富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの十字架」
詩編 22編2〜22節
マタイによる福音書 27章32〜56節

小堀 康彦牧師

1.受難週を迎えて
 今日から受難週に入ります。週報に記してありますように、火曜日から金曜日まで信徒の方々の奨励を聞き、共に祈りを合わせる受難週祈祷会が守られます。皆さん、是非出席していただきたいと思います。
 教会の暦で言いますと、今日は棕櫚の主日(しゅろのしゅじつ)と呼ばれ、イエス様が人々に「ホサナ」「ホサナ」と叫ばれる中、ろばの子に乗ってエルサレムに入城した日とされています。この日から主イエスはエルサレムの神殿で連日教えを語られました。そして、木曜日の夜に最後の晩餐を弟子たちと共に守り、それからゲツセマネの園で祈り、そこで捕らえられ、一晩中、大祭司のもとで裁きを受けられました。夜が明けて金曜日の朝、総督ピラトのもとで裁かれて十字架につけられることとなり、午前9時にゴルゴタの丘で十字架につけられ、午後の3時に息を引き取られました。そして、日没までの短い時間でアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。これが、聖書が記す受難週の流れです。今、ざっと流れを話しましたけれど、そこで正確に何曜日にこれをしたということが記されておりますのは、木曜日の夜から金曜日の日没までの間のことです。これは、当時のユダヤの一日の数え方で言えば、木曜日の日没から金曜日が始まるのですから、聖書は、主イエスが十字架にお架かりになった金曜日一日のことを克明に記していて、それ以外のことについてはあまり日付を意識していないと言って良いかと思います。
 主イエスが金曜日に十字架の上で死なれた。殺された。そして日曜日に復活された。このことだけが、明確に日付を持っていなければならない出来事だったのです。何故なら、この出来事の故に、弟子たちは日曜日に主イエスを礼拝する群れとなったからです。この出来事の故に、私共は神の子・神の僕として新しい命に生きる者となったからです。
 二千年も前の遠い異国での出来事が、どうして私共の人生とそれほどまでに深く関わるのか。不思議なことです。この不思議さこそ、主イエス・キリストとは誰であったのか、主イエス・キリストの十字架とは何であったのか、このことをはっきり示しているのです。主イエス・キリストというお方がただの人間であったのなら、どんなに素晴らしい教えを説かれたとしても、どんな立派な愛の業を為されたとしても、どんな奇跡を行われたとしても、現代の日本に生きる私共とはほとんど関係がないのではないでしょうか。
 しかし、主イエス・キリストというお方はただの人間ではなかった。天地を造られた唯一の神の独り子であり、その十字架の死はすべての人間の罪を担う、すべての人間が本来受けなければならない裁きの身代わりとしての死でありました。そして、その復活は、主イエス・キリストというお方が死によっても滅ぼされることのない方であることを示すと共に、主イエスの十字架によって自分の罪の裁きを受けていただいた者に与えられる永遠の命を示していたのです。ですから、この主イエスの十字架と復活の出来事と無関係な者など一人もおらず、すべての人がこの主イエス・キリストというお方とどのような関係にあるのかを問われているのです。そして、この問いに対して「我が主よ、我が神よ。」と答える者は、天地を造られた唯一の神様に対して「父よ」と呼んで祈ることが出来る者とされたのです。主イエス・キリストが聖霊として私共と共にいてくださり、すべての道を守り、支え、導いてくださっている。このことを知る者とされたのです。主イエスというお方が単に二千年前に遠い異国に生きておられた方なのではなくて、今、私共と共におられる方であることを知らされたのです。だから私共は、主イエスが復活された日曜日が巡ってくるたびにここに集い、礼拝を守っているのでしょう。

