、人それぞれでありましょう。キリスト者の家に生まれ、幼い頃から教会に集い、イエス様以外に神様と呼べる方を知らずに育ったという人もいるでしょう。あるいは、人生に行き詰まり、教会の門を叩いたという人もいるでしょう。そのきっかけ、経緯は人それぞれでしょうけれど、イエス様を信じることが出来るようになった理由は、きっと誰も説明出来ないのではないでしょうか。
 こういうことがあった、ああいうことがあった。それは言うことが出来る。しかし、何故自分が主イエスを信じ、主イエスと共にこれからの日々を歩んでいこうと決断することが出来たのかは、説明出来ない。それは、私共の信仰は、聖霊なる神様によって与えられたものだからなのです。
 私共は、このことをよくよくしっかり受け止めなければなりません。私共は神様によって、神様から生まれた者なのです。自分が信仰を与えられている、キリスト者であるということは、私の主義主張、生き方考え方というような問題ではないのです。信仰が与えられているということが、キリスト者であるということが、そんな小さなことであるならば、どうして信仰によって救われる、神の国に入ることが出来るでしょうか。

3.神から生まれた者は愛に生きる
 私共の信仰が神様によって与えられたものであり、私共が神様によって新しく誕生した者であるならば、そのことを証しするものが私共に備わっていなければなりません。それが愛です。
 それはちょうど、産道を通って生まれた子が、自分がどうして生まれたのかを知らないとしても、その幼子は父と母とに愛され、育まれ、父と母とを愛するようになります。そして、同じ父と母から生まれ、育まれた兄弟を愛するようになります。それと同じように、私共は,自分をキリスト者として新しく誕生させてくれた父なる神様を愛し、共に父なる神様から生まれた兄弟姉妹であるキリスト者を愛するようになります。この愛が、私共が神様から生まれた者であることを証しするのです。神は愛ですから、この愛である神様によって生まれた者にも,愛が備わっているのです。私共は、背が高いとか低いとか、目が大きいとか小さいとか、太っているとか痩せているとか、自分の好みに依らず,この父と母とから生まれたなら、こういうことになりますねという特徴を備えているものです。それと同じように、神様から生まれた者には、それを証しするものが備わっている。それが愛なのです。神は愛だからです。
 もちろん、この愛は、愛である神様から生まれたからだけではなくて、愛である神様に育まれていく中で、いよいよ育まれていくというものでありましょう。神様は、産み落とすだけで後は知らんぷりというようなお方でないのは、明らかなことです。私共は、神様の養いである御言葉によって育まれ、共に御言葉に与る兄弟姉妹との交わりの中で成長していきます。その中で、いよいよ神様を愛し、兄弟姉妹を愛する者となっていくのでしょう。それが、5章1節で言われていることなのです。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」

4.神の掟
 続けて聖書はこう告げます。2〜3節「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは,神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」ここで「掟」という言葉が出て来ます。これが何を指すかということですが、これは主イエスが最も重要な掟として二つにまとめてくださったもの、つまり「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書12章29〜31節)です。神様を愛すること、そして隣人を愛すること。これが守らなければならない掟なのです。
 聖書は、「神の掟は難しいものではありません。」と告げておりますが、どうでしょうか。神様を愛すること、隣人を愛することは、難しくないでしょうか。いやいや、本当に難しい、と言われる方もあるでしょう。正直に言えば、私も難しいと思います。どこかで、「面倒くさいな。」と思ってしまったり、「そこまでしなくてもいいんじゃない。」と思ってしまうのです。でも、聖書は「難しいものではない」と告げます。

5.聖霊によって難しくない
 私共はここでもう一度、自分が何者であるのかということを思い起こさなければならないのでしょう。私共は、神様によって生まれました。この神様によって生まれた者は、信仰によって生きるのです。ところが、私共はこの信仰に生きるという所で、はなはだ不徹底な者なのです。だから「難しく」なってしまうのでしょう。とするならば、私共が祈り願うことは、何よりも,いよいよ信仰において徹底した歩みが出来るようにということになるのではないでしょうか。
 しかし、この信仰の徹底というものは、私が頑張って信仰深くなるという話ではありません。そうなりますと、いつまでも「難しい」という所から抜け出せないでしょう。そうではなくて、この信仰の徹底とは、私共に信仰を与えてくださった聖霊なる神様の御支配に、徹底して委ねていくということなのです。私共に信仰を与えてくださった聖霊なる神様が、私共を信仰者として成長させていってくださる。そのことを信じ、徹底して委ねていくのです。聖霊なる神様が、私共に道を拓き、力を与え、いよいよ愛する者へと変えていってくださる。この聖霊なる神様の導きを信じるのです。その時私共は、私共には難しいけれど、聖霊なる神様によって難しくなくなるという歩みを知ることになるのです。
 信仰というものは成長していくものです。自分ではよく分からなくても,成長していくのです。聖霊なる神様が、そうしてくださるからです。私共は、自分で頭を引っ張っても背が伸びるわけではありません。私共は、自分で自分の信仰を成長させることは出来ないのです。信仰は、聖霊なる神様が与えてくださったのですから、聖霊なる神様だけが成長させてくださるのです。

