富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスは本当に死なれたけれど」
ザカリア書 12章7〜14節
ヨハネによる福音書 19章31〜37節

小堀 康彦牧師

1.聖書の言葉が実現するため
 今朝私共には、ヨハネによる福音書が告げる、主イエスが十字架に架けられた場面の御言葉が与えられております。この主イエスの十字架を記すヨハネによる福音書19章において繰り返し語られておりますことは、主イエスの十字架の出来事が「聖書の言葉が実現するためであった」ということです。順に見ますと、24節に「聖書の言葉が実現するためであった。」とあります。これは、主イエスの服が兵士たちによって分けられ、くじ引きされたということが、詩編22編19節の実現であったと記されているわけです。次に、28節に「こうして聖書の言葉が実現した。」とあります。これは、主イエスが十字架の上で「渇く。」と言われたことが、詩編22編16節の実現であったと記されているわけです。そして、今朝与えられております36〜37節に「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」とあります。ここで「聖書に」と言われておりますのは、旧約聖書にということです。ヨハネによる福音書が記されました時、まだ新約聖書は出来ていません。新約聖書において「聖書に」と記されておりましたら、それは旧約聖書を指しているのです。
 ヨハネが、これほど繰り返し繰り返し「聖書の言葉が実現するためであった」と告げている理由は明らかであります。それは、主イエスの十字架の出来事が、永遠の神様の救いの御計画の中で為されたことであるということを語ろうとしているのです。主イエスは、偶然、たまたま、成り行き上、十字架に架けられることになってしまったのではない。神様の御意志によって、それも旧約以来の神様の救いの歴史の成就として為されたことであると告げているのです。確かに、当時の社会制度が違っていれば、或いはこの時代でなければ、主イエスは十字架に架けられることはなかったでしょう。しかしそのことも含めて、神様はすべてを御存知であり、その上で愛する御子を十字架にお架けになったということなのです。

2.己の業によるのではなく
 31節を見ますと、「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。」とあります。主イエスが十字架にお架かりになったのは金曜日でした。当時の一日の数え方では、日没から一日が始まります。つまり、金曜日の日没からは土曜日、安息日に入るわけです。安息日は何も出来ません。しかも、この時は過越祭の安息日ですから、一年の内で最も大切な安息日でした。十字架の刑は、釘を打たれた手足から少しずつ血が流れ出て死に至るという処刑の方法でしたから、死に至るまで時間がかかります。二、三日かかる場合さえあったようです。イエス様が息を引き取ったのは午後三時であったと、マルコによる福音書にはあります。四月頃の日没は午後六時頃でしょうから、安息日が始まるまでに、もう三時間くらいしかありません。申命記21章22〜23節に「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられた土地を汚してはならない。」とあります。十字架に架けられた死体はその日のうちに、つまり日没までに埋めなければならない。そうでないと、神に呪われた者の汚れが、その土地を汚してしまう。だから、もう時間がない。この時ユダヤ人たちの心は、十字架に架けた罪人をさっさと殺して日没までに埋める、そのことばかり心が向かい、心が急いていたのです。だから彼らは、罪人の足を折って十字架から取り降ろすよう、ピラトに願い出たのです。この「足を折って」というのは、大きな木づちで足の骨を粉々に砕くことであったようです。それは、歩いて逃げることがないために足を折ったと考える方もおられるかと思いますが、そうではなくて、この一撃で弱り切っていた罪人の息の根を止めるためでした。  主イエスが十字架に架けられた時も、ユダヤ人たちの心を占めていたのは律法を守ること、律法に違反しないことだったのです。申命記に記されている通り、その日のうちに墓に埋めること、安息日が始まるまでにそれを終えること、それだけが彼らの心にあることでした。そうしなければ自分たちが呪われる、自分たちが救われなくなる、そう思っていたのでした。
 多くの宗教は、○○をしなければ救われない、××をして救われる、そう教えています。正しい人、善い人になって救われましょうというわけです。正しい人、善い人とはどういう人なのか。そこにいろいろな規定が生まれるのでしょう。ユダヤ人もそうでした。律法を守る。そのことによって正しい人となり救われる。彼らは、そのことに宗教的情熱のすべてを注いでいたのです。
 しかし、主イエスの十字架は、神様の御計画による神様の御業でした。私共が何をしたから救われるということではなくて、神様が一方的に、永遠の救いの御計画の中で事を起こしてくださったのです。その神様の救いが成し遂げられるまさにその時にも、ユダヤ人たちは自分たちの為す業によって救いに至ろうとし、そこにばかり心が向いていたのです。私共が主イエスの十字架を見上げるということは、自分の努力や熱心や真面目さによるのではなくて、ただ神様の一方的な愛と憐れみによって私共は神様の救いに与るのだ、与っているのだ、そのことを心に刻むということなのでしょう。この時のユダヤ人たちのように自分の業に頼り、その真面目さによって救われようとする愚かさから解き放たれなければなりません。