2.人々に侮辱され、罵られた主イエス
 今朝与えられております御言葉は、主イエスが十字架にお架かりになった場面が記されています。この少し前の所で、主イエスは十字架につけられて殺されることが決められました。その時から、あからさまに主イエスを侮辱し、嘲るということが行われました。まず兵士によって行われました。十字架につけられてからは、そこを通りかかった人、つまり一般の人が罵りました。そして、祭司長、律法学者、長老といった宗教指導者が侮辱しました。さらに、主イエスと一緒に十字架につけられていた人さえも主イエスを罵ったのです。
 ここで様々なことを思わされます。一つは人間の残酷さです。弱い者いじめと言いますか、反抗出来ない者をみんなで寄ってたかってなぶりものにする。もちろんこのような面は、普段は顔を出すことはありません。しかし、私共の中にはこのような闇の部分があるのでしょう。主イエスの十字架は、この私共自身も気付かない、目を向けたくない、そういう心の闇、罪を露わにされるのだと思います。ここで主イエスをなぶりものにしている人は、私共と無関係ではありません。ここには、主イエス・キリストを神の独り子として信じる前の私共の姿があるのでしょう。
 第二に、彼らが主イエスを罵るときの言葉ですが、「自分を救ってみろ。」「神様に救ってもらえ。」という言葉に表れておりますように、主イエスというお方に現れたまことの神の姿と、人々が考える神様の姿とのギャップです。人は、他人を救うことが出来るのなら自分も救えるはずだ、神の子というなら神様が救ってくれるはずだと考えます。しかし、ここで人が考える救いとは、十字架の苦しみから逃れることです。これは何も十字架に限りません。病気であれ、人間関係であれ、経済的な困窮であれ、とにかく、苦しく痛い状態から逃れること、それを救いだと言うのです。当時のユダヤの人々が考えていた神の子、メシアに求めていた救いも、そういうことだったのです。ローマの支配からの解放であり、経済的困窮からの解放でした。今でもそうでしょう。人は神様に何を求めて信仰するのか。多くの宗教は、様々な苦しみからの解放を約束して人を集めているのです。そして人々はそれをしてくれないような神様などいらないのです。しかし、主イエス・キリストというお方は、それを約束し、与えるというお方ではなかった。だから十字架に架けられたのです。
 主イエスが私共に与えようとされたのは、目に見える幸いを与えてくれない神ならいらないというような、神様に対してまことに身勝手な、神様を自分の幸いの道具ぐらいにしか思わない人間の傲慢を打ち砕き、天地を造り自分自身をも造ってくださった神様との間に和解を与え、神様との親しい交わり、神様と共に生きる新しい命でありました。そしてそれは、自分でも気付かない、私共の心の底にある残酷さといった闇との決別をも意味しているのです。
 私共は十字架を見上げて罵ることはしません。それどころか、私共は主イエスの十字架の下に額ずきます。この変化です。十字架をののしり嘲る者から、十字架をあがめほめたたえる者への変化。これが主イエス・キリストの救いに与り、新しい者とされた確かなしるしなのです。この変化は決定的です。小さな変化ではありません。人間の存在、その根底からの変化であり、それは文字通り生まれ変わったと言い得るほどの変化なのです。この変化を与えてくださったのが、主イエス・キリストの十字架なのです。

3.詩編22編の預言の通りに
 主イエスは裁かれ十字架に架けられるまで、ほとんど何も語りません。屠り場に引かれていく羊のように黙っておられます。主イエスは何故、反論なさらなかったのでしょうか。それとも主イエスの反論は、周りの人々の叫びに打ち消されていたのでしょうか。そうではないでしょう。ではどうして主イエスは、無罪である自分を、しかも神の子である自分を、十字架の上で殺すという恐ろしい罪を告発されなかったのでしょうか。
 答えは難しくないでしょう。主イエスは、御自身が十字架にお架かりになることが父なる神様の御旨であるということを、はっきりと知っておられたからです。それは、ゲツセマネの園の祈りにおいて、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られたことからも明らかでしょう。
 さらに、私はこう思うのです。先ほど旧約聖書の詩編22編をお読みいたしましたが、主イエスは十字架への歩みをしていく中で、このことは詩編22編で告げられていたとおりだ、これもそうだ、という風に、一つ一つを神様が告げられたとおりであることを確認されたのではないか。そう思うのです。
 具体的に見ていきましょう。詩編22編8〜9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」これは、主イエスの十字架を見ての人々の反応そのものです。22編16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」これは、十字架に架けられた時の、主イエス御自身の状態そのものでしょう。22編18節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼はさらしものにして眺め」これは、主イエスが十字架に架けられた時の姿そのものでしょう。22編19節「わたしの着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く。」これは、まさに主イエスの十字架の下で兵士たちによって行われたことでした。
 主イエスは十字架に架けられながら、事態が詩編22編の言葉そのままに進んでいく中で、自分が十字架に架けられることが間違いなく神様の御心なのだと受け止めておられたに違いないと思います。
 だから、息を引き取られる直前に、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と、詩編22編1節の言葉を口にされたのです。この言葉が主イエスの口から出たのは突然ではないのです。それまでの歩みが、すべて詩編22編に記されているとおりだったのです。

