1.光の子とされている私共
私共は今朝、神様の光を求めて、主イエスの光に照らされるために、ここに集まってまいりました。私共に信仰を与えられているということは、この神様の光の中を歩む者とされているということです。まことの神様を知らなかった時、主イエスを知らなかった時、私共はまことの光を知りませんでした。この光に照らし出されることがなかった時、私共は自分が何者であり、何をしているのか分かりませんでした。しかし、今は違います。私共は自分が神様に造られた者であり、神様に愛されている者であり、神様の子とされていることを知っています。神様に向かって「父よ」と呼びまつり、祈ることを知っています。互いに愛し合い、仕え合い、支え合い、祈り合い、愛の交わりを形作る者として生かされていることを知っています。私共は、自分がどこに向かって生きているのかを知っています。それは、死という闇に向かってではなく、死を突き抜けた永遠の命、神の国に向かって歩んでいることを知っています。これらのことは、私共がまことの光の子であることをはっきりと示しています。私共は闇の子ではないのです。そうであればこそ、私共は光の子として、光の子らしく歩まなければならない。このことは当然のことでしょう。光の子とされているのに闇の子のように歩むとすれば、それは嘘つきということです。私共は、神様に対しても、自分に対しても、隣り人に対しても、嘘つきであってはならないのです。
しかし、このように申しますと、「私は光の子と言えるような歩みはしていません。光の子らしい者とはとても言えません。私は駄目なキリスト者です。私は嘘つきです。偽善者です。」そんな風に思う方もおられるかもしれません。しかし、もしそのように思う人がおられるならば、実にその人こそまことに光の子なのです。少し矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、そうなのです。光を知らない者は、自分が闇の中にいるということも知りませんから、自分が嘘をついているということさえ知りません。自分が悪いなどとは、少しも思わないのです。しかし、神様の光に照らされた者は、自分の中にある闇、拭っても拭っても滲み出してくるような自らの罪の思いを知っています。ですから、私こそ光の子ですとはなかなか言いにくい。恥ずかしくて言えない。そういうことなのだと思います。
しかし今朝、私は言います。あなたがたは光の子なのです。まことの光であられる、天と地を造られた唯一の神様の子とされているからです。まことの神の子であり、光そのものであられる主イエス・キリストとの交わりを与えられているからです。父なる神様に向かって、主イエス・キリストと共に、「アッバ、父よ」と呼ぶ者とされているからです。そこには、聖霊なる神様の確かなお働きがあります。私共は、この父・子・聖霊なる神様のお働きの中で、その交わりの中で、光の子とされているのです。この救いの事実、恵みの現実をしっかり受け取らねばなりません。
2.神は光である
今朝与えられております御言葉は、5節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」と始まっています。「神は光である。」このことは主イエスが告げられたことであり、キリストの教会が告げていることだと言うのです。「神は光である」という言い方は、多分、キリストを知らない人も、たとえ他の宗教を信じている人であっても、受け入れられる言葉だと思います。しかし、逆に申しますと、このような表現は「何となく分かる」というままにしておきますと、聖書が語ろうとしていない勝手な受け取り方をしかねない、危険な所でもあります。
この「光」とは、ヨハネによる福音書1章の冒頭、1章4〜5節で「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と言われているところの「光」です。つまり、主イエス・キリストによって示された光です。主イエス・キリストの復活の命・永遠の命としての光、主イエス・キリストによって与えられた罪の赦しによる光、主イエス・キリストが語られた真理の光、主イエス・キリストに現れた神の愛の光、主イエス・キリストが指し示した終末における希望の光、主イエス・キリストによって与えられた信仰の光です。この神の光は、主イエス・キリストというお方と切り離して理解してしまいますと、聖書が語っていることと違うものになってしまいます。ここは、一つ押さえておかなければならない大切なポイントです。このことを押さえておきませんと、後の所がよく分からなくなってしまいます。
3.光の交わり