3.主イエスの足は折られなかった=神の小羊として
 さて、今朝与えられております31〜37節の記事は、ヨハネによる福音書にしか記されておりません。他のマタイ・マルコ・ルカには記されていないのです。書かれている出来事は二つです。一つは、主イエス以外の二人の罪人は足を折られたけれど、主イエスは足を折られなかったということ。もう一つは、その代わりに主イエスはわき腹を槍で刺され、そこから血と水とが流れ出たということです。このことを順に見ていきたいと思います。  先程申し上げましたように、ユダヤ人たちは一日の終わりまで、安息日が始まるまで三時間しかないので、あわてて十字架の罪人の息の根を止めて、さっさと墓に埋めたかったわけです。それで足を折った。ところが、主イエスのところに来てみると、主イエスは既に死んでいた。30節に「『成し遂げられた。』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」とある通りです。ですから、改めて息の根を止めるために足を折る必要はなかったわけです。しかし、このことは、「聖書の言葉が実現するためであった。」と36節にわざわざ記されています。具体的に聖書のどこに記されているかと申しますと、詩編34編20〜21節に「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」とあり、この詩編の言葉が主イエスの十字架を指していると読むわけです。
 さらに、こちらの方が大切かと思いますが、出エジプト記12章46節に「一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」とあります。これは何について規定しているのかと申しますと、過越祭の時に食べる羊についての規定です。イエス様が十字架に架けられたのは過越祭の時です。最後の晩餐も過越の食事でした。これは偶然ではないのです。過越祭とは何かと申しますと、イスラエルの民が奴隷であったエジプトの地から神様によって救い出される時に、エジプトの王がイスラエルの民を手放さないものですから、神様はエジプトに様々な災いを下しました。その最後の災い、エジプトの家の初めての子をすべて死に至らせるという災いを下された時、イスラエルの民にはその災いが及ばないように、目印として家の入り口の二本の柱と鴨居に小羊の血を塗らせたのです。この目印がある家は災いが「過ぎ越し」ていった。ですから、この出来事を過越の出来事と言い、この出来事を記念する祭りを「過越の祭り」と言うのです。この過越の出来事があり、イスラエルの民はエジプトを脱出することが出来たのです。この過越の小羊、その血をもって神様の裁きを過ぎ越させる小羊、その小羊を意味する過越の食事の小羊は骨を折らないのです。つまり、この過越の小羊、神の小羊、それが主イエス・キリストなのだ。この主イエスの血によって、この主イエスの犠牲によって、神様の裁きが私共を過ぎ越していく。救われる。それが、主イエスが十字架の上で足を折られることがなかった意味なのだと、ヨハネによる福音書は告げているのです。

4.誰が主イエスを殺したのか
 次に、主イエスは足の骨を折られることはありませんでしたけれど、兵士によってわき腹を槍で刺されたことについて考えてみましょう。主イエスは死んでいた。しかし、もしものことがないようにと、十字架の処刑をした兵士の一人が主イエスを槍で刺したのです。兵士が刺したのが右なのか左なのか、あるいは左右両方なのか聖書は記してありませんので分かりません。そんなことはどうでも良いことなのです。ここで重要なことは二つです。一つは、この槍で刺されるということが、預言の成就であったということです。これは、ゼカリヤ書12章10節を指しています。こうあります。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが指し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」エルサレムの住民が、「自らが指し貫いた者であるわたしを見つめ」るのです。この「わたし」とは神様のことです。つまり、主イエスの十字架は、イスラエルの民が自ら神様を十字架につけたということであり、それを見て、嘆き、悲しむということです。この嘆き、この悲しみは、自らの罪を嘆き、悲しむということでありましょう。主イエスの十字架は、神様への反逆という罪を私共に、言い逃れ出来ないあり方で示すのです。
 これは、主イエスを十字架に架けたのは誰かということです。二千年前にエルサレムにいたファリサイ派の人々、祭司長たち、あるいはそれに最終決定を下したポンテオ・ピラト。確かに、その直接の責任は彼らにあるのでしょう。しかし、主イエスの十字架が、自分を造り、自分を愛し、自分を導いてくださっている神様に背を向け、神様に逆らい、自分の損得しか考えようとしない私共のために、私共に代わって、身代わりになってくださったという出来事であるということは、実に主イエスを十字架に架け、主イエスのわき腹を槍で刺したのは、他ならぬ私共だということなのであります。

