富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしたちは愛を知りました」
申命記 15章7〜11節
ヨハネの手紙一 3章4〜18節

小堀 康彦牧師

1.その実で分かる
 主イエスは言われました。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイによる福音書7章16〜17節)
 これは、人が語ること、行うことは、その人の心にあることが外に現れるということを告げたものです。こう言っても良いでしょう。主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストによる罪の赦しに与った者、主イエスによって新しい命に生きる者となった者は、それにふさわしい実を結ぶということです。主イエスを信じるということは、決して心の中だけのことで終わるものではないのです。どのように生きるか、生活するのかということと切り離すことは出来ないのです。そして、その決定的に良い実が、「互いに愛し合う」ということなのです。

2.神様との交わり、隣人との交わり
 私共は、主イエス・キリストというお方と出会って、愛を知りました。だから、この愛の中にとどまり、この愛に倣い、「互いに愛し合いなさい。」との戒に喜んで従っていきたい、そう願っています。このように願っているということが、既に私共が主イエスのものとされている、神の子とされていることのしるしなのです。
 私共の信仰は、自分と神様だけの関係を問題にし、そこで完結するというものではありません。修行を積んで、悟りを開いて、私は救われたと言って、超然と山の中で独りで暮らす。そのようなあり方をとりません。もちろん、私と神様という一対一の交わりは大変重要です。聖書を読み、黙想し、祈るという時を大切にしなければなりません。私共の日常の生活の中で、そのような時がどれだけ確保されているか、よく見直されなければならないと思います。これは、どれほど強調されても強調され過ぎることはないほどに、重大なことです。私自身の反省を込めて、そう思います。一日30分で良いですから、神様との交わりのためだけの時間を確保しましょう。これが確保出来ませんと、私共の信仰の歩みは大変弱いものになってしまうからです。
 しかし、そうは申しましても、私共の信仰は、この神様との交わりだけにとどまることは決してないのです。神様との交わりがいよいよ豊かに確かになればなるほど、私共は、互いに愛し合うという交わりのために生きることになるのです。

3.主イエスの愛を知る
 16節を見てみましょう。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」とあります。主イエスの十字架の愛、それに触れて私共は愛を知りました。十字架の愛。それは、私共が今まで聞いたこともなく、考えたこともないようなものでした。主イエスの十字架の愛に触れるまで、私共は、自分に良くしてくれる人に良くし、自分が大切だと思う人を大切にし、自分と気の合う人と仲良くする、それが愛だと思っておりました。しかし、主イエス・キリストは十字架の上で、自分を十字架に架けたその人たちのために祈ったのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」自分を十字架に架けた人々を呪うでもなく、恨むでもなく、彼らのために赦しを祈る。あり得ないことです。一体そこ何が起きているのか分からないほどの、全く驚くべきことがそこでは起きていたのです。神の独り子が、この天と地のすべてを造られた神の子が、私のために、私に代わって、私の一切の罪を担って神の裁きを受けられた。神様に造られ、神様の御手の中で生かされておりながら、神様に感謝することさえ知らなかった私のために、神の独り子が身代わりとなって十字架につけられた。このことを知った時、私は愛を知りました。そして、その方が、「互いに愛し合いなさい。」と言われる。私共は、この御言葉に従わないではおられません。この御言葉に従う者の群れとして、キリストの教会は建てられたのです。

