1.神は永遠の愛を注ぐ
主なる神様は、預言者エレミヤを通してこう告げられました。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(エレミヤ書31章3節)この言葉をエレミヤが告げた時、北イスラエル王国はすでに滅び、南ユダ王国もバビロン捕囚という悲惨な現実の中にありました。しかしエレミヤは、神様の変わることなき愛を告げたのです。
そして、この変わることのない神様の慈しみ、とこしえの愛が、主イエス・キリストというお方として私共に与えられたのです。愛そのものであられる神様が、御子である主イエス・キリストを私共に与えてくださり、御子の尊い血潮をもって私共を一切の罪から贖ってくださいました。私共を神様のものとしてくださり、私共は、神様に向かって「父よ」と呼びまつり、神様との親しい交わりの中に生きる者とされたのです。この救いの恵みを私共から取り上げることは、誰にも出来ません。私共は、この神様との親しい交わりの中に生き、「互いに愛し合いなさい」との掟に喜んで従って歩むのです。その歩みは、神の国に向かっての歩みです。私共はまことに弱く、愚かで、目の前に起きる出来事に一喜一憂してしまう者でありますけれど、この主の日の礼拝に集うたびに,自分は何者であり、どこに向かって歩んでいる者であるかを思い起こすのです。そして、ここから、私共は自らの歩みを整え、神の国に向かっての新しい歩みへと歩み出していくのです。
2.聖霊を注がれる
今日与えられております御言葉は、13節「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。」と告げます。神様が私共に聖霊を与えてくださったと言うのです。私共は、この恵みの事実をしっかり受け止めなければなりません。使徒パウロは、「聖霊によらなければ,だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)と申しました。まさに、私共が「イエスは主なり」と告白した者である以上、私共には既に聖霊を注がれているのです。このことを、はっきりと、きちんと受け止めなければなりません。
聖霊を注がれているということは、私共が何か不思議な業をすることが出来るとか、異言を語れるとか、そういうこともあるのかもしれませんけれども、もっと根本的なことであり、それは譬えようもないほどにとてつもなく大きなことなのです。それは、父と子と聖霊の三位一体の神様の交わりの中に、私共も招き入れられたということです。聖霊なる神様が私共に与えられ、私共の中に宿られたのなら、それは私共が父なる神様と子なるキリストと聖霊なる神様との間にある永遠の愛の交わりの中に招き入れられたということなのです。父なる神様と聖霊なる神様とは永遠の交わりの中にあるのですから、私共の中に聖霊なる神様が宿られたのならば、私共もまたその永遠の交わりの中に招き入れられたことになるのです。
そしてこのことは、聖霊はキリストの霊でもありますから、この聖霊を注がれることによって、私共は天地を造られたただ一人の神様に向かって、主イエス・キリストと同じように「父よ」と呼ぶことが出来るようになったし、そう呼ぶことを許される者とされたのです。このことが、「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。」に続けて言われていることなのです。すなわち、「このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」と言われていることであり、15節で「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」と言われていることなのです。
この聖霊を注がれたという事実こそ、私共に信仰が与えられたことの原因であり、理由なのです。私共は、自分の信仰ということを思う時に、このことをしっかり受け止めなければなりません。
3.あふれ出す愛。神様から、そして私共から
この聖霊が注がれたという出来事は、このようなイメージで語ることも出来るでしょう。父と子と聖霊なる三位一体の神様は、永遠の愛の交わりにありました。この愛があふれ出し、私共に向かって注がれ、御子がイエス様としてこの世に下り、私共のために、私共に代わって、十字架にお架かりになってくださった。そして、この神様の愛の業を信じることが出来るようにと、神様は私共に聖霊を注ぎ、父と子と聖霊の愛の交わりの中に私共を招き入れてくださったということです。それは、父と子と聖霊との間の愛が、泉となって外に向かってあふれ出し、私共の上に注がれたということです。そして、その愛を注がれた私共もまた、その愛の交わりの中に生きる者とされたということなのです。
