富山鹿島町教会

花の日合同礼拝説教

「イエス様はすごい」
イザヤ書 61章10〜11節
マルコによる福音書 1章21〜28節

小堀 康彦牧師

1.花の日礼拝
 今日は花の日礼拝をみんなで守っています。いつもの年ですと、花の日は6月の第二の主の日なのですが、今年は、第二の主の日は私が金沢教会に行く日になっていますので、少し遅らせました。この花の日というのは、1856年、今から150年ほど前に、アメリカのマサチューセッツ州の教会で、幼子たちの健やかな成長を願って、たくさんの花を飾って幼子たちと一緒に礼拝を守ったのが始まりです。礼拝の後、その花を持って、病気の人や日頃お世話になっている人の所へ行く習慣が出来ました。今日は、教会学校の子供たちは午後にお隣のT病院に行きます。婦人会や壮年会でも、年老いた方や病気の方を訪ねて行くことになっています。

2.神の家族
 いつもは教会学校の礼拝と大人の礼拝は別々に守られていますけれど、今日は一緒に礼拝を守っています。教会学校のお友だちは、静かにしなきゃいけないぞということで少し緊張しているかもしれませんが、ちょっと後ろを見てみましょう。たくさんの人がいますね。今日は、ここに1歳から92歳までの人が集っています。ここに集っているみんなが天と地のすべてを造られた父なる神様の子たち、神の家族です。イエス様を神の独り子と信じ、イエス様に愛され、イエス様を愛している、神の家族なのです。家族ですから、赤ちゃんが生まれればみんなで喜びます。誰かが病気になれば、みんな心配します。そして、お祈りします。この神の家族には、他の家族とは違う言葉があります。世界中の神の家族が使っている言葉です。この教会という神の家族の中ではよく使われるのだけれど、他ではまず使うことがない言葉。小さい時から教会に来ている教会学校のお友だちは、不思議でも何でもなく使っていると思いますが、それは「アーメン」です。この「アーメン」という言葉は、世界中の神の家族が使います。二千年の間ずっと使われ続けている、神の家族の言葉です。「アーメン」というのは「その通り」という意味ですけれど、お祈りの後でみんなで唱えますね。この「アーメン」を知っている、「アーメン」を使っている。これは神の家族の言葉を知っているということであり、自分が神の家族の一員であるということの、一つのしるしなのです。

3.長男であるイエスさま
 さて、神の家族のお父さんは神様ですね。そして、一番上のお兄さんがイエス様なのです。一番上のお兄さんであるイエス様は、世界中にある神の家族、何十億人といる家族の一番上ですし、今まで生きたすべてのキリスト者の一番上のお兄さんですから、軽く百億人は超えている神の家族の、一番上のお兄さんなのです。
 皆さんの兄弟の一番上のお兄さんはどうですか。一番大きくて、一番力があるでしょう。一番何でも知っていて、一番何でも出来る、そんな風に思いませんか。私も、幼稚園や小学校の低学年の頃は、そう思っていました。すごいなぁと思っていました。これがだんだん、そんなにすごいなぁということでもないかな、なんて思ってきたりして、大人になると、一応お兄ちゃんだからと立てますけれど、幼稚園の頃の、何でも一番のお兄ちゃんではなくなります。それは、お兄ちゃんもただの人間ですから当たり前のことです。
 しかし、イエス様は違うのです。イエス様は、私たちが大人になってもお年寄りになっても、ずっとずっと一番ですし、ずっとずっとすごいなぁというお方なのです。何故かって。イエス様はただの人間ではないからです。神様の独り子である神様だからです。

4.権威ある者として
 21節「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」とあります。会堂というのは、私たちのこの礼拝堂のような所と考えて良いでしょう。当時は、安息日である土曜日に礼拝をしていたのです。イエス様もちゃんと礼拝していたのですね。私たちの一番上のお兄さんですから、礼拝を休むなんてことはなかったのです。そこでイエス様は説教をされました。その説教は、「権威ある者として教える」というものでした。イエス様は神様の独り子ですから、誰よりも神様の御心をよく知っておられました。イエス様の心と父なる神様の心は一つですから、神様の御心はこうであると、はっきり語ることがお出来になったのです。
 私たちは、誰が語ることよりも、イエス様がお語りになったことを信じ、従います。それが神の家族というものです。私たちの誰よりも、イエス様が、父なる神様の御心を自分の心としておられる方だからです。このイエス様の言葉を信じ、従うという所で、私たちは神の家族となり、神の家族であり続けます。もしイエス様の言われたことなんて関係ないということになれば、それは神の家族ではなくなってしまうのです。