4.愛を知らされた者の群れとしての教会
 教会は、この主イエス・キリストによって愛することを知らされた者の群れとして建ち続けています。ですから、「互いに愛し合いなさい。」との主イエスの御言葉を、わたしに倣う者になりなさい、わたしに従いなさい、わたしの中にとどまりなさい、と全く同じ意味と響きをもって私共は受け取るのです。もし私共が、この「互いに愛し合いなさい。」という主イエスの言葉を、どうでも良い言葉として忘れてしまうのならば、そこに教会は建っていかないでしょう。
 私共は、毎週ここに集い、礼拝をしています。ここにキリストの教会は建っています。皆さんは、どうして教会があるのかを考えたことがあるでしょうか。礼拝するのに一人よりみんなが集まった方が便利だから、というようなことではないのです。この教会という存在は、福音の本質から生まれたものなのです。これは先週の婦人会の親睦会でもお話ししたことですが、福音の本質とは、父・子・聖霊なる三位一体の神様の、その永遠の愛の交わりに私共も与らせていただくということなのです。罪の故に神様との交わりを失ってしまった人間を救うため、神様は御子イエス・キリストを与え、御子の十字架によって罪赦されて再び神様との親しい交わりに生きることが出来るようにされた。そして、神様に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことを赦され、永遠の命を受ける者となる。これが福音です。この福音によって新しい命に生きる者とされた者は、互いに愛し合う交わりを形作ることによって、まことの愛を世に証しし、人々をこの愛の交わりへと招くのです。三位一体の神様の愛が主イエスを通して私共に注がれ、互いに愛し合う教会という交わりを通して世界へと注ぎ出されていくのです。福音の本質は、神様の愛です。そして、愛は必ず交わりを形作ります。それが教会なのです。
 この教会の交わりの中心には、神様との交わりとしての礼拝があり、祈りがあり、聖餐があります。そして、その神様との交わりを共にする者同士の交わりもまた、「互いに愛し合いなさい。」との御言葉に従って形作られるのです。
 教会抜きのキリスト教はあり得るでしょうか。無いのです。もちろん、教会という名前を使わない、そういう制度を持たないというキリスト教はあるでしょう。でも、そこには必ず神様との交わりがあり、神様との交わりに共に与る者同士の交わりが存在します。そうであればそれは、どんな名称を用いようと、教会なのです。日本には、内村鑑三が始めた無教会主義というキリスト教がありますが、私は、これは無教会という名前の教会だと思っております。

5.口先の言葉だけではない愛
 さて、16節の後半で、「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」とあります。私共は確かに、主イエス・キリストによって愛を知りました。それ故に、「互いに愛し合いなさい。」という主イエスの御言葉を、私共は深く、重く受け止めます。しかし、「兄弟のために命を捨てるべきです。」とまで言われると、いささか腰が引けると申しますか、素直に「ハイ」と言えない所があるかと思います。しかしこれは、文字通り「死ぬ」ということではなくて、私共の交わりの性格、あり様を言っているのでしょう。それは、次の17〜18節を見れば分かります。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」ヨハネが見ているのは、当時教会の中で生活にも事欠く貧しい人がいるのに、その人のために何もしようとしない金持ちに対して、あなたはそれでも主イエス・キリストによって愛を知った者なのかと言っているのです。信仰や愛が口先だけになってしまってはならないと言っているのです。
 週報にありますように、今朝の特別献金は東日本大震災のための救援募金です。私共の教会では、3月、6月、9月、12月の第一の主の日の礼拝で、東日本大震災のための献金を行うことを決めています。震災のあった年は100万円の募金が集まりました。しかし、これは息の長い援助が必要だということで、この三か月ごとの献金を昨年、今年と行っています。昨年は約30万円が献げられました。これは、あと三年は続けたいと思っております。東日本大震災の前には能登半島地震がありました。その時にも、私共の教会は350万円を献げました。次から次へとあり、自分の教会のことはどうするのだとの声も聞こえそうですが、私共は主イエスによって愛を知った者でありますから、困窮した状態にある兄弟姉妹を放っておくことなど出来るはずがないのです。神様からいただいている時間を、富を、兄弟のために用いる。それが、兄弟のために命を捨てるということなのです。愛は具体的なのです。