4.わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか
 しかし、何故主イエスはこの言葉を口にされたのでしょうか。この言葉は、聖書の中で最も謎に包まれた言葉と言われるものです。文字通りに読めば、主イエスはこの時、神様に捨てられたと思ったからこう口にしたということでしょう。とするならば、この時主イエスと父なる神様との関係はどうなってしまったのでしょうか。天地が造られる前から一つであられた父なる神と子なる神との関係は、ここで絶たれてしまったのでしょうか。
 私の、この謎に満ちた主イエスの言葉の理解は、洗礼を受けた頃、神学校に入った頃、牧師になった頃、牧師になって十年経った頃と、どんどん変わってきました。今、この御言葉に対しての私の理解の仕方の変化を申し上げるつもりはありません。しかし、注解書などを読んでおりますと、いくつもの理解が示されておりますが、そのほとんどが、ああこれは洗礼を受けたばかりの頃の私の理解の仕方と同じ、これは神学校時代の私と同じという風に、だいたい自分の歩みと重ねることが出来ます。それはどれも間違いではないのです。もっと言えば、正解は天国に行ってイエス様に聞きましょうということなのだと思います。では、今はどう受けとめているのか。これからも変わっていくかもしれませんけれど、私は今はこう考えています。
 主イエスは十字架にお架かりになりながら、詩編22編を思い起こしておられたに違いありません。そして、自分の十字架の死が、本当に御心であることを確信しておられました。その上で、自分は今本当に神様に捨てられるということを受け止めておられたのだと思います。主イエスが神様に捨てられるような悪いことなど何もしていないのは当たり前です。しかし、今自分が神様に捨てられるということを、神様の御心として受け止められたのだと思います。そして、私共が考えることが出来ない程の、深い絶望を味わわれていたに違いないのです。何故なら、主イエスは天地を造られる前から父なる神様と一つであられたからです。ずっとずっと一つであられた御子が、父なる神様に捨てられる。何という深い嘆きでありましょう。
 そして、主イエスはその嘆きを味わいつつ、何故それが父なる神様の御心であるか、何故それが必要であるかも知っておられた。それは、父なる神様が、敵対する者、自分の利益のためにしか神様を拝まず利用しようとしない者をも愛し、赦し、御自身の子として迎えようとされたからです。主イエスは、今自分を十字架に架け、自分をののしっている、あざけり笑っている、この人たちの身代わりとして神に裁かれ、神に捨てられなければならないことを知っておられた。その上で発せられたのが、この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という十字架の言葉だったのです。神様に敵対し、神の子さえも十字架に架けるような者たちへの裁きですから、それは徹底的に神に捨てられなければならないのです。ですから、主イエスのこの時の「わたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、確実に自分が神様に見捨てられることを見ている言葉です。罪の故に死んで陰府に下った者たちの方へ行くということを見ている言葉なのです。
 にも関わらず、「わが神、わが神」なのです。自分を見捨てる神に向かって、なおも「わが神、わが神」と呼ぶのです、ここにおいて、主イエスと父なる神様との絆は揺らいでいないのです。もっと言えば、全能の父なる神様から見れば虫けらに過ぎないであろう者のために、父なる神様が独り子である自分を捨てる、そのことを主イエスは良しとされて受け入れたということなのです。私共のために、私共と共に、私共に代わって、祈られた、叫ばれたということなのです。
 このような父なる神と子なる神の交わりの深さ、愛、絶対的信頼を私共は知りようがない。だから、この主イエスの言葉はどこまでも謎であり続けるのだと思います。しかし、このことは分かります。この父なる神と子なるキリストの永遠の愛の交わりの故に主イエスの十字架という出来事があり、この十字架の故に私共が救われたということ。そして、この交わりの中に私共も招かれたということです。主イエスが「わが神よ」と祈ったように、私共もまた「わが神よ」と祈ることが出来る者とされているということです。ありがたいことです。
 主イエスの十字架を、私共はおかわいそうに、おいたわしや、という思いで見ることは出来ません。それは傍観者の見方です。私共は、この方の苦しみが私共のために、私共に代わってのものであることを知らされた。だから、ただただ申し訳ない、ごめんなさい、赦してください、そういうふうに受け取るしか、しようがないのです。
 この受難週の日々、主イエスの十字架をしっかり見上げて、これにお応えする歩みを為していきたいとの思いを新たにされて、御国への歩みを共に歩んで参りましょう。

[2013年3月24日]

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