1.信仰を与えられるという重大事
主イエスと出会い、一切の罪を赦された者は、新しい命に生きる者となります。主イエスの命、永遠の命に生きる者となります。この命に生きる者は、それまで求めていたものと違うものを求めるようになります。自分の愛するもの、自分にとって大切なものが、それまでとは違ってくるのです。何を愛し、何を大切にするのか。その違いによって、その人が闇の中に生きているのか、光の中を歩んでいるのかが分かります。信仰を与えられることによって、何を願い求めて生きるのか、何を目的とするのか、それが決定的に変わってしまうのです。もし、信仰が与えられても何も変わらないとするならば、そのような信仰は大して意味がないものではないでしょうか。自らの罪を知り、悔い改め、主イエスを信じる者とされるということ。自分を造り、この世界を造り、すべてを支配してくださっている父なる神様を知るということ。信仰が与えられるということは、私共の人生を根本的に、決定的に変えてしまう大事件なのです。
私は、前任地において葬式の式次第に個人の略歴を記していたのですが、そこに記されたことは、○年に生まれる、○年に結婚、○年に子を与えられる、○年に洗礼、○年に死亡、それだけでした。洗礼とは、かくも人生における重大事件なのです。確かに、洗礼を受けたその瞬間から自分は変わったと実感するということはないでしょう。洗礼を受ける前と同じように目を覚まし、一日の仕事を為し、眠りにつく。外に現れているところを見れば、特に変わったことはないかもしれません。しかし、違うのです。本人さえも気付かないようなあり方で、根本的に、決定的に変わってしまうのです。それは、生きる意味が、生きる目的が変わってしまうからです。生きる意味や目的が変わってしまえば、当然、大切なことも変わってしまうでしょう。それまで当たり前であったものが、当たり前ではなくなってしまうのです。
2.ジュネーブ教会信仰問答、ウエスミンスター小教理問答より
宗教改革者カルヴァンは、ジュネーブでの宗教改革の中で、青少年の信仰を養い導くために、ジュネーブ教会信仰問答を作成しました。それは、こう始まります。
ジュネーブ教会信仰問答 (1542年)
問1 人生のおもな目的は何ですか。
答 神を知ることです。
問2 どんな理由であなたはそう言うのですか。
答 神は我々の中にあがめられるために我々を造り、世に住まわせられたのでありますから。また、神は我々の生の源でありますから、我々の生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然であります。
問3 では人間の最上の幸福は何ですか。
答 それも同じであります。
また、長老教会の代表的信仰告白であるウェストミンスター小教理問答は、こう始まります。
ウェストミンスター小教理問答 (1647年)
問1 人のおもな目的は何ですか。
答 人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。
この二つの信仰問答は、人生の目的をまず問い、答えることから始めています。ジュネーブ教会信仰問答では「神を知ること」と答え、ウェストミンスター小教理問答では「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」と答えます。ジュネーブ教会信仰問答における「神を知ること」というのは、単に神様がいるとかいないとかということではなくて、神様をあがめ、神様に栄光を帰するというあり方で知るということですから、この二つの信仰問答は、その内容においては同じことを言っているのです。
この問いと答えを聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。「何だ、それは。」と思われたでしょうか。「なるほど。」とか「その通り。」とか「見事だ。」と思われたでしょうか。もし、神様を知らない人に「あなたの人生のおもな目的は何ですか。」と同じ問いを問うたなら、どのような答えが返ってくるでしょうか。「健康で元気に。」とか「毎日楽しく。」とか。きっと一番多いのは、「考えたことない。」ではないかと思います。いずれにせよ、このような答えは決して出てこないでしょう。イエス様を知る前の私共でしたら、このような答えは全くちんぷんかんぷんで、何を言っているのか、さっぱり分からなかったと思います。しかし、今はそうではありません。なるほど、本当にそうだと思う。それは、私共が主イエスと出会って信仰を与えられ、私という人間が根本的に変えられてしまったからなのです。
