1.マリアは墓の外に立って泣いていた
「マリアは墓の外に立って泣いていた。」そう聖書は告げます。主イエスが十字架の上で死なれたのが金曜日、そして安息日である土曜日を挟んで、日曜日の朝のことです。
マリアは主イエスの墓に、朝早く、まだ暗いうちに行きました。すると、墓の入り口をふさいでいたはずの大きな石が取りのけてあり、中を見てみると、そこにあるはずの主イエスの遺体がありません。マリアは、誰かが主イエスの遺体を盗んだ、どこかへ運び去った、そう思いました。大変なことになってしまった。彼女は急いでこのことを主イエスの弟子たちに知らせました。知らせを受けたペトロと主イエスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネと考えて良いでしょう)が、主イエスの墓に走りました。二人は墓の中に、主イエスの遺体を包んでいた亜麻布と主イエスの頭を包んでいた覆いとが少し離れたところに置いてあるのを見て、主イエスが復活されたということを信じました。しかし、彼らはそれが何を意味しているのかは分かりませんでした。そして、二人の弟子は家に帰って行きました。
多分、二人の弟子たちより少し遅れて、マリアは主イエスの墓に戻って来たのだと思います。彼女も二人の弟子と同じものを見ました。空になった墓と、墓の中に置いてあった主イエスの遺体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いです。しかし、マリアはそれを見ても、主イエスが復活したと信じることは出来ませんでした。ただただ悲しく、そこから動くことも出来ず、主イエスの墓の外に立って泣いていたのです。
「マリアは墓の外に立って泣いていた。」この言葉、この情景に、私はこの人を知っているという思いを誰もが抱くでしょう。愛する人を失った悲しみに打ちひしがれ、ただ泣くことしか出来ない女性。しかも、その愛する者の遺体は消えて無くなってしまった。遺体にすがりついて泣くことさえも出来ない女性。ただ墓の前に立ちつくし、泣き続けるしかない女性です。夫を亡くした妻、息子を亡くした母、父を亡くした娘、兄を亡くした妹、恋人を亡くした女性と、重ねて見ることが許されるでしょう。私共は、この悲しみに打ちひしがれ泣くしかなかったマリアを知っている。何人も見てきた。あるいは自分自身と重ねる人もいるでしょう。あの日、私はただ泣くしかなかった。何を言われても耳に入らず、何を見てもそれが何なのか分からなかった。頭の中が真っ白になり、ただ涙だけが枯れることなく流れ続けた。愛する者を亡くすとはそういうことでしょう。
マグダラのマリア。彼女は、ルカによる福音書によれば、主イエスによって七つの悪霊を追い出していただいた(ルカによる福音書8章2節)のです。具体的には良く分かりませんけれど、七つの悪霊というのですから、彼女は肉体的にも精神的にもボロボロだったのだと思います。しかし、主イエス・キリストと出会い、主イエスによって癒され、心も体も健やかにされた。生きる力を与えられ、十二人の弟子たちと共に主イエスに従い、一緒に旅を続けた女性の一人でした。彼女にとって、主イエスの言葉を聞き、主イエスの業を見、主イエスのために世話をすることが何よりの喜びでした。しかし、主イエスは死んでしまった。彼女は、主イエスが十字架に架けられた時も離れず、死に至るまで見ていたのです。彼女は主イエスの墓を守って、これからの日々を過ごそうとしていたのかもしれない。自分の胸の中にある主イエスのとの思い出を大切にして、墓を守って生きていこうと思っていたのかもしれない。しかし、その主イエスの墓から、主イエスの遺体が消えてしまったのです。何が何だか分からず、マリアはただ主イエスの墓の前に立ちつくし、泣くしかなかった。
2.マリア、天使と出会う
彼女は泣きながら、もう一度主イエスの墓の中をのぞいてみました。何度見ても無いものは無い。そんなことは分かっている。しかし、そうしないではいられなかったのでしょう。すると、墓の中に今までとは違う光景がありました。主イエスの遺体は確かに無い。しかし、白い衣を着た二人の天使が、本来主イエスの遺体があるべき所に座っていた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に。
天使と出会う。それは驚くべきことでしょう。聖書の他の箇所では、天使が出てくれば、天使と出会った人は皆驚くのです。ルカによる福音書の冒頭の所、羊飼いたちが主イエスの誕生を知らされる場面でもそうです。羊飼いたちは驚き、恐れたのです。ところが、この時マリアは少しも驚いていません。恐れてもいません。どうしてか。きっと悲しみのあまり、今ここで起きていることがどういうことなのか、ちっとも分かっていなかったということなのではないかと思います。
この時の天使の言葉もすごいものです。天使たちは、「婦人よ、なぜ泣いているのか。」と言うのです。愛する者を亡くして泣いている女性に、こんな言葉をかける人はいません。いるとすれば、死ということが分からない子どもくらいです。「お母さん、どうして泣いているの。」三つか四つの子なら、そんな風に言うかもしれません。しかし、大人には言えません。死というものが取り返しのつかないことであり、その悲しみ、嘆きに対してはどんな慰めの言葉も力のないことを知っている大人は、言葉をかけることさえためらうものです。しかし、天使は言うのです。「なぜ泣いているのか。」あなたは泣く必要などないのだ。あなたが嘆き悲しんでいる主イエスの死という出来事は終わったのだ。主イエスは復活されたのだ。あなたを嘆かせている愛する者の死という現実は敗れ去り、過去のものとなり、今、新しい事態に突入しているのだ。だからもう泣かなくて良い。涙をぬぐえ。これはそういう意味でありました。