5.主イエスのわき腹から流れ出た血と水
 そして、そのわき腹からは「血と水とが流れ出た」のです。ヨハネによる福音書において「水」と言えば、私共に信仰を与え、私共を救いへと導く聖霊を指しています。7章37〜39節に「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日には、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。」とある通りです。そして、「血」は命を表しています。つまり、主イエスの十字架によって、私共に聖霊が注がれ、信仰が与えられ、永遠の命が与えられることを示しているのです。教会は、この主イエス・キリストのわき腹から流れ出た水を洗礼に、血を聖餐に結びつけて受け止めてきました。もちろん、この主イエスのわき腹から流れ出た水と血とは、直接、私共の洗礼の水や聖餐の杯と同じではないでしょう。しかし、私共の罪を洗い清め、私共を神の子として新しく生まれさせる洗礼は、この主イエスの十字架と結びつけられることなくして起きないことは確かなことであります。そしてまた、聖餐において与る主イエス・キリストの血潮もまた、主イエスの十字架と結び合わされなければ意味がないことも明らかなことでありましょう。その意味で、教会の長い歴史において、この主イエスのわき腹から流れ出た血と水を洗礼と聖餐に結びつけて受けとめてきた理解を、私はその通りだと思うのです。

6.本当に死んだ。そして、本当に復活した。
 主イエスが十字架の上で死に、わき腹を槍で刺され、そこから血と水が流れ出たということは、主イエスというお方が、私共と同じ、本当に生身の人間であり、その方が本当に十字架の上で死んだのだということを示しています。このヨハネによる福音書が記された当時、イエス様は神の子なのだからその肉体は特別なものであり、死んだというのも、仮に死んだように見えただけだ。本当は死んではいない。そういう主張があったのです。これは、いつの時代でもそのように考える人はいるでしょう。その方が分かりやすい、信じやすいということだと思います。特に、イエス様は金曜日に十字架の上で死んで日曜日に復活されたわけですから、本当に死んだのではないとか、イエス様の肉体は仮のものだということになれば、復活ということを信じるためのハードルはずっと低くなるわけです。というよりも、元々死んでいなければ、復活もないことになります。どうやって「復活」という私共の理性において受け入れがたいことを拒否し、合理化できるかということでしょう。しかし、キリストの教会は、このハードルを下げることは決してしなかったのです。イエス様が私共と同じ肉体を取ってくださったというところにこそ、天地を造られた神様の徹底的なへりくだりがあったからです。また、イエス様が本当に死んだからこそ、復活が全能の神様の力を示し、そこに私共の肉体の死を超えた命の希望の源があるからです。イエス様が私共と同じ人間になられなかったのなら、どうして私共の身代わりとなることが出来たでしょうか。私共と同じ肉体を持った方が本当に死んで、本当によみがえられたからこそ、私共の死を滅ぼし、私共の死を超えた命の希望となられたのです。
 イエス様は私共と全く同じ肉体をもって、本当に死なれたのです。この主イエスの十字架の死に、私共の死も結ばれるのです。主イエスと共に死ぬように、主イエスと共に復活するのです。主イエスは、私共を死から救い出すために、私共と同じ死を味わわれたのです。私共の死を滅ぼすために、十字架の上で死んでくださったのです。私共をすべての罪から救い出すために、罪の裁きを一身にお受けになったのです。
 主イエス・キリストを信じるということは、この十字架の主イエスに結び合わされた者として生きるということ以外にありません。それは、自分の本当の価値を知る、自分の隣人の本当の価値を知るということでもあります。私共は、何が出来る、何を持っている、そういうことで自分や隣人の価値を見ようとするところがある。そうすると、元気でばりばり仕事が出来るような時は良いです。でも、人間歳をとれば、今まで出来ていたことが一つまた一つと出来なくなっていくわけです。そういう中で、自分はまるで生きている価値がないように感じてしまう。しかし、そのように自分を見ることは、主イエス・キリストの十字架に結びつけられた者には許されていないのです。良いですか皆さん。私共は、神様が愛する独り子を十字架に架けてまで救いたいと願った者なのです。私の本当の価値は、それ程までに神様に愛されている者だというところにあるのです。主イエスに結びつけられた者であるということは、この主イエスの十字架から、自分のすべてを見るようになるということなのです。主イエスの十字架を抜きにしてしまえば、私共は自分が何者であり、どんな価値があるかさえ、少しも弁えることが出来ない者なのです。私共が為すべきことも、私共の希望も、喜びも、この主イエスの十字架に結ばれて与えられていくのです。私のために、その愛する独り子を同じ人間として生まれさせ、十字架の上で死を味わわせ、そして三日目に復活させられた神様の御手の中に、私共は生かされているのです。このことを喜び、感謝して、神様が与えてくださる新しい一週も歩んでまいりたいと思います。

[2013年1月13日]

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