3.世も世にあるものも、愛してはいけない
今朝与えられております御言葉は、先週も見ましたように、12〜14節で「子たちよ」「父たちよ」「若者たちよ」という呼びかけが、二回ずつ繰り返されています。告げられていることは三つです。第一に、あなたがたは罪を赦されているということ。第二に、初めから存在される方、つまり神様を知っているということ。第三に、悪い者、つまりサタンと考えて良いと思いますが、これに打ち勝ったということです。罪を赦され、神様を知る者となり、サタンに打ち勝った。だから、15節の「世も世にあるものも、愛してはいけません。」と続くのです。このつながりが大切です。聖書は、藪から棒に、「世も世にあるものも、愛してはいけません。」と言っているのではないのです。罪を赦され、神様を知る者となり、悪しき力に打ち勝つ者とされたのですから、世も世にあるものも愛してはいけません、と言っているのです。これは、「あなたがたはもう世も世にあるものも愛することなど出来ない、そういう者になっているでしょう。」と言っているのです。
ここで、「若者たちよ」と言って、「悪い者に打ち勝った」と言っていることは大切です。若者、これを年齢が若いと取っても良いし、洗礼後まだ間もないと理解しても良いのですが、いずれにしても「悪い者に打ち勝った」という事実が大切なのです。若い時、人は多くの誘惑を受けるものです。年をとれば大したことはないと思うことであっても、若い人にとっては重大なことであることがいくらでもあります。恋愛もそうでしょうし、進学や就職もそうです。それを、どういうことを基準に決めていくのか。それが大切なのです。あるいは、悪い習慣というものもあるでしょう。私共は、それを一度捨てなくてはならないのです。これは大変なことですが、これをしなければ信仰は成長しません。しかし、聖書は、何が何でも、歯を食いしばって、世にあるものを愛さないようにして生きていけ、と言っているのではないのです。主イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)と言われました。それと同じことです。「世も世にあるものも、愛してはいけない。」とありますが、内容から考えれば、愛することは出来ないということです。
私共が主イエスの救いに与る前、神様を知る前、私共は世と世にあるものを愛しておりました。世と世にあるものがすべてだと思っておりました。ですから、世にあるものを手に入れ、世において認められ、世において大した者だと言われることを目指して生きておりました。この言葉ももう古いのでしょうが、「末は博士か大臣か。」という言葉もあります。もちろん、自分はそんな大したものを求めていたわけではないという人もいるでしょう。せめて人並みの生活をして、家族が仲良く暮らしていければ良いと思っていたという人もいるでしょう。しかし、それも神無き世界における、かりそめの目的でしかないのです。
誤解されてはいけないので申しますが、「せめて人並みの生活をして、家族が仲良く暮らしていければ」という願いが悪いとか、間違っているというのではないのです。キリスト者になっても、その願いがすべて無くなる、生活のことなどどうでも良い、家族なんて関係ない、そのように思うはずはないのです。そうではなくて、神様に与えられた命、仕事、家族を、感謝をもって受け取り、互いに支え合い、仕え合いながら歩むようになるということなのです。「せめて家族が仲良く」という願いは当然です。しかし、これがなかなか難しいのではないですか。それは、家族が新しくなっていかないからなのです。16節にあります「肉の欲、目の欲、生活のおごり」といったものに支配されてしまいますならば、家族も仲良くしていられない。そういうことになってしまうのです。
4.欲に支配されることなく