この神様の愛は、私共に注がれて終わるのではありません。私共に注がれた愛は、私共の中からもあふれ出し、周りの者に向かって注がれていきます。神様から受けた愛が、私共の中にだけとどまるなどということはあり得ません。自分の中だけにとどまるとすれば、それは愛ではないからです。愛はあふれ、外に向かって注ぎ出されるのです。このことは、主イエス御自身が、ヨハネによる福音書4章14節でこう言われたことからも分かります。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この主イエスが与える水とは聖霊であり、命であり、信仰であり、愛でありましょう。愛は私共の内から、外に向かってあふれ出していくのです。今私は、この主イエスからいただく水は、聖霊であり、命であり、信仰であり、愛でありましょう、と申しました。しかしその他にも、いろいろなものに言い換えることは出来ると思います。希望であったり、喜びであったり、平安であったり、祝福であったり。それはどれも正しいのです。しかし、その中心に聖霊があり、命があり、愛があり、信仰があのるです。
4.信仰と愛は分けられない
ここで大切なことは、「イエスは神の子であると公に言い表す」という信仰とこの聖霊なる神様が注がれることによって与えられる愛、つまり神様との愛の交わり、隣り人との愛の交わり、それらは一つであるということです。私共はこのことをよく弁えておかなければなりません。私共は、信仰といいますと、神様に対しての認識とか、自分の決断というようなものと同じように考えがちでありますが、そんな小さなものではないのです。聖霊なる神様が与えられるという、とんでもない神様の御業によって引き起こされる出来事なのです。人はそれを、新しく生まれると書いて、「新生」とも言います。全く新しい人間がそこに生まれるのです。その全く新しい人間を、キリスト者と言うのです。この聖霊なる神様によって新しく生まれ出た者、それが「イエスは神の子」と告白する者であり、神様に向かって「父よ」と祈ることを許された神の子であり、「神様を愛し、人を愛する」ことを何より大切なこととして生きる者であり、神の国に向かって歩んでいることを自覚的に受け止めている者なのです。それが私共キリスト者なのです。
そこにおいては、何を着、何を食べ、目に見える何を手に入れるかということは、決定的に重要なことではなくなります。この世の肩書きなど、小さなことになっていきます。もちろん、目に見える様々な出来事の中に生きている私共でありますから、良いことがあればうれしいのです。しかし、それを手に入れるためには何でもするとか、それさえあれば何もいらないとか、そんな風にはならないのです。良きことがあれば神様の恵みとして感謝し、つらいことがあれば神様の試練の時として受け止めて耐える。そして、当たり前の生活の中に神様の恵みを覚え、神様を愛し、人を愛し、神様に仕え、人に仕えて歩んでいくのです。
5.愛に恐れはない
その行き着く先はどこでしょうか。神の国です。私共は誰でも、この地上の生涯を閉じなければならない時が来ます。例外はありません。そして、私共は神様の御前に立つのです。私共のすべてを御存知である、全能の父なる神様の御前に立つのです。その日のことを思います時、私共の中にどのような思いがわいてくるでしょうか。恐れでしょうか。喜びでしょうか。あるいは、戸惑いでしょうか。
18節に「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら,恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」とあります。「愛には恐れがない。」これは大変有名な言葉ですけれど、しばしば聖書の文脈とは切り離して受け止められることがあります。つまり、ロミオとジュリエットではありませんが、男女の愛において「どんな障害があっても、この愛があれば大丈夫。愛には恐れがない。どこまでも突き進んでいこう。」そんな風に理解されることが少なくありません。男女の愛ではなくても、自分の思いを遂げるための行為を正当化し、突き進んでいく時の励ましの言葉として受け取られることがあります。しかし、聖書はここで、そんな意味で「愛には恐れがない。」と言っているのではないのです。聖書は「恐れてはならない」とか「恐れるな」と言っているのではなくて、「愛には恐れはない」と言っているのです。そして、この恐れとは、裁きの日における恐れなのです。つまり、裁きの日に神様の御前に立つ時のことを思っても、神様との愛の交わりにある者は少しも恐れることはないのだと言っているのです。
