1.聖霊によって与えられる信仰
ヨハネは「子たちよ」と呼びかけて、「御子の内にいつもとどまりなさい。」と勧めます。主イエスを信じて洗礼を受けた者が、主イエスによって一切の罪を赦され救われた者が、その救いの恵みの中にとどまり続けること。主イエスを愛し、主イエスとの親しい交わりの中に生き続けること。ヨハネは、そのことを何より願っているのです。それは、すべての伝道者、牧会者の願いと同じです。ヨハネは、主イエスとの生き生きした交わりからいつの間にか抜け出してしまったキリスト者を知っているのです。どうしてそんなことになってしまったのかと泣いているのです。だから、あなたがたは決してそうならないで欲しいと願い、この手紙を書いているのです。
先週、私共はペンテコステの記念礼拝を守りました。そして、聖霊なる神様は、ペンテコステの日に主イエスの弟子たちに注がれたように、代々のキリスト者に、教会に、そして私共に、同じように注がれているということを確認させていただきました。誰も聖霊によらなければ、「イエスは主なり。」と告白することは出来ないからです。誰も聖霊によらなければ、主イエスを愛し、主イエスと共に、主イエスに従って生きることは出来ないからです。私共の信仰の歩みは、その始めから終わりまで、聖霊なる神様の御支配と導きの中にあります。しかし私共は、自らの信仰の歩みを、自分の熱心、まじめさといったものと混同してしまいがちなのです。そして、信仰によって与えられた知恵、知識もまた、自分の力で手に入れたものであるかのように錯覚してしまいがちです。しかし、そうではないのです。すべてが、聖霊なる神様によって私共に与えられたものなのです。まことにありがたいことです。
2.神の子とされている
神様が私共に与えてくださった、この救いの恵みの現実において特筆すべきこと。それは、私共が神の子と呼ばれる者にされたこと、そして事実、私共は既に神の子とされているということでありましょう。
まことに愚かでわがままな私共であります。そのような私共が、自分の力、自分の能力、自分の善良さといったもので神の子となることなど、出来るはずがないのです。この神の子というのは、天と地とそのすべてを造られた方の子ということですから、ちょっと立派な人が、死んだら神様として祀られるというのとは、次元の違う話なのです。全知全能の唯一の神様の子とされた、されているということは、これはもう、たとえようがない程ものすごいことなのです。三億円の宝くじが当たったとか、オリンピックで金メダルを三回連続で取ったとか、総理大臣になったとか、ノーベル賞や国民栄誉賞を受賞したとか、それはそれで大変素晴らしいことでありますけれど、私共が神の子とされた、されているということに比べるならば、まことに小さなことと言わなければならないでしょう。ヨハネは、この「神の子とされた、されている」という恵みの事実をしっかり受け止めて欲しいと願っているのです。この恵みのとてつもない大きさに少しでも気付くならば、この恵みから抜け出そうなどとは、誰も考えるはずがないからです。この恵みにふさわしく歩もうとするし、この恵みに応えて生きていこうとするからです。私が今朝皆さんに申し上げたいことも、そのことです。皆さんは神の子とされていますし、神の子とされるためにここに招かれているのです。そのことをしっかり受け止めて欲しいのです。
このことをきちんと受け止めた時、私共の歩みは変わるのです。神の子としての誇りを持った者としての歩みとなるのです。天と地を造られた神様の子なのですから、その立ち振る舞いにも、自ずとそれらしいものが備わってくるのです。それは、この世の人が考えるような、上品さというものではありません。そうではなくて、主イエス・キリストによって指し示された義しさによって表されるものです。この義しさは、神様を愛し、人を愛することによって現れる義しさです。それは、こう言っても良いと思います。世は、自分の損得を尺度にして動いています。主イエスを知らなかった時の私共もまた、そうでした。しかし、主イエスを知った今、私共にとって一番大切なものは自分の損得ではなくなりました。神様の御心にかなっているかどうかということになりました。そして、この御心にかなっているかどうかということは、神を愛し、人を愛してそれを為しているか、神に仕え、人に仕えるあり方でそれを為しているか、ということです。もちろん、具体的な場面において、どうすることが御心にかなうことなのか分からないということもあります。その判断に困ることもあります。私は、そのような場合はどちらでも良いのだと思っておりますけれど、大切なのは、そこで御心を求めているかどうかということなのです。私共は欠けの多い存在ですから、いつも完璧に正しく生きる、愛に生き切る、そんなことは出来ないでしょう。しかし、主イエスに救われた者として神の子として歩みたい、その思いが失われることはないと思います。罪の赦しを願いつつ、罪赦された者として歩む。それが、私共の信仰者としての一足一足なのでありましょう。