6節を見てみましょう。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」とあります。ここで「闇の中を歩むなら」と訳されている言葉は、「闇の中ばかり歩いている」「闇の中を歩み続けている」と訳した方が良いと思います。つまり、主イエス・キリストの救いに与り、神の子とされておりながら、まるで主イエスを知らないかのように、それ以前と少しも変わらない、そのような人のことを言っているのです。私共も、洗礼を受ける前と後でどこがどう変わったのかと問われますと、口ごもるところがあるかもしれませんが、しかし、明らかに変わったところはいくらでもあると思います。例えば、神社に初詣に行かなくなったとか、占いをしなくなったとか、人に対して偉そうに接しなくなったとか、お金のことばかり考えないようになったとか、いろいろあると思います。ここでヨハネが特に念頭に置いているのは、教会の中における交わりの問題です。つまり、キリストによって示された愛の交わりを形作ろうとしているか、あるいは、単に自分と気の合う仲間でグループを作って満足していないかということなのです。この世の交わりにおいては、3人いれば派閥が出来ると言われています。人間同士の交わりというものは、必ずこの派閥のようなものと無縁ではあり得ないのでしょう。しかし、それが教会にもあったら、証しにならないのです。
前回も申し上げましたが、教会の交わりというものはとても大切なものです。それが本当に麗しいものであるならば、ここに主イエス・キリストがおられるということが明らかに示されて、神の愛の証しを立てることになるからです。しかし、そうでないならば、ここに神様はいないだろうということにさえなりかねない。そういうものなのです。もちろん、この交わりというものは、「仲良くしましょう。」というようなことで出来るものではありません。それぞれがしっかりと主イエスに結ばれる、主イエスにお仕えする、このことがはっきりする中で、聖霊の導きの中で形作られていくものです。
7節を見ましょう。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」とあります。ここに、この交わりを支えるものが何であり、この交わりを支えてくださる方が誰であるかが示されています。それは、「御子イエスの血による罪からの清め」です。主イエス・キリストが私のために、私に代わって、十字架の上で死んでくださった、この事実を互いにしっかり受け止める者同士の交わりなのです。そこで、どうして自分だけ偉そうにしていられるでしょう。主イエスがお仕えくださったように、互いに仕え合おうとするのではないでしょうか。もちろん、仕え方は人によって違いますし、状況によっても違うでしょう。
例えば、牧師の場合、それは何よりも御言葉を伝えるというあり方によって仕えるのです。しかし、それ以外しなくても良いということではもちろんありません。灯油も買いに行けば、ハガキも出します。でも、私は週報は書きません。週報は牧師が書くものだろうと思う方もおられるでしょうが、そんなことはないのです。私共の教会の週報は本当にミスの少ないものです。これはすごいことです。もし私が作ったら、「先週の週報にはこうありましたが、このように訂正します。」といった訂正文を毎週出さなければならなくなるでしょう。自慢ではありませんが、私はそういうことが出来ない人なのです。そして、これを印刷する人がいて、週報ボックスに入れる人がいます。奏楽する人がいて、司式する人がいて、この礼拝は成立しているのです。誰も、「私がやっている。すごいだろう。」そんなことは言いません。皆、主イエスにそれぞれのあり方でお仕えしているからです。教会にはいろいろな奉仕があります。その仕えるという業を通して互いに結ばれ、交わりが形作られているのです。教会学校の教師もいます。教会という所は、奉仕する人が備えられて初めて活動が出来るのです。そこで大切なことは、「主イエスにお仕えしている」ということを互いにはっきり自覚することです。お掃除一つとってもそうなのです。私共は、この「主イエスにお仕えする」という自覚を明確にすることを抜きにして奉仕をしてはいけないのではないか。そう思うのです。
私が神学校の最後の一年だけ出席した教会では、毎週土曜日の午後に教会の清掃がありました。東京ですから、皆一時間くらいかけて集まって来ます。毎週6〜7人で行うのですが、中に清掃隊長という方がおられて、この人を中心に清掃が行われます。とても印象に残っているのは、まず祈ってから清掃を始めていたということです。清掃が一応終わりますと、この清掃隊長が、まるで小姑のように指でほこりをチェックするのです。そしてほこりが付いてくると、「やり直し!」と言われます。隊長に言われて、「そこ、忘れていました。」と言ってその場所を清掃した人がやり直します。このように申しますと、何か陰険な感じを受けるかもしれませんが、そんなことは全くありません。このチェックの時が、とても楽しいのです。そして、小一時間の清掃の後、みんなでお茶をして、最後にまた祈って終わります。会堂の清掃ということが、主にお仕えする業として、はっきり自覚して受け止められていたのです。誰かがやらなきゃいけないから仕方がない、そういう奉仕ではありませんでした。この清掃隊長という方は、本当に会堂清掃が好きなのです。会堂清掃を神様に与えられた使命として受け止めて奉仕されていたのです。他の人は休んだり交替しても、この隊長さんは決して休みません。若い時から何十年と毎週土曜日に教会に来て会堂清掃をされてきたのです。私は、この人を美しいと思いました。清掃は、この人にとって神様にお仕えする献身の業だからです。主イエスにお仕えする業は、明るいのです。暗くなりようがないのです。
