富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスを信じるために」
詩編 119編129〜136節
ヨハネによる福音書 20章30〜31節

小堀 康彦牧師

1.不思議な聖書
 聖書とはまことに不思議な書であります。分厚いですし、決して読みやすい本ではありません。しかし、実に多くの人に読まれ続けています。人類の歴史の中で最も多くの人に読まれた本、読まれ続けている本であることは間違いありません。内容にしても、天地創造の神話のような話から始まって、イスラエルの歴史、預言、文学、そして福音書や手紙と、実に多岐にわたっています。また、書かれた時代だけをとってみても、1000年以上にわたって書かれ続けたものです。ある時代のある場所で特定の人によって記されたというものではありません。実に長い間かかって多くの人々の手によって記され、そして読まれてきた書です。日本で最も古い小説は源氏物語ですが、これが書かれたのは1000年程前です。聖書は、一番新しい部分である新約聖書でも1900年以上前のものです。旧約の部分は、最初に編纂された時で既に3000年前と言われています。編纂されたのが3000年前ですから、それより前に書かれていたことになります。その後何度も編纂を繰り返し、現在の形になったのが今から1800年ほど前ではないかと思います。1000年以上にわたって書かれ続けたのです。日本に当てはめてみればそれは、源氏物語が書かれて以来いままでずっと書き続けられてきたということになります。しかも、源氏物語が書かれるよりも1000年近く前に出来たものです。こんなに古い本でありながら、多くの人にずっと読まれ続けている。こんな本は他にはありません。源氏物語が現代語に翻訳されたと話題になりますけれど、聖書などは世界中の何百という言語に翻訳され、しかも数十年ごとに翻訳し直され続けています。
 この聖書の翻訳ということに関して言えば、ウィクリフ宣教団という団体があります。この人たちは、少数民族、その言語を話している人が数万人とか数千人しかいないという民族の村に入って、何十年も一緒に生活し、彼らの言葉を覚え、文字を作り、辞書を作る。その人はそれで終わり。次に来た人が、その辞書を使って聖書を翻訳する。そういうことをずっとやっている人たちがいるのです。日本でも、明治時代にキリスト教が入ってきた時に宣教師たちがまず行ったことは、聖書を翻訳することでした。
 あるいは、聖書を翻訳するためには、その原本がなければなりません。しかし聖書は、最も古いものでも3世紀頃の写本です。したがって、これよりも古いと思われるものが断片として発掘されますと、本来はどういうものだったのかと研究がされます。そしてその度に、現在考えられる聖書の原本に一番近いのはこれでしょう、と発表される。それを元に翻訳する。こういうことに一生を捧げている人が、何百人、何千人といるのです。
 私共が普通に手にしております聖書は、このように実に多くの人の労苦とエネルギーが注がれて、今ここにあるわけです。どうして、聖書にこれほどのエネルギー、労力が注がれるのでしょうか。それは、聖書に人を生かし人を救う力があるからです。聖書の翻訳や原本確定に一生をささげる人は、その生き方を少しも後悔などしません。皆、博士と言われる知的能力の優れた人たちです。その自分の一生を聖書に捧げることを喜び、誇りとしている。それは、聖書に人を生かし人を救う力があることを知っているからです。それは、例えば医療の基礎研究をしている人たちと同じ思いでしょう。iPS細胞の研究が昨年から大変話題になっておりますが、研究を行っている人は、この研究が人々を生かし助けることになると信じ、自分の能力と生活とをそれに捧げているのでしょう。それと同じだと思います。