どうしてでしょうか。それは私共が、何一つ悪いことをしていないと言い切れるというようなことではありません。そんなことはあり得ません。そうではなくて、神様との愛の交わりの中にあることを知る者は、主イエス・キリストの十字架による救いを確信しているので、恐れはないということなのです。私共は最早、自分が救われるかどうか分からないなどという所には立っていないのです。私は救われるのです。裁きの日に、神様が「おまえには永遠の命を与える。」と宣言されるのです。何故なら、その裁きを為される方は、私共の父であられるからです。私共を救うために、愛する独り子を私共に代わって十字架の上で裁かれた方だからです。この方がどうして私共を救ってくださらないことがあるでしょうか。それは、主イエスの十字架を無駄にしてしまうことになるではありませんか。そんなことはあり得ないのです。父なる神様との愛の交わりの中に生きる者は、この裁きの日の恐れから解放されている者なのです。
「自分は裁きの日に本当に救われるのだろうか。」そういう真面目な問いを受けることがあります。これは真面目な問いです。真面目なキリスト者が、このような問いを持つことがあるのです。それは、自分は神様の救いに与るにふさわしい者ではない、そういう反省があるからでしょう。自分の罪、自分の不信仰というものをちゃんと見ているが故の問いです。しかし、私共が救われるかどうかということは、私共に救われるほどの価値、善良さがあるかどうかで決まることではないのです。そのような理解が出てくるのは、「良き人は救われるが、悪しき人は滅びる。だから良き人にならなければならない。」という、律法主義の尻尾のようなものが私共の中にあるからなのでしょう。しかし、私共が救われるかどうか、それは神様が私共を選んで、聖霊を注ぎ、信仰を与え、神様との親しき交わりに生きる者とされたかどうかで決まっているのです。ですから、私共は自分の姿を顧みて、恐れを抱くことはないのです。ただただ、主イエスの御業に依り頼めば良いのです。そこにしか、私共の救いの確信の根拠はないのです。
6.「イエスのようである」とは
さて、今日の御言葉の中で、驚くべき言葉、さらっと読んでは何を言っているのか分からない、しかし重大なことが告げられていることだけは分かる、そういう言葉があります。16節bから読んでみましょう。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」とあります。「裁きの日に確信を持つことができます。」というのは,今、述べました。裁きの日に全き救いを与えられるという確信であります。
問題はその次です。「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」とあります。一体、私共のどこが主イエスのようであると言うのでしょうか。自分のどこを見ても,イエス様のようだと言える所はないように思えます。まことに私共の日々の歩みは、不信仰と欠けに満ちています。にもかかわらず、聖書は「この世でわたしたちも、イエスのようである」と言うのです。いったいどこがイエス様のようなのでしょうか。
それは、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者とされているということです。神の子とされているということです。これは、私共が神の子にふさわしい者だから神の子とされたというのではありません。ただ主イエスを信じる。この聖霊なる神様に与えられた信仰によってです。実に、聖霊なる神様が与えてくださった信仰は、私共に神の子たる身分を与えてくれました。この一点において、私共は主イエスのような者とされているのです。このことこそ、私共が決定的に主イエスのように変えられた所なのです。何という恵みでありましょう。まことにありがたいことです。これが福音です。
私共はこの福音に生きる時、目に見える兄弟を愛さないわけにいきません。目に見える兄弟を愛さないで、目に見えない神様を愛することは出来ないからです。
私共は今から聖餐に与ります。主イエス・キリストの体と血とに与るのです。このことによって、私共は自分が主イエスと一つにされ、主イエスと同じ神の子とされた者として神様の御前に生かされていることを心に刻むのです。そしてそれは、同じキリストの命に与る者としての愛の交わりを形作っていこうとする志をも、私共に与えます。それが、主イエス・キリストの十字架の愛に応えていく私共の道であり、主イエスが私共に与えられた掟であり、神様が私共に何より望んでいることだからです。
いよいよ聖霊を注いでいただき、信仰をもって互いに愛し合い、御国への歩みをここからまた新しく為してまいりましょう。
[2013年7月7日]
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