富山鹿島町教会

礼拝説教

「聞いて、見て、触れた命の言」
詩編 119編25〜32節
ヨハネの手紙 一 1章1〜4節

小堀 康彦牧師

1.主イエスは私共と共に
 先週私共は、主イエス・キリストの御復活を共々に喜び祝いました。復活の主イエスは、聖霊として代々のキリスト者と共におられました。そして今、私共と共にいてくださっている。これが私共に与えられております救いの現実、恵みの現実です。私共が救われているということは、病気が治ったとか、給料が上がったとか、就職出来たとか、そういうことではありません。もちろん、そのような喜ばしいことは神様のあわれみの御手の中で与えられたことであって、私共はそれを素直に神様に感謝して喜んで受け取れば良いのです。しかしながら、そのような良いことが起きたから、それだから私共は救われているということではないでしょう。たとえ病気が治らなくても、給料が上がらなくても、次から次へと困った問題が起きたとしても、それでも私共は救われているのです。主イエスが共にいてくださるからです。そうは言っても、主イエスは見えないではないか。そう言われる方もおられるかもしれません。その通りです。
 では、主イエスが私共と共におられるということを、私共はどこで分かるのか。どこで知るのか。主イエスが共にいてくださるということがどこで分かるのかという問いに対しては、いろいろな答え方があると思います。ある人は自分の体験を語るでしょう。これも大切なことです。しかし、ここで知っておかなければならないことは、主イエスが共におられると言った場合、それにはいくつもの側面があるということです。主イエスが共におられるということで私共がまずイメージするのは、同伴者イエス、私共と共に歩んでくださる主イエスというものであるかもしれません。私共を担い、私共を慰め、私共を励まし、私共と共に歩んでくださる主イエス。私が困り果てた時、主はこのような御言葉と出来事をもって私を慰め励ましてくださったという経験を、皆さんもきっと持っておられるだろうと思います。あるいは、私共の内に住み給うお方としてイメージする方もおられるかもしれません。私は今月、7人の方を訪ねて訪問聖餐に与ります。この訪問聖餐において私共が受け取るイメージは、主イエスがこのパンと杯をもって私の中に入り、私と一つになってくださるということだと思います。これもとても大切な、慰めに満ちた救いの現実であります。しかし、もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、主イエスは私共のただ中におられるということです。私共のこの交わりの中に、私と皆さん、そして隣に座っている人との間におられるということです。これを「交わりの中におられる主イエス」と言っても良いでしょう。

2.主イエスとの交わり、人間の交わり
 ヨハネによる福音書から御言葉を受け続けてきた私共でありますが、今日からヨハネの手紙一を共々に読み進んでまいります。私自身、ここ二年程の間、毎週ヨハネによる福音書の御言葉に与り続け、まだヨハネから離れ難いという思いもあります。このヨハネの手紙一は、ヨハネによる福音書を記した人と同じ人が記したかどうかは議論があるでしょうが、この手紙がヨハネによる福音書を前提として、同じ信仰に立っていることは間違いありません。この手紙を読み進める中で、ヨハネによる福音書のあそこに記されていたことと同じだ、そういう所がたくさんあると思います。
 そして、このヨハネの手紙一の中心的なテーマの一つが、「交わり」ということなのです。交わりの中に共におられる主イエス・キリスト、この主イエスとの交わりです。そして、その主イエスとの交わりを基とした私共の交わりです。これがヨハネの手紙一の一つの中心テーマなのです。
 私共が「交わり」ということを考える時、この教会における私共の交わり、人間同士の交わりということを考えるでしょう。仲良くしようとか、そのために一緒に食事をするとか、それはそれで大切なことですけれど、私共の交わりというものの根本、私共の交わりを成立させている大本には、神様との交わり、主イエスとの交わりというものがあるわけです。このことを忘れてしまいますと、教会の交わりも町内会の交わりも少しも違わないなどということになりかねないのです。
 3節を見てみましょう。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。」とあり、この手紙が書かれた目的が記されています。その目的とは、この手紙を読んだ人が、この手紙を書いた「わたしたち」との交わりを持つようになるためだと言うのです。「わたしたち」というのは、この手紙を書いた人が属していた教会の人たちを指しているのでしょう。この手紙を書いた人は、教会の交わりに、この手紙を読む人々を招きたいと言うのです。そして、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」と続く。ここで、この手紙が語る「交わり」というものが、父なる神と子なる主イエス・キリストとの交わりを指すと同時に、それによって与えられるところの人と人との交わりを指すということが分かると思います。私共の交わりは、この神様、イエス様との交わりという面と、人と人との交わりという面の両方があるのです。どちらか一方ではないのです。