この「肉の欲」というのは、端的に性欲と理解する人もいますが、そんなに狭い理解をしない方が良いでしょう。これは、肉の思い、つまり自分の幸いと利益しか求めない私共の欲のすべてを指しています。「目の欲」とは、見た目から刺激される欲です。人の目ばかり気にして、人の目に良いとされることを求める欲です。名誉欲などを考えれば分かりやすいでしょう。「生活のおごり」というのは、無駄な贅沢を考えれば良いでしょうか。この三つは、一つ一つを考えるよりも、私共の中にある、富への誘惑であったり、快楽への誘惑であったり、贅沢や地位や名誉への誘惑、支配欲や歪んだ暴力への誘惑といった、諸々のものを指していると考えれば良いと思います。このような様々な欲に支配されてしまいますと、夫婦や家族といった、神様が与えてくださった愛の交わりさえも壊れていってしまうということです。
何故、世も世にあるものも愛してはいけないのか。愛することが出来ないのか。それは、世も世にあるものも、悪しき者の支配の中にあるものだからです。私共は神様のものとされました。だから、サタンの支配の中にあるものを愛することは出来ないのです。
ここで、主イエスが受けられた荒野の誘惑を思い起こすことが出来るでしょう。悪魔は主イエスに、石をパンに変えるよう誘惑します。これは、生活の誘惑と言っても良いでしょう。何が愛だ、何が神様だ。神様が手形を落としてくれるのか。愛で食っていけるのか。そのように言う世に対して、ここで戦われたのです。次にサタンは主イエスに、神殿の屋根の上から飛び降りるように誘惑します。これは、人からの賞賛への誘惑と言って良いでしょう。主イエスはこれを退けられました。そして、最後にサタンは、自分を拝むなら世のすべての富を与えようと誘惑しました。これは文字通り、富の誘惑、支配への誘惑です。ここには、世の富というものがサタンのものであるということがはっきり示されています。主イエスはこれも退けられました。世と世にあるものが持つ力、私共を誘惑し、神様から引き離し、自分の方に引きずり込もうとするのはサタンの力なのです。ですから私共は、これを愛することは出来ないのです。世と世にあるものを愛する者は、サタンを愛し、サタンの支配の中に生きることになるからです。主イエスはこの三つの誘惑を退け、そして十字架への道を歩まれたのです。十字架への道は敗北の道に見えます。しかし、そうではありませんでした。復活へと続く、永遠の命へと続く道だったのです。私共も、十字架の主イエスを愛し、これに従い、復活の命・永遠の命へと歩んでいくのですし、歩んでいるのです。
5.永遠という価値基準
主イエスによって新しい命に生きる者とされた私共は、永遠という価値基準を与えられました。それまで私共は、死んだらお終い、そう思っていました。永遠なんてものがあるということさえ知りませんでした。しかし、主イエスと出会って、復活の命に与る者とされ、永遠というものがあることを知りました。そして、この永遠という基準の中で、大切なものは何かということを知る者となったのです。自分にとってどっちが損か得かということでなく、どっちが気持ちいいかということでもなく、神様の御心に適うのはどっちか、そのように考えるようになったのでしょう。それは、御心に適うことだけが、永遠の価値を持つことを知らされたからです。
17節「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」とあります。時代は変わり、どんなに栄華を極めても、すべては過ぎ去っていきます。私共も皆、年をとっていきます。しかし、過ぎ去ることのない方がおられます。初めからおられるお方、全能の父なる御神です。この方につながり、この方の御心に適うことは、何一つ失われることはないのです。
パウロは、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。愛を追い求めなさい。」(コリントの信徒への手紙一13章13節〜14章1節)と告げました。愛です。神様を愛し、隣人を愛する愛です。この愛だけが永遠に価値を失わず、過ぎ去らず、価値あるものであり、私共の人生を意味あるものとするのです。自分のために生きるのではなく、神様を知り、神様の栄光を現すために生きる。この人生の目的を全うするのは、愛なのです。サタンとサタンの支配の中にある世と世にあるものを愛するのではなく、神様を愛するのです。そして隣人を愛するのです。それこそ、何一つ失われることのない、価値のある真実な人生なのです。空しいものに心を奪われてはいけません。本当に価値あるもののために、与えられた命を用いてまいりましょう。
[2013年5月12日]
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