4.悔い改め
さて、もう一つ教会の交わりを真実なものとするのは、悔い改めです。8〜10節「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」とあります。ここで想定されているのは無律法主義者と呼ばれる人々です。私は救われたのだから何をしても良い、そう言って、放縦な生活をしても少しも悪いと思わない人々です。こういう、自分は悪くないと言い放ったり、そう思い込んでいる人たちの作る交わりというものは、結局、誰かの悪口を言い合う、互いにいがみ合う、そういうものになってしまうのではないでしょうか。そして、表面では仲良さそうにしている。しかし、教会の交わりとは、そういうものではないのです。自らの罪を神様の光の中で照らし出されたなら、それを認め、悔い改めるのです。
ここで、「自分の罪を公に言い表すなら」とあります。これは、「公に」ということを「皆の前で」という風に文字通りに取ることはありません。しかし、自分の罪というものは、単に心の中で思い、反省するというようなことではだめなのです。罪は光に照らされて、表に出されなければならないのです。ここで、牧師との対話、あるいは長老との対話ということが考えられて良いと思います。明らかにされた罪に対して、キリストの赦しを共に祈り求め、この礼拝に集い、御言葉と聖霊によって赦しの確証を与えられて、新しく歩み出すのです。当然、そこでは守秘義務が守られなければなりません。私は、牧師自身、あるいは長老もまた、そのような対話を必要としているのだと思います。自分の密かな罪を密かにしておいたままならば、それは清められることなく、私共を霊的にむしばんでいくのです。私共はこのことをよく弁えた方が良い。自分の犯した罪というものは、誰にも言いたくない、知られたくない。その通りです。しかし、神様は御存知であり、それを告白して赦されることを求めておられるのです。
心の底にある罪は黙っておこう、隠しておこう。それが私共の普通のあり方かもしれません。しかし、それは主イエス・キリストの赦しを知らない者の歩みでしょう。私共は心の闇をはっきりさせなければなりません。そして、それと戦うし、何より主イエスの赦しに与って、新しくやり直すのです。自分が罪を犯した具体的な相手がいるならば、その人に向かって、自分の犯した罪をはっきり言い表すことです。罪は光にさらされなければ駄目なのです。
もちろん、罪を犯したことがないと言える人は誰もいません。ですから、他の人の罪を偉そうに裁いたりすることは誰にも出来ません。私共が為すことは裁くことではないのです。そうではなくて、私共に求められていることは、その人と共に、主イエスの十字架の前に立つことです。主イエスの赦しに与ることです。そして、新しく歩み出すことなのです。
5.光の中を歩むのは、気分の問題ではない
光の中を歩むということは、確かな喜びと希望の中を歩むことです。しかしそれは、私共の気分の問題などでは決してありません。人は種々の課題を与えられて生きています。明るく元気に生きようとしても、その元気が出ない、そういう時だってあります。まるで闇の中を歩いているような気分の時だってあります。鬱になってしまうこともある。しかし、それは気分の問題であって、聖書が語る光の中を歩んでいるかどうかということとは関係ありません。
何故なら、光の中を歩むということは主イエスと共に、主イエスと一つにされた者として歩むということだからです。主イエスがおられるのです。私共がどのような状況の中を生きていようと、私共のすべてを知り、すべてを導いてくださる主イエスがおられるのです。この方にこそ光があり、希望があり、喜びがあるのです。光の中を歩む中での喜びも希望も、私共の内側から自然にわき上がってくるものではないのです。そうではなくて、たとえ暗い辛い日々を過ごしている時でも、なおその中で私共は主イエスを見るのです。そして、父なる神様と主イエス・キリストとの永遠の交わりの中に生かされている自分を発見するのです。「アバ、父よ」と祈ることが出来る自分を発見するのです。この恵みをしっかり受け止めて生きること、それが光の中に生きることなのです。そして、そのことがはっきりするならば、私共は苦しい状況の中でも、それでも光の中を歩み続けることが出来るのです。まことの光である主イエス・キリストの光は、私共がどんな状況の中にあっても、消えてしまうことのない光だからです。闇が光に勝つことはないのです。私共は、この光の中を生きるように、そしてこの光に包まれた交わりを形作るようにと召された者たちなのです。
[2013年4月21日]
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