3.喜びに満ちあふれる交わり
 そして、4節「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」と続くのです。神様そしてイエス様との交わりに共に与る者の交わりは、喜びを満ちあふれさせるものなのです。私共はそのような交わりに招かれているし、事実、そのような交わりに与っているのです。
 私共は、教会が天国でないことを知っています。お互い罪人でありますから、好きだ嫌いだ、合う合わない、そんなことはいくらでもあります。親子、兄弟、夫婦だって難しいことがいくらでもあるのですから、地上にある人間同士の関係において、喜びだけがあって何の問題もないなどということはあり得ないのです。しかし、ヨハネが語り、私共が与っている交わり、人々をここへと招く交わり、それは単なる人間関係ではないのです。ある人が、人間というものはハリネズミのようなもので、互いに近くにあろうとすると、自分の針で相手を傷つけたり、相手の針で自分が傷ついたりするものだと言いました。確かにそういうものかもしれません。この針が罪というものなのでしょう。しかし、私共に与えられている交わりとは、この針を突つき合うその間に主イエスがおられるということなのです。主イエスが、自分の針で突つき合う私共の間におられて、私共に代わってその針で刺され、あるいはその針を丸めたり抜いたりして、交わりを形作っていってくださるということなのです。だから、喜びが満ちあふれるようになるのです。
 この喜びに満ちあふれる交わり、これを愛というのです。この交わりは、この世における様々な交わりとは全く異質です。全く異質であることによって、この交わりは、主イエス・キリストがどのようなお方であるかを証しすることになるのです。教会の交わりがこの世の交わりと少しも違わないのであれば、この交わりのただ中におられる主イエス・キリストというお方も別に大したことはないということになるでしょう。しかし、そうではない。実にこの交わりは、喜びに満ちあふれることになっている交わりなのです。主イエス・キリストがそのただ中にいてくださるからです。
 皆さんが教会に集うようになった時のことを考えてみてください。説教が良かったから教会に集われるようになったのでしょうか。私は正直なところ、教会に通うようになって一年程の間、説教がほとんど何を言っているのか分かりませんでした。しかし毎週教会に通いました。それは、教会の中に、地方から浪人するために東京に出てきて、知り合いは誰もいない、そういう18歳の自分を受け入れてくれる人々がいたのです。もちろん、それだけで私に信仰が与えられたわけではありません。しかし、私が教会に通い続けた理由の一つ、しかも大きな一つとして、この交わりというものがあったことは間違いないのです。ここは他の所とは違う、そう感じさせる何かがあったのです。私は、それが教会の交わりのただ中におられる主イエスであったと、今は考えています。  教会の交わりというものは、仲良くしましょうというようなことで何とかなるようなものではないのです。そうではなくて、私共一人一人が主イエスとしっかりつながる、主イエスを愛し主イエスに従う、そのことがはっきりした人々の間に主イエスの愛の交わりが形作られていくということなのです。それは、この世界のどこにもないような交わりであり、すべての人が心から望んでやまない交わり、誰もがそこに身を置きたくなるような交わりなのです。