3.神様の愛を知る
どうして、そのような歩みをしたいと思うのか。それは、私共が神の子とされるために、父なる神様がどれほどの愛を注いでくださったのかを知らされたからです。この私共への神様の愛は、私共が生まれる前から注がれてきたものでした。私共は両親や家族を選べません。私共は神様によって、そこに生を与えられたのです。そして、いろいろな人との出会いを与えられてきましたし、毎日必要のすべてを備えられて生かされています。そして、この神様の愛が最も明確に徹底的に示されたのが、主イエス・キリストの十字架です。
神様の私共への愛は、神様の愛する独り子である主イエス・キリストの十字架によってだけ与えられているのではありません。今申し上げましたように、生まれる前から、必要のすべてを満たしてくださるというあり方で、いつも与えられておりました。しかし、主イエス・キリストの十字架というあり方で、父なる神様の私共への愛がどれほど大きなものであるか、どれほど徹底したものであるかを知らされたのです。ヨハネは告げます。3章1節「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」独り子イエスを十字架に架けてまでも私共の罪を赦し、私共を御自身の子として迎え、愛の交わりを回復しようとしてくださった神様の愛。この父なる神様の愛を考えますならば、私共はぼんやりしていられないのです。何とかして、この愛に応えて生きたいと思うのです。それが神の子とされた者の歩みなのです。
4.世は神を知らず
先程、神の子とされた、されているということはとてつもなく素晴らしいことだと申しました。しかし、世の人はそうは思ってくれません。私共を神の子として大切にしてくれるということはないのです。毎週、私共は主の日の礼拝を守るために家を出るわけです。それを近所の人が見ても、「大変だね。」とか「他にやることがあるだろうに。」とか言われるくらいでしょう。「毎週礼拝に行くなんて、何て素晴らしいことでしょう。」とは決して言われません。しかし、それは少しも不思議ではないのです。何故なら、世は主イエス・キリストを知らず、主イエス・キリストを十字架につけたからです。世が神様を、主イエスを、キリスト者を認めるということはありません。主イエスが十字架につけられたのですから、私共は、自分がこの世において重んじられるようなことを求めても仕方がありません。そんなことは、はなから求めても仕方がないのです。そんな所に私共の希望はありません。
5.わたしたちの希望
だったら、私共の希望はどこにあるのでしょうか。それは、御国であり、終末です。3章2節「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。」とあります。これは、私共が地上の生涯において、どのような明日が備えられているか、はっきりと分かるわけではないということです。私共の歩みはまことに遅々としたものではありますが、一歩一歩成長しています。しかし、どこまで成長させていただけるのか、私共にはよく分からないのです。どれほど神の子らしく、神様の義、神様の愛に生き切る者となれるのか、よく分からないのです。しかし、分かっていることがあります。3章2節の続きを見てみましょう。「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」これが、私共に知らされていることであり、私共の希望です。私共は神の子と呼ばれる者とされ、まことに既に神の子とされているのですけれど、未だ十分に神の子にふさわしい者にはなっていません。やっぱり愚かですし、自分のことばかり考えてしまいますし、言わなくて良いことを口走ってしまいます。そのような私共でありますけれど、神様は私共に聖霊を注ぎ、信仰を与え、少しずつ少しずつ造り変えていってくださっています。そして、その神様の再創造の業が完成するのが、主イエスが再び来られる時なのです。その時、私共は御子イエス・キリストに似た者となるのです。ここに私共の本当の希望があり、目当てがあります。私共の日々のつたない信仰の歩みは、この目当てに向かっての一足一足なのです。
