富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「復活の主イエスの御命令」
詩編 103編1〜5節
マタイによる福音書 28章1〜20節

小堀 康彦牧師

1.わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる
 今朝、私共は主イエスの御復活を喜び祝い、礼拝を捧げております。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活された。この出来事は、二千年程前に遠い外国で起きたことでありますけれど、それだけのことならば、「へえ、そんな不思議なことがあったんですか。」で終わりでしょう。現代の日本に生きる私共には、どうでもよいことになってしまうでしょう。しかし、私共は今朝このように主イエスの御復活を喜び祝っています。それは、この出来事が今を生きる私共にとって、どうでもよいどころか、この出来事があったが故に今の私はある。私の生きる希望、生きる目的、生きる意味はすべてこの出来事によっている。そう言って間違いない出来事だからです。
 その理由の第一は、復活された主イエス御自身がお語りになっています。今朝与えられております御言葉の最後です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」復活された主イエスは、そう弟子たちにお語りになりました。復活された主イエスは、その御姿を40日にわたって弟子たちに現されました。その後天に昇られ、今も全能の父なる神様の右におられます。ですから、私共はこの肉眼をもって共におられる主イエスを見ることは出来ません。しかし、主イエスは聖霊として、私共と共にいてくださいます。私共がうれしい時も悲しい時も、元気な時もつらい時も、私共と共にいてくださいます。どんな時でも私共と共にいてくださる。イエス様は、十字架の上で死んでそれっきりになったのではないのです。復活され、そして天に昇られ、そこから聖霊として私共と共にいてくださり続けている。私共に御言葉をもって語りかけ、歩むべき道を示し、私共を御国へと導き続けてくださっている。この事実の故に、私共は主イエスの御復活を喜び祝うのです。主イエスは今も生きて働き、私共一人一人と共にいてくださっている。私共は、この生きて働いてくださる主イエスを愛し、この方に従い、生きている。だから、この方の御復活を喜び祝っているのです。
 今朝、ここに集えない愛する兄弟姉妹が何人もおられます。4月中にはそれらの方々を訪ねて、訪問聖餐をいたします。今回は7名の方を訪ねる予定です。毎年増えています。主の日の礼拝に来られないのですから、皆、おつらい状況の中におられる方々です。病気の方もいます。施設に入っておられる方もいます。自分の力だけでは歩けない方もおります。その方々を訪ね、共に聖餐に与る。それは、まさに復活の主が今ここに、あなたと共におられる、この恵みの事実に与るためです。中には、聖餐が何なのか分からないという方もおられるかもしれません。たとえそうであっても、復活の主イエスがその方と共にいてくださり、その方を御手の中に捉え、支え、生かし、御国へと伴ってくださることに変わりはありません。目には見えない主イエスが、聖霊としてそこにおられ、パンと杯という目に見えるあり方で、御自身を現してくださるのです。そして、パンと杯とをもって私共の中に入り、私共と一つになってくださるのです。朽ちていく体に永遠の命を注いでくださる、この救いの事実に与るのです。