4.教理と交わり
 ヨハネはどうして「交わり」を一つの大きなテーマとするこの手紙を書いたのかと申しますと、この時代に教会の中に分派が現れ、教会の交わりを混乱させていたということがあるのです。その分派とは、イエス様を神とは認めないという人たちでした。彼らの主張は、霊は尊く、肉は汚れたものという前提がありました。その前提に立って、天地を造られた神の子である方が、どうして肉体を持つなどということがあり得るのか、ということになるのです。霊なるキリストは洗礼と共にイエスに下ったが、十字架の死の前に天に帰ったのであって、十字架の苦しみをキリストは味わっていない。まして、復活というものは霊におけるもので、肉体を伴ってなどいない。そういう主張でした。これはドケティズム、仮現論と呼ばれるものですが、このように主張する人々は肉体を軽蔑しますので、厳格な禁欲に走るか、あるいは逆に、肉体はどうでも良いのだから倫理的に放縦な生活をする、そういう人たちが現れたのです。どちらも現実的な具体的な愛の交わりを形作ることにおいて破壊的なものでしかありませんでした。
 教会という所は天国ではありませんから、いつの時代でも、その時代の考え方、思想というものが形を変えて入ってくるものなのです。それを止めることは出来ませんし、それが悪いとも限りません。その国の、その時代の言葉で、その時代に生きる人々に主イエスの福音を伝えていく以上、それは必要なことでもあるのです。しかし、それがまことの神にしてまことの人である主イエスを否定する、主イエスの十字架と復活を否定する、そういうものならば話は別です。それは教会の交わりの根本を崩すことになってしまうからです。
 主イエスがまことの神であり、肉体を持って来られたということ。その方が十字架に架かり、復活されたということ。それは、私共のこの肉体がどうでも良い、意味がないことではなくて、この肉体を持っての日々の生活が大切であることを示すことになります。肉体を持っている私共がどのような生き方をし、どのような交わりを具体的に形作っていくかということと、私共が主イエスによって救われたということが深く結びつくことになるのです。主イエスが肉体を持って来られた神の子であり、その方によって救われたということは、私共もまた、その方に救われた者として生きるのであり、その方との交わりは具体的な愛の交わりを形作るということを抜きにはあり得ないということになるのです。

5.証言としての聖書
 1節を見てみましょう。「初めからあったもの」と書き出しています。そして、それが「命の言(ことば)」だと言うのです。これは、ヨハネによる福音書の冒頭、「初めに言があった。」を思い出させますし、それを意識しているに違いありません。天地の始めからおられた命の言である神の子キリストです。そのキリストが肉体をとって人となられた。だから、その方は「聞いて」「目で見て」「触れる」ことが出来た。主イエスというお方は、フワフワした霊としてではなく、私共と同じ人間として地上を生きた。私共と同じ言葉を語り、それを使徒たちは聞いた。使徒たちは主イエスと共に旅をし、その方を見、その方に触れた。
 2節「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」御父と永遠に共にあられたキリストが肉体をとり、人として現れた。この方が十字架に架かり、復活して使徒たちに現れ、復活の命、永遠の命を使徒たちに見せたのです。
 この手紙を書いた人は、「わたしたちは見て、証し」をすると言います。誰かが言ったことを、誰かが見たことを語るのではない。私が見たのだ、だから証言するのだと言うのです。聖書は証言を告げるのです。それが聖書の権威の源にあります。私は見た。私は聞いた。私は触れた。だから語る。それを語るのです。聖書が告げていることは、いろいろ考えた末、こういうことになると思うというようなことではないのです。どんなに賢い、どんなに霊的に優れた人も、この「私は見た。私は聞いた。私は触れた。」という証言の前では、頭を垂れるしかありません。この「わたしたちは見て、証しをする。」という言い方には、「あなたがたは見ていない。頭の中で考えただけではないか。そんなものが何になる。嘘をつくな。」そんな激しさを内に秘めているのではないかとさえ私には思えます。
 この自分が見て、聞いて、触れた、そのお方を証しし、それを伝えているのだと言うのです。その方が語られたこと、その方が為されたこと、その方御自身を、そしてその方によって与えられている救いを、恵みを、福音を伝えるのだと言うのです。目的は、先程も申し上げましたように、3節、4節で記されていること。つまり、この方との交わりに共に与り、この方と共にある交わりを形作っていくことです。そして、共に喜びに満ちあふれたいのです。
 私共もそうです。この手紙を共に読み、ここから御言葉に与っていくのは、父なる神様と御子イエス・キリストとの交わりに共に与り、この方がただ中においでくださる交わりを形作っていきたいからです。そして、共に救われている喜びに満ちあふれさせていただきたいからです。
 ただ今から聖餐に与ります。これは、主イエスが私共のただ中にいてくださる確かなしるしです。この聖餐に共に与った者として、私共は互いに愛し合い、互いに仕え合い、互いに支え合って、共に御国への道を歩んで行くのです。お祈りいたします。 

[2013年4月7日]

メッセージ へもどる。