「御子に似た者となる」ということは、復活された主イエス・キリストと同じ復活の体を持つようになるということでありましょうし、主イエス・キリストと父なる神様との完全な愛の交わりに私共も与るということでありましょう。また、主イエス・キリストが、御自身の命を十字架の上でお捨てになってまで父なる神様の御心に従われたように、私共もまた、父なる神様の御心に自ら進んで、喜んで従うことが出来るような者になるということでありましょう。
聖書は、御国について、天国について、絵を描くことが出来るようなあり方で、私共に示すことはありません。池があって、花が咲いて、鳥が鳴いてといった類いのことは、一切記しておりません。そのようなことには興味がないのです。聖書は、私共がどのような者とされるのか、そのことを告げるのです。3章2節の最後を見てみましょう。「なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」とあります。ここで私共は、コリントの信徒への手紙一13章12節の御言葉を思い起こすことが出来るでしょう。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」私共は主イエス・キリストを知っていますし、愛していますが、完全に知っているわけではありません。聖書の言葉を通して知るという限界の中にいます。しかし、御国においては、「顔と顔とを合わせて見ることになる」のです。私は、このことを本当に楽しみにしています。主イエスと顔と顔とを合わせて相見え、私共が主イエスにはっきり知られているように、私共もまた、主イエスをはっきり知るようになるのです。これは、主イエスと私共との交わりが完全なものとなるということでありましょう。ここに私共の希望があります。
ちなみに、13章13節の「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」の言葉は大変有名であり、私共の今年度の聖句でもありますが、どうして「最も大いなるものは、愛」なのか。それは、神様が愛であられるからでありますし、愛だけが御国においても残るからです。天国に行ったら、もう信仰も希望もいらないのです。信仰も希望も、御国が来るまで私共にどうしても必要なものです。これがなければ、御国にたどり着くことは出来ません。でも、御国が来たら、もうそれは必要ないのです。しかし、愛は、御国においていよいよ完成されることになるのです。キリストの愛が、神の愛が、御国において私共の中で完全に徹底されることになるのです。
6.目当てに向かって歩む
さて、この御国において完成される救いを目指して歩む私共は、御子イエス・キリストに似た者とされることを目標、目的、目当てに生きるわけですから、少しでもそこに近づこうとする。それが3章3節で言われている、「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」ということなのです。
何度も申しますが、私共が既にそのような者となっているということではないのです。私共は、神の子と呼ばれ、事実、神の子とされています。しかし、その実質は、とても神の子と呼ばれるにふさわしい者ではないのです。それを私共は百も承知です。しかし神の子なのです。何故なら、神様が、主イエスの十字架の故に私共をそのように見てくださり、そのように扱ってくださるからです。私共が神の子であるということは、私共が言っていることではないのです。神様が御自分の子として私共を見てくださり、御自分の子として受け入れてくださり、そのように扱ってくださるということなのです。
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙3章12〜14節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と言っておりますが、これが御国における救いの完成を知らされた者ありようなのです。主イエスに似た者とされるという、神様が私共に与えてくださる救いの完成があることを知った者は、その目当てに向かってひたすら走るのです。それが、たどたどしいながらも私共が一生懸命に為している信仰の歩みなのです。そして、その歩みを守り、支え、導くために、神様は私共に聖霊を注いでくださっているのです。
聖霊なる神様による御国への歩みは、いつも新しいのです。聖霊なる神様がいつも私共を造りかえ、新しくしてくださるからです。ですから、私共は昨日までの自分に囚われることはありません。今日、今ここから、また新しく御国に向かっての歩みを為してまいりましょう。
[2013年5月26日]
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