2.聖書には力がある
 聖書には力があるのです。そのことを詩編の詩人は「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩編119編130節)と歌いました。また、「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩編119編105節)と歌いました。
 聖書の言葉が光を放つのです。その光とは天上からの光です。神様からの光です。この光に照らされる時、私共は自分が何者であり、何をしなければならない者であるかを知らされます。この光に照らされなければ、私共は自分が何者であるかも知らないのです。ですから、何を為すために命を与えられているかも知りません。この御言葉の光は、神様がおられること、神様がすべてを支配しておられること、神様によって私共が作られ生かされていることを教えます。そして、神様が何を私共に求めておられるかを教えます。そして、それは少しも観念的でなく、具体的です。
 私が会社を辞めて、献身して牧師になるために神学校に行くことを決めた時に与えられた御言葉は、エレミヤ書1章5〜8節でした。「『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。」私の中には恐れがありました。牧師としての召命を受けたのはそれより7年前でしたが、自信がありませんでした。自分は洗礼を受けたばかりだし、クリスチャン・ホームで育ったわけでもなく、聖書もキリスト教も良く知らない。与えられた牧師への召命は、きっと勘違いだ。そう自分に言い聞かせていました。しかし、預言者エレミヤに与えられた御言葉が、はっきりと自分に向けて語られている御言葉として、光を放ったのです。「若者にすぎないと言ってはならない。恐れるな。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを母の胎内に造る前から選んでいた。」この御言葉が私に献身の一歩を踏み出させました。
 聖書は分厚いし、読むだけでも大変です。とてもその全体を知り尽くすことは出来ません。ですから、「聖書が分かったら信仰を持ちます。」ということですと、間違いなく、一生信仰を持つことは出来ません。牧師である私も分からないところだらけです。聖書の分からないところは、牧師に聞けばすぐに答えてくれるなどと思わないでください。問われれば、牧師ですから必ず答えます。しかし、何を知りたい故の問いなのか、そのことが分かりませんと答えようがありませんし、場合によっては、「少し待ってください。調べてみます。」ということだってあるのです。すべてを分かっている訳ではないのですから。

3.聖書が分かる
 聖書が分かる。これにもいろいろなレベルと言いますか、いろいろな側面があるかと思います。一般書店によく並んでいる聖書に関する本は大抵、教養としての聖書知識を扱ったものです。このような知識は無駄ではありませんが、私共が聖書が分かるという場合の分かり方とは方向が違います。
 私共が、聖書が分かると言った場合、それはその分かったことによって自分の人生が変わってしまう、生きる目的、意味、方向が全く変わってしまう、そういう分かり方において「分かる」ということでしょう。その場合、必ずしも聖書の全体が分かる必要はないのです。極端に言えば、一句で良いのです。この分厚い聖書の中の一句、その一つの言葉を自分に語られた神様からの言葉として聞くことが出来れば、それで良いのです。私共の信仰はその一句から始まっていきます。
 聖書というのはまことに不思議な書で、読むたびに心に響く言葉が違うのです。私が洗礼を受けたばかりの頃、私の聖書は主イエスが厳しくファリサイ派の人々を糾弾する言葉にばかり線が引かれておりました。自らの罪を示されていたのです。しかし、しばらくしますと、主イエスが語られる慰めの言葉にばかり線が引かれました。そして次には、書簡の教理が語られている所にばかり線が引かれました。さらに大分経ってからですが、旧約の言葉が主イエスの救いを指し示している、そういう所に線が引かれるようになりました。逆に言いますと、それまでは旧約を読んでもちっともピンと来ない、よく分からないということだったのです。私が洗礼を受けた時と聖書は変わっていないのですけれど、私の方が変わっていく。そして、少しずつ少しずつ分かる所を増やしていっていただいたということなのではないかと思います。