2.何故、復活なのか
 それにしても、何故、復活なのでしょうか。神の独り子であるイエス様が十字架にお架かりになって、罪人である私のために、私に代わって裁きを受けられた。考えられない程の父なる神様の愛です。神様は、私共が滅んでいくことを放っておくことがお出来にならなかったのです。天と地を造られた大いなる神様がどうしてそこまでしてくださるのか。本当のところは分かりません。分かりようがない。「神様の愛の故に」としか言いようがないのです。しかし、その私共を救わんとする大いなる愛の業は、どうして十字架で終わらなかったのでしょうか。復活へと続いたのでしょうか。
 それは第一に、十字架で終わってしまったのなら、この神様の愛は決して私共に伝わらないからです。十字架の死で終わってしまえば、主イエスがどんなに素晴らしいことを語り、多くの奇跡を為した方であったとしても、結局は死んでお終いということになるでしょう。そうであれば、墓の中で朽ちている多くの偉大な人の一人になるだけです。主イエスのお語りになったことは「教え」としては残るかもしれませんが、それだけのことです。けれども、神様が私共に与えようとしたもの、主イエスによって私共に与えられたものは、教えや思想、生き方といったものではないのです。そんなつまらないものではないのです。「救い」そのもの、「命」そのものなのです。ですから、十字架の上で死んで終わりにするわけにはいかなかった。十字架によって与えられる救いそのもの、命そのものをはっきりと示さなければならなかったのです。それが復活です。
 第二に、主イエスの十字架が罪の赦しを与えるものであるとするならば、死は罪によってもたらされたものなのですから、完全に罪が赦されたならば、死もまた克服されなければならないからです。死が打ち破られることによって、完全な罪の赦しが証しされることになるからです。完全に罪が赦されたけれど死は残る。そんなことはあり得ないのです。罪の値が死なのです。だが、私共は死を迎えるではないか。その通りです。死は、多くの罪を犯した私共が受けなければならない報いですから仕方がありません。しかし、それで終わらないのです。罪赦された者の死は、死では終わらない。主イエスが死を打ち破り復活されたように、復活するのです。主イエスはその初穂となられたのです。罪赦された者がその後に続く、その最初の完全な救いのモデルとなられたのです。私共が救われるということはどういうことなのか、それをはっきりと示してくださったのです。それが復活です。
 思い違いをしてはなりません。イエス様は神の子だから復活された。そうではないのです。神の子だから、罪無きお方だから復活されたということならば、私共とは何の関係もなくなってしまいます。そうではなくて、神の子が私共と同じ人間となって死なれたのです。私共と同じ死を味わわれたのです。こう言っても良い。永遠から永遠に生きるはずの神の子であるイエス様は、死ぬというところまで私共と同じになられたのです。聖書は、主イエスの復活を正確に受け身形で記しています。28章6節「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と訳してありますが、これは「復活させられたのだ」と訳されるべき言葉です。主イエスは神の子だから、全く罪無きお方だから、自分の力で復活した。そういうことではないのです。主イエスはそのような力をお持ちだった。しかし、その力を捨てて、十字架の上で死なれたのです。その主イエスを父なる神様が復活させられたのです。それは、本来死で終わるはずの私共の初穂とするためです。私共は死んで終わる存在でしかないのです。死を打ち破る力などないのです。その私共が死を超えて生きるとすれば、全能の神様がその御力によって死から引き上げてくださらなければならないのです。神様は主イエスを復活させることによって、あなたがたに与えられる救いとは、命とは、こういうものなのだと示してくださったのです。
 第三に、人間の限界が神様の限界ではないことをはっきり示すためです。死んだら終わり。誰もがそう思っています。死は、人間がどうしても超えることの出来ない限界です。正しい人も良い人も悪い人も例外なく死ぬのです。誰もが超えることの出来ない限界、それが死です。しかし、主イエスを復活させることによって、神様は私共の限界を打ち破ってくださることを示されたのです。私共は、もうだめだとしばしば思います。体力の限界、能力の限界、いろいろあります。確かに、私共には限界があります。しかし、神様の御手と共にあるならば、その限界は破られるのです。私共が破るのではありません。神様が破られるのです。ですから、どんな状況の中でも、たとえ死んでも、私共は終わりではないということなのです。主イエスが復活されたということは、神様が死という決定的な限界をも打ち破ってくださったということなのです。私共には限界がある。しかし、神様にはない。そしてその神様の御手の中で生かされるのが、キリストと一つにされたキリスト者の命というものなのです。私共は死んでも終わらないのです。

3.信ずべきことである復活
 さて、主イエスが復活された日の朝、マグダラのマリアともう一人のマリアが、主イエスの墓を見に行きました。彼女たちは、主イエスは十字架の上で死んで、もうすべては終わったと思っていた。誰もがそう思います。しかし、終わっていなかった。天使は彼女たちにこう告げたのです。5〜6節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」そう天使に促されて、彼女たちは墓穴を見ました。しかし、そこにあるべきはずの主イエスの遺体はなかった。天使はさらに告げます。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」彼女たちは、この天使が告げたことを弟子たちに知らせるために、大急ぎで走りました。彼女たちは、何が起きたのか、さっぱり分からなかったと思います。天使には会う。主イエスの遺体はない。主イエスは復活した、ガリラヤで会われるという。どれもこれも彼女たちの常識を越えています。何が起きたのか、彼女たちはよく分からなかったと思います。
 復活という出来事はどこまでも、私共の頭の中に収まり切るものではありません。分からない、納得出来ない、そういう思いが残るものなのです。先週の受難週祈祷会において、ある方がこんな証しをされました。その方の夫人とお嬢さんは既にキリスト者になっていたのですが、会社を定年になり自分も教会に通うようになった方です。しかし、礼拝に通うようになっても、「この科学の発達した時代にどうしてそんなことが…」と納得出来ないでいると、お嬢さんに「信じるか、信じないかよ。」と一喝された。その一言でこだわりがなくなって、信じればいいのかと納得した、という証しをされました。復活は、人が納得出来ないことの最たるものだろうと思います。主イエスが肉体を持って復活されたということ、幽霊のようなあり方ではなかったということは、この納得出来ないというところで、とても大切なのだと思っています。信仰は、自分の頭の中で納得することではないのです。それでは人は変われません。聖書の信仰は、頭の中で納得出来ないことを、「神様、あなたのなさることですから。」と信じ、受け入れることが求められるのです。信仰とは、自分を信じる、頼るというところに生きる者が、神様を信じ、頼るというところに生きる者へと変化することだからです。