しかし、マリアはそのメッセージを受け取ることは出来ず、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と言うばかりでした。マリアは墓を見ていた。主イエスがいなくなった墓、何もない墓。墓を見ていても何も分からないのです。しかし、天使たちは墓の中から外を見ていた。そこには、墓をのぞき込むマリアの後ろに、復活された主イエスが立っていたのです。天使たちは、マリアの後ろに立っている主イエスを見て、復活の主イエスがそこにおられるのになぜ泣いているのか、と言ったのでしょう。この言葉は、復活の主イエスによって15節でも繰り返されています。泣く必要はない。お前を悲しませ嘆かせた死はもう滅んで、わたしはここに生きている。そう主イエスは言われたのでしょう。しかし、マリアは気付きません。
3.マリア、復活の主イエスが分からない
14節「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」マリアは、天使たちの視線に気付いたのかもしれません。彼女は後ろを振り返りました。すると、そこに復活された主イエスが立っておられました。しかし、マリアはそれが主イエスだとは分からなかったのです。
これも不思議なことです。これほどまでに主イエスを愛していたマリアが、どうして主イエスだと分からなかったのでしょうか。15節「イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』」マリアは、復活された主イエスと会話までします。マリアは、復活の主イエスのことを、墓を世話している園丁だと思って話をするのです。主イエスが「なぜ泣いているのか。」と言われた意味も全く分かっていません。
私共はここで、ルカによる福音書24章13節以下にある、エマオ途上での出来事を思い起こすでしょう。主イエスが復活された日、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。このうちの一人の名はクレオパと言いました。彼らは主イエスに、この方こそイスラエルを解放してくださる方だと期待していましたが、主イエスは十字架の上で殺されてしまった。それで、望みを失い、エマオの村へと帰るところだったのです。この二人に復活の主が現れます。主イエスは歩きながら、この二人に聖書を解き明かされます。しかし、その話を聞いている間中、二人はこの話をしている相手が主イエスであることに気付かなかったのです。
復活の主イエスと出会っても気付かない、それはこの主イエスの復活という出来事が、単なる肉体の生き返りではなかったということを意味しています。確かに、主イエスは十字架の上で死んで、復活したのです。しかしそれは、ラザロの復活のように、元の体に生き返ったということではなかったのです。ラザロは主イエスによって、死んで四日も経ってから生き返りました。この時のラザロは、誰が見てもラザロでした。そして、ラザロは何年か何十年かしたら死んだのです。ラザロの復活は肉体の生です。しかし、主イエスの復活はそうではありませんでした。だから分からなかったのです。
パウロはこのことについて、コリントの信徒への手紙一15章44節で「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と告げています。この「霊の体」こそ、復活された主イエスの体を指しているのです。肉体の体ならば、誰の目にも見えます。しかし、この霊の体というものは、信仰がなければ、主イエスを愛していなければ、見ることが出来ない、見させていただけない、そういうものなのだと思います。福音書には主イエスの復活を告げる記事がいろいろありますが、一つとして主イエスを信じない者に復活の主イエスが現れたというものはないのです。
4.マリア、復活の主イエスに名を呼ばれ、分かる
主イエスは「マリア」と声をかけます。マリアの名を呼んだのです。この時、マリアの目は開かれます。そして、自分の目の前におられるのが復活された主イエスであることに気付いたのです。マリアは、自分の名前が呼ばれて気付いた。このことはとても大切です。実は、これと同じことが私共の上にも起きているからです。主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。…羊はわたしの声を聞き分ける。」(ヨハネによる福音書10章14節、16節)と言われています。
私共はここで毎週礼拝を守っています。ここで聖書が読まれ、解き明かされます。この説教というものは不思議なもので、皆が同じものを聞いていながら、多分、皆が違うように聞いているのだと思います。今日の説教はどうでしたかと全員に聞いたら、私はそんなつもりで言っていないのにということだって、きっといろいろと出てくるのではないかと思います。私はそれで良いし、説教とはそういうものだと思っています。私は一生懸命準備をし、原稿を書き、話すわけですが、それはここに働いてくださる聖霊なる神様の御手に委ねるしかないのです。しかし、どのような聞かれ方をするにせよ、「私に向かって、私のことが、私のために」語られたということがなければ、説教は決して分からないのです。それは、説教を通じて、皆さんと主イエスとが出会うことです。これが起きなければ、説教は「騒がしい銅鑼、やかましいシンバル」でしかないのです。説教においては、私の名が呼ばれ、私に向かって、私のために、主イエスが語られるのです。