6.神の子と悪魔の子
 8〜10節には、悪魔という言葉が出てきます。2章18〜22節には、反キリストという言葉も用いられています。悪魔とか反キリストという言葉は大変きつい言葉で、このような言葉は、私共は普通は用いない方が良いと思います。しかし、そのような言葉を用いなければならないほどに、ヨハネが身を置いていた教会の状況は厳しかったということなのでしょう。それがどういう状況であったかと申しますと、主イエス・キリストの十字架の愛によって新しくされたとはとても思えないような生活をする人がおり、その人たちが兄弟姉妹の愛を破壊し、正しい教えから逸脱させる、そういうことが起きていたのです。さらに具体的に言えば、自分たちは既に救われているのだから、どんな悪にも染まりはしないと言って、世の人さえ目を覆うようなふしだらな生活を、これが自由だと言って行っていたのです。そして、兄弟姉妹が苦しい状況でも知らん顔。とても、キリストの愛がそこにあると証し出来る状態ではなかったのです。
 生まれたばかりの教会において、そういうことが起きてしまったのです。主イエス・キリストの十字架を見上げること、この方によって新しくされたこと、このことを忘れるならば、教会はどこまでも腐っていってしまうものなのです。もちろん、キリストの教会は天国ではないのですから、いつの時代でも問題を抱えています。この地上には理想の教会などはありません。しかし、それでも教会が教会であり続けるのは、そこで御言葉が正しく語られ、正しく聞き取られ、この御言葉に従って歩んでいこうとする信仰が与えられ続けるからです。これは、聖霊なる神様のお働きに他なりません。この聖霊なる神様のお働きを破壊しようとする力、それを悪魔と言っているのです。
 4〜10節で言われているのは、要するにこういうことです。御子イエス・キリストは罪を除くために現れました。ですから、罪を犯す人はイエス・キリストを知らないのです。また、悪魔は初めから罪を犯しています。罪を犯す人は悪魔に属しています。神から生まれた人、御子の内にいる人は罪を犯しません。このことによって、神の子と悪魔の子の区別は明らかなのです。そして、兄弟を愛さないのは、罪を犯すのと同じで、神の子ではないということです。
 ここで、神の子と悪魔の子をきれいに分けるように記されていますが、私共の中には、そんなにきれいに分けられるのかという問いが生まれるかもしれません。ここで、6節「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。」、9節「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。」と言われていることに、引っかかりを覚えるのではないかと思います。私は「罪を犯していない」とは言えない。だったら、自分は神の子ではないのか。悪魔の子なのか。そんな疑問さえ出てくるかもしれません。ここで「罪を犯す」と訳されている言葉は、「罪を犯し続けること」を意味しています。つまり、罪を罪と知っていながら、罪を犯し続ける人のことを言っているのです。そこには反省もなければ、良心の呵責もないのです。それは違う。そうヨハネは言っているのです。私共も罪を犯してしまうことはあるでしょう。しかし、それが罪であると知ったのなら、失敗したと思うでしょう。そして、もうしないようにしようと思うでしょう。それは、悪魔の子ではないからなのです。
 自分の言葉や行いに愛がなかったということを知ったなら、悲しくなるでしょう。それは、私共が神の子であるしるしなのです。罪を犯し続けない。犯し続けることが出来ない。それが、主イエスによって愛を知った神の子なのです。何度も言いますが、ここでは、私共が愚かである故に、弱さの故に犯す罪を言っているのではないのです。そうではなくて、罪を知っているのに、平気で、自分は特別な者だから問題ないとうそぶいて、罪を犯し続ける人のことを言っているのです。そんな人がいたら困るでしょう。ヨハネは、そのような人はキリストの内にいるのではなく、悪魔に属しているのだと言っているのです。主イエスが、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」と言われたのと同じです。

7.御言葉を宿す
 最後に一つだけ確認して終わります。9節「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」とありますが、ここで罪を犯さない理由として「神の種がこの人の内にいつもあるから」と言われています。この「神の種」を何と理解するのか。いくつかの理解の仕方がありますが、私は、これを「御言葉」あるいは「御言葉と共に働かれる聖霊」と受け止めて良いと思います。私共が正しい歩みを為し、愛の交わりを形作ることが出来るのは、私共の中に御言葉が宿ってくださるからです。御言葉と共に聖霊なる神様が働いて、私共を導いてくださるからなのです。最初に、神様との交わりを大切にし、一日30分で良いから、神様との交わりのためだけの時間を持つようにと申しました。この神様との交わりにおいて、御言葉を宿していくのです。もちろん、この主の日の礼拝においても御言葉を受けます。それをしっかり我が内に宿していくためにも、その時が必要なのです。
 「互いに愛し合いなさい。」との御言葉と共に、この御言葉に導かれて、時間と富と労力を愛の業に献げつつ、この一週も歩んでまいりましょう。

[2013年6月2日]

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