4.復活の主イエスの伝道命令
 マグダラのマリアたちは、天使に告げられたことを知らせるために、何が何だか分からないままに弟子たちの所に向かって走りました。そして、その途中で復活の主イエスと出会うのです。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」復活の主イエスを拝む、初めてのキリスト教の礼拝がこの時であったと言って良いでしょう。復活という知らせを受けてもよく分からなかった彼女たちに、主イエスは、その御姿を現すことによって復活とはどういうことか教えてくださり、信じる者にしてくださいました。主イエスの復活という出来事は、この主イエスとの出会いということがなければ、決して信じることが出来ないものなのだと思います。それほどまでに私共の頭の中に収まることがない、私共の常識に反したことだからです。しかし、イエス様は、私共が信じない者ではなく、信じる者になることを望んでおられます。そしてそのために、イエス様は私共が信じることが出来るように、私共と出会ってくださるのです。そのことによって信じる者とさせていただいた私共です。しかし、この主イエスとの出会いは、出会いというものがいつも神様の御手の中にあることであるように、この主イエスとの出会いもまた、神様の御手の中にあります。私共が作り出すことは出来ません。ただ言えることは、この時の婦人たちのように、復活の主イエスとの出会いは、主イエスの御復活ということを聞いた後で与えられるということです。主イエスの復活を聞いたことのない人には、与えられようがないのです。
 私は、伝道とは、この主イエスを知らせることに尽きると思っています。聞いた人が受け入れるかどうか、それは分かりませんし、そもそもそこまでの責任は私共にはないのだと思うのです。何故なら、この人が主イエスと出会わないことには、この人が本当に主イエスを信じて生まれ変わるということが起きようがないからです。そして、それをされるのは神様です。私共はただ、この人が主イエスと出会い、信じ、救われ、まことの命、永遠の命に預かってほしいと願い、祈り、主イエスというお方について知らせる。それだけなのです。
 そして、このことこそ、復活の主イエスが弟子たちにお命じになったことなのです。復活の主イエスは弟子たちにこう命じられました。19節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」この主イエスの御命令を受けて、この御命令に従って、キリストの教会は二千年の間生きてきましたし、今も生きているのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と命じられ、主イエスの弟子たちは二千年かけて世界中に出て行きました。そして、この日本の富山の地にもこの知らせが届いたのです。しかし、この富山の地には、まだこの知らせを聞いたことがないという人がたくさんたくさんいるのです。ですから、私共はその人たちにこの知らせを伝えていく使命があるのです。これは、すべてのキリスト者に与えられている使命なのです。

5.神様の救いの御業は、今も前進し続けている
 世界のキリストの教会はこの使命に今も生き、神様の救いの御業は今も前進しています。今日、私共はこの礼拝の中で洗礼式を行うことは出来ませんでした。しかし、週報にありますように、私共と関わりのある方が、一人は信仰告白をし、一人は洗礼を受けられます。私共は自分の教会で為されている神様の御業については分かりますけれど、神様の救いの御業が全世界で展開されているということを、しばしば忘れてしまいます。その結果、神様の御業をとても小さなものと考えがちなのです。しかし、今、実に壮大な神様の救いの御業が展開しています。週報に記されている二人の方の信仰告白と洗礼は、その御業の一端を私共に見せてくれるものです。多分、今日、数百万人の人が洗礼を受けたり、信仰告白をしていると思います。計算するとそうなるのです。目がくらむような数でしょう。神様の御業を小さく見積もってはなりません。神様は死さえも打ち破り、私共をまことの命へと導かれる方なのです。この方の御業にお仕えして、それぞれ遣わされている場で用いられてまいりましょう。
 ただ今から聖餐に与ります。この聖餐において、復活の主イエスは私共の上に臨んでくださり、私共と共にいてくださり、私共の歩む一切の道を守り、支え、導いてくださいます。このことをしっかり受け止めて、この一週も歩んでまいりましょう。

[2013年3月31日]

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