6.聖霊の親しき交わり
 とするならば、私共は、この聖霊なる神様との交わりというものを、何より大切にしなければならないのでしょう。信仰とは、神様が私共の内に、私共が神様の内にあるという,驚くべき恵みでありますから、このことをしっかり受け止めるということです。しかし私は、このことを受け止め損ねているところがあるのではないかと思うのです。礼拝の最後に為される祝福において、「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき御交わりが、あなたがたの上にとこしえにあるように。」と告げられますが、「聖霊の親しき御交わり」ということがピンとこない、ということはないでしょうか。主イエス・キリストの恵みは分かる。神の愛も分かる。しかし、聖霊の親しき御交わりというのはピンとこない。それは、聖霊が私の中に、そして私共の交わりのただ中におられることがよく分からないからなのではないでしょうか。
 この聖霊の交わりの中で、私共は御言葉に親しみ、祈り、礼拝に集い、兄弟姉妹の交わりを為し、小さなことでも良いから主の御業にお仕えしていくのでしょう。そして、その営みの中で、聖霊なる神様は私共を必ず愛において成長させてくださるのです。そのことを信じて良いのです。

7.世に打ち勝つ
 このように、私共の信仰の歩みというものは、始めから終わりまで聖霊なる神様と共にあるのですから、私共は世に打ち勝つのです。私が、私の力で、知恵で勝つというのではないのです。聖霊なる神様が打ち勝つのです。聖霊なる神様は、天地を造られた唯一人の神様の霊なのですから、こんなことは当たり前です。私共が、私共の力によって世に打ち勝つのではないのです。私共の内に宿り給う聖霊なる神様が、その力をもって世に打ち勝ってくださるのです。
 では、この世に打ち勝つとは、どういうことなのでしょうか。これは様々なレベルにおいて言えることですが、第一には、主イエス・キリストが死に打ち勝たれて復活されたように、死に打ち勝つ、復活するということです。第二に、主イエス・キリストが荒野の試みにおいてサタンの誘惑を退けられたように、この世の様々な誘惑に打ち勝つということです。神様の御心に従うよりも自分の願いを先にしてしまおうとする誘惑に、打ち勝つということです。今までの話の流れで言えば、神様を愛し隣人を愛することを軽んじる誘惑に、打ち勝つということになりましょう。第三に、イエスはキリストであるということを否定する力に勝利するということです。これは具体的に言えば、伝道の戦いで勝利するということです。4〜5節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」と告げられています。これはまさに終末のことであり、約束であり、宣言であります。私共は、聖霊なる神様との交わりの中に生きることにおいて、必ず世の悪しき力、悪しき誘惑に勝利するのです。そういうことになっているのです。
 そうは言っても、しばしば誘惑に負けてしまう私共ではないか。その通りです。しかし、それは究極的、最終的敗北ではありません。私共は、そのたびに悔い改め、新しくされるのです。私共が世に打ち勝つ勝利は、既に神様の永遠の御計画の中で定められていることです。主イエスの十字架が一見敗北に見えたとしても、三日目の復活へと続いたように、私共の敗北は,一時のものに過ぎないのです。私共は、天の御国において、勝利の冠をいただくことになっているのです。この日を目指して、私共は歩んでいるのです。
 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」とあります。信仰とは、神様の内に私がおり、私の内に神様がおられるという,驚くべき事態において引き起こされている出来事なのです。その信仰が私共に与えられているのです。私共の内に宿り、私共を父なる神様の中に生きる者としてくださる聖霊なる神様が、私共に勝利をもたらしてくださるに違いないのです。この聖霊なる神様の力を、愛を、私共は信じるのです。
 世は主イエスを知りません。しかし、私共は知っています。世は、天地を造られた唯一人の神様を知りません。しかし、私共は知っています。世は、やがて終わりが来ることを知りません。しかし、私共は知っています。世は、死を超えた永遠の命を知りません。しかし、私共は知っています。世は、愛が最も大切な命に至る道であることを知りません。しかし、私共は知っています。これは、私共が聖霊なる神様の導きの中に生かされていることの、確かなしるしなのです。それ故、私共は既に世に勝っているのです。そうなのですから、私共は安んじて、御国に向かって,為すべき事を為していけば良いのです。主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)この主イエスの勝利に与る者、すでに与っている者、それがキリスト者なのです。

[2013年7月14日]

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