5.汚れた霊を追い出すイエス様
 イエス様がお話しになっている時、汚れた霊、つまり悪霊に取りつかれていた人がそこにいました。その人はこう叫びました。24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」イエス様が悪霊を滅ぼしに来たことを、悪霊は知っていたのです。この汚れた霊、悪霊というのは、私たちを神様から引き離そうとする悪い霊です。この悪い霊は、私たちの優しい気持ちや神様に喜ばれる良いことをしようとする思いを壊してしまいます。そして、自分が良ければそれでいい、人がどうなってもかまわないというような心にしてしまいます。もっとひどい場合には、あいつがあんな目に遭っていい気味だ、ざまあみろ。そんな心にしてしまいます。更にもっとひどい場合には、あいつをもっとひどい目に遭わせてやろう。そんな心にもなってしまいます。学校などでみんなで一人の人をいじめるなんてことが起きているかもしれませんが、そこには悪霊が働いているのではないかと思います。
 この悪霊に取りつかれていた人も、きっとそんな具合で、周りの人を不幸にしていたのでしょうし、自分も悲しい思いをしていたのではないかと思います。でも、どうにも出来なかったのではないでしょうか。  この人に対して、イエス様はどうされたでしょうか。イエス様は、この人に取りついた悪霊に向かって、「黙れ。この人から出て行け。」とお叱りになったのです。すると、汚れた霊はこの人から出て行きました。この人は、イエス様によって悪霊を追い出してもらって、優しい心、神様に喜ばれることをしようとする心を取り戻しました。イエス様はそのような力を持っておられる方なのです。

6.イエス様に祈る
 皆さんは、あの人を許せない、あの人のことを思い出すだけで腹が立つ、あの人とは絶対口をきかない、そんな心になってしまう時はありませんか。そんな時はどうしたら良いのでしょう。イエス様にお願いして、その悪い心を追い出してもらうしかないのです。イエス様にお願いする。それは、イエス様にお祈りするということですね。
 でも、お祈りすることも出来ないくらいに心が神様に向かわなくなってしまったら、どうするのでしょう。これは、本当に難しい問題です。お祈りすることさえ出来ない。アーメンの言葉を忘れそうになってしまう。この時、私たちが神の家族の一員であるであるということが大切なのです。自分が祈れない時、私たちは誰かに祈ってもらえば良いのです。牧師でも良いです。お友だちでも良いです。神の家族である誰かに、「私のために祈って。」とお願いするのです。お願いされた人は、神の家族ですから、「イエス様、どうかこの人を助けてください。」そう祈ってくれます。そして、一緒にアーメンと唱えれば良いのです。イエス様は、必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。私たちを、悪い霊、悪い心から解放してくださいます。イエス様にはその力があるし、イエス様は私たちの一番上のお兄さんですから、弟・妹である私たちを必ず守ってくださるのです。

7.イエス様の心を私の心に
 イエス様は、悪霊と、悪霊に取りつかれた人とを、同じに見たりなさいません。イエス様は、悪霊を嫌い、これを懲らしめ、追い出します。しかし、悪霊に取りつかれた人のことは、可哀想に思い、これを守り、助けてくださいます。何としても、神様の子、神様の僕として生きることが出来るようにしてくださるのです。私たちを造ってくださった父なる神様が、私たち一人一人を愛してくださっているからです。この神様の愛と一つになっておられるのが、イエス様だからです。
 神の家族である私たちは、このイエス様の心を自分の心とするように求められています。もちろん、イエス様は神の独り子であり、神様ですから、その心を私の心にするのは無理かもしれません。でも、イエス様は御自分の愛を私たちに注いでくださり、少しでも愛の業が出来るようにと愛を与え、力を与えて、導こうとしてくださっているのです。ですから、私たちは「そんなの出来っこないよ。」ではなくて、「イエス様、私にも愛を与えてください。私の周りの一人一人を愛していくことが出来る愛を、力を、与えてください。」そう祈るのです。イエス様は必ずその祈りに応えてくださいます。何故なら、そのことこそ、イエス様が神の家族の一番上のお兄さんとして、私たちに何よりしてあげたいと思っていることだからです。
 イエス様の御心を私の心とすることが出来ますよう、今、一緒に祈りを合わせましょう。

[2013年6月23日]

メッセージ へもどる。