この出来事は、復活の主イエスとマグダラのマリアが出会った時と同じ出来事なのです。マリアは、この復活の日の朝の出来事を何度も何度も語ったと思います。何百回も語ったでしょう。その話が記憶され、このように聖書の中に残ったのです。なぜ天使に出会っても驚かなかったのか。なぜ復活の主イエスと出会っても、最初主イエスだと分からなかったのか。マリアは説明などしなかったと思います。彼女が語ったのは、復活の主イエスと出会った日の忘れることの出来ない出来事だけです。そして、それを聞いたキリスト者たちは、「ああ、自分の上にも起きたことと同じだ。」と思った。また、まだ信仰を与えられていない人は、「自分にも復活の主イエスの呼びかけが与えられるように。」と願ったのでしょう。それは、現在の私共も同じでしょう。キリストの教会の礼拝とは、この復活の主イエスとの出会い、復活の主イエスからの呼びかけを求めて、為されているものなのです。
5.主イエスを我が手に捉えることは出来ない
さて、復活の主イエスだと分かったマリアは、とっさに「ラボニ」と返事をしました。多分、マリアが主イエスと共に旅をしていた時に、主イエスに呼びかけていたいつもの言葉だったのだと思います。
復活の主イエスは、ここでマリアに対してこう言われました。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。」これは、口語訳では、「わたしにさわってはいけない。」と訳されていました。この口語訳ですと、まだマリアは主イエスにさわっていないことになります。しかし、次に続いている「まだ父のもとへ上っていないのだから。」という言葉とどうつながるのか、よく分かりません。更に27節以下で、トマスに対して「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われたことと矛盾します。新共同訳ですと、マリアはラボニと言うなり、主イエスの足もとにすがりついてしまった。しかし主イエスは、自分は父のもとに上っていくのだからすがりついてはいけない、と言われたということになります。こちらの方がすっきりすると思います。
ラボニというのは、マリアが主イエスにずっと使っていた呼びかけでした。しかし、復活の主イエスに対して「先生」と呼びかけているのは、この時のマリアだけなのです。他は全部「主」あるいは「神」です。マリアはこの時まだ、復活の主イエスを肉の体として受け止めていた、ラザロの復活と同じレベルで受け止めていたということではないかと思うのです。この「すがりつく」というのも、まさに自分の手でつかんでいるということです。しかし、主イエスの復活という出来事は、私共の手で捕まえることが出来ること、私共の理解の範疇にあることではないのです。主イエスの復活は、単に死んだ人が生き返ったということではなくて、主イエスが死を滅ぼし、新しい命、永遠の命に道を拓いてくださったということなのです。新しい時代がここから始まるという出来事だったのです。主イエスは天に昇らなければなりません。天の父なる神様の許から来られた神の御子主イエスは、十字架という救いの御業を為した後、元いた天の父の御許に帰り、父なる神様と共にすべてを支配し、導かなければなりません。主イエスを自分の手の内に入れることは出来ないのです。
主イエスと「マリア」「ラボニ」と呼び合う愛の交わりは麗しいものです。しかし、そこでも私共は間違いを犯すのです。私は主イエスを知っている、分かっている、こういう方だ、そのように自分の手の内に入れたつもりになるのです。しかし、そうではないのです。主イエスは神様ですから、どこまでいっても私共が知り尽くし、捉え尽くすことなど出来ないのです。
ここで、マタイによる福音書16章に記されている記事を思い起こすことが出来るでしょう。弟子たちは主イエスに「あなたがたはわたしを何者だと言うか。」と問われ、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。主イエスは喜び、「あなたにこのことを現したのは、わたしの天の父なのだ。」とまで言われました。ところがその後、主イエスが十字架と復活の予告をされると、ペトロは「そんなことがあってはなりません。」と主イエスを諌めたのです。主イエスはペトロを「サタンよ、引き下がれ。」と叱られ、ペトロは主イエスが神の御子であることを告白しました。しかし、それはペトロの頭の中の神の御子のイメージに主イエスを押し込めることになってしまった。自分で主イエスを把握したかのように錯覚してしまったのです。これは、私共が大変気をつけなければならないところでしょう。マグダラのマリアがここでしてしまっている過ちも同じことです。
主イエスは自由に御姿を現され、自由に語られ、自由にその救いの御業を遂行されるのです。私共はただ、その御姿を見せていただき、御言葉を聞かせていただき、その救いの御業に与るだけなのです。そのために、私共は今朝ここに集められているのです。
これから私共は聖餐に与ります。主イエスがここに聖霊として臨んでくださり、私共一人一人の前に立ち、御自身の体と血とを差し出し、我が肉を食べよ、我が血を飲め、と告げられます。この招きに応え、感謝と喜びをもって共に聖餐に与りましょう。
[2013年2月3日]
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