4.主イエスを信じるために
 今朝与えられております御言葉は、大変短いですがとても大切な所です。多くの人は、ここがヨハネによる福音書の結びの部分だと言います。ある人は、ここはヨハネによる福音書の「あとがき」だと言います。そうかもしれません。「あとがき」というのは大抵、私はこういう思いでこれを書いたとか、書いた経緯、動機、そんなことが記されるものです。ヨハネによる福音書の著者は、ここまで書いてきてもう終えるという所で、自分は何のためにこれを書いたのかということを記したのでしょう。しかし、「あとがき」だとすれば、21章が後に続いているのはおかしいではないかということになります。しかし、21章は後で加えられたものであろうというのが大方の意見です。私もそうだろうと思います。
 31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とあります。ここに、ヨハネによる福音書が書かれた意図、目的というものがはっきり示されております。
 それはまず、この福音書を読む人が主イエスを神の子、救い主であると信じるためです。別の言い方をしますと、この福音書を読む人が主イエスを神の子、救い主と信じるのに役立たないと思われることは記さなかったということでもあろうかと思います。ですから、他の福音書には記されていることが、ヨハネによる福音書には記されていないということが少なくないのです。こう言っても良いと思います。ヨハネによる福音書が書かれたのは四つの福音書の中で一番後ですから、これを書いた人は他の福音書が記されていることを知っているわけです。知った上でこれを書いている。ということは、同じものを書くのではなくて、もっとはっきり「主イエスが神の子、救い主である」ということを示す、そのために記したということなのです。少し乱暴な言い方をすれば、他の福音書に書いてあることはそちらを読んでください、ということではないかと思います。
 それは30節の言葉にも表れています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。」主イエスがなさった「しるし」、これは主イエスがなさった奇跡と考えて良いと思いますけれど、それは数多く為されたけれども、ここにそのすべてを書いているわけではないと言うのです。確かに、他の福音書には記されている「嵐を静める主イエス」といった記事はありません。そのような奇跡をたくさん書けば、主イエスが神の子、救い主であるということが分かるのか。ヨハネはそうは考えなかったのです。ヨハネによる福音書にも、多くはありませんが奇跡は記されています。それで十分だと考えたのでしょう。奇跡は数の多さではなく、それによって何が示されているのか、そのことを知ることの方が大切だと理解したからでしょう。
 ヨハネによる福音書の中で他の福音書と際立っている奇跡は、ラザロの復活の出来事です。11章すべてを使って記しています。これほど長い奇跡の記事は他にはありません。死人を復活させることの出来る方、まことの命の君としての主イエス。これこそヨハネによる福音書が記したかった主イエスの姿なのです。死を打ち破ることの出来る方は誰か。神様しかいません。そして、この死を打ち破って私共に永遠の命の救いを与えてくださる方こそ、主イエスというお方なのです。このことを信じるようにと願ってこの福音書を著した、と著者は語るのです。
 私は、この思いが良く分かります。私がこのヨハネによる福音書を説教し続ける中で願ってきたことも、これと同じだからです。聖書が語られる、聖書が読まれるという時、この一点が見失われてしまうならば、「聖書読みの聖書知らず」ということになってしまうのです。的を外してしまうのです。私共が「聖書が分からない」と言う場合、この一点から聖書を読んでいるかと自問する必要があるでしょう。主イエスが誰であるのか、そのことが分かるために読んでいるかということです。主イエスが神の子であることが分かれば、これを信じざるを得ないでしょう。
 旧約聖書には主イエスは出て来ません。この場合はどうなのか。結論は同じだと思います。主イエスを人間として世に送られた父なる神様の愛が、主イエス・キリストによって示された神様の同じ愛が、そこには示されているからです。主イエス御自身、5章39節で「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」と言われたとおりです。

5.永遠の命を得るために
 主イエスを神の子、救い主として信じるということは、命を受けるということです。永遠の命を受けるということです。「主イエスの名によって」とありますが、これは英語では「in his name」です。聖書において、「名」というのは単なる記号ではありません。その名を持つ方自身を指しています。「主の祈り」の冒頭で、「願わくは御名をあがめさせ給え」という場合も、御名とは神様の名ですから、「神様御自身があがめられますように」という意味でしょう。つまり、信じるということは、主イエスというお方によって命を得る、永遠の命を得るということなのです。これが救われるということです。「みんなこの救いに与って欲しい。だからこの福音書を記したのだ。」と著者は告げているのです。どうでしょう。ここに熱を、熱さを感じないでしょうか。この熱こそ、この福音書を記した人を突き動かしているのですし、聖書はどこを開いてもこの熱があるのです。聖書を読む者はこの熱を与えられますし、聖書を語る者はこの熱を帯びるのです。
 この熱の正体。それは神様です。神様の熱を帯びた愛に突き動かされて聖書は記され、この神様の愛の熱を聖書は伝え続けてきたのです。この神様の愛の熱をもっとも良く表現した一句が、ヨハネによる福音書の中でもっとも有名な御言葉、3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神様が、私共を救わんがために愛する独り子を与えてくださった。御子を私共のために、私共に代わって十字架に架けられ、私共の罪の裁きを一身に受けさせられた。この度はずれた神様の愛、熱い熱い愛。この神様の愛に突き動かされて、ヨハネによる福音書は記されたのです。ですから、聖書が分かるということは、この神様の熱い愛が分かるということなのです。そして、この愛に触れた者は、主イエスを神の子と信じるしかないのです。そして、その人は既に永遠の命に与る者とされているのです。聖書の中のたった一つの言葉で良い。「これは本当のことだ。」「この言葉は、わたしに告げられた神様の言葉だ。」と聖書の言葉が分かる人は、既に主イエスを信じている者なのです。主イエスを愛する者なのです。そして、その人は既に救われているのです。
 主イエスを信じる私共に、永遠の命が備えられている。何とありがたいことかと思います。本当にありがたい。
 聖書は難しい。でも分かる所がある。それで良いのです。聖霊なる神様が働いてくださって、少しずつ分からせてくださいます。聖書は教養の書ではありません。命の書なのです。

[2013年2月24日]

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