富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの十字架の上と下で」
詩編 22編7〜22節
ヨハネによる福音書 19章16節b〜27節

小堀 康彦牧師

1.十字架を心に刻む
 ヨハネによる福音書を共々に読み進みながら、遂に主イエスの十字架の所まで来ました。主イエスが私共のために、私共に代わって、十字架に架かられた出来事。この出来事こそ、私共がいつも心に刻み、これにどう応えていくのかを問われるものです。どのように私共はこの主イエスの十字架の出来事を心に刻むのか、ここに私共の信仰の歩みのすべてがあると言っても良いでしょう。キリストの教会は、そのためにいろいろな工夫をしてきました。十字架の付いている物を身に着けたり、祈りの時に十字を切ったりするのも、そのような工夫の現れと見ることが出来るでしょう。しかし私共は、特に十字架の付いている物を身に着けることもしませんし、祈りの時に十字を切ったりもいたしません。だったら、どのようにして私共の教会は、主イエスの十字架を心に刻んで来たのでしょうか。それは、この主イエスの十字架の恵みにお応えする、その歩みにおいて、主イエスの十字架を心に刻んできたのです。主イエスの十字架にお応えする道は、献身以外にありません。私共は、主の御業にお仕えする、献身する、その営みによって主イエスの十字架を心に刻み、体に刻み、生活の中に刻みつけてきたのです。ここに、私共長老教会の特徴があると言っても良いほどです。

2.愛による伝道
 先週、W連合長老会の長老研修会に行って来ました。全国連合長老会からの問安という役目もあり、前日にはいくつかの教会をお訪ねすることになっています。私の前任地と同じくらいの、小さな規模の教会をお訪ねし、長老の方々のお話を聞き、祈りをささげて来ます。どこも抱えている問題は同じです。教会員の高齢化、教会学校の生徒の減少であり、働き人が少ないということです。そのような話を聞きながら、主イエスの十字架を心に刻んで、献身の志も新たに歩んで参りましょうと励まし、祈りを合わせるのです。今回はH教会に伺いました。K教会の伝道師であったA牧師がこの四月から着任され、長老方がとても喜んでおられる姿を見て、私もうれしくなりました。
 今回の長老研修会のテーマは「伝道」でした。お話ししましたことの一つは、伝道は愛の業であり、熱があるものだということです。例えば、家族に信仰を伝えたいとは誰もが思っている。しかし、そこに「なんとしても」という熱がなければ、その思いは伝わらないのではないか。そして、この熱を帯びた愛の業としての伝道は、献身によってしか生じないということです。主イエス・キリストの十字架の出来事を心に刻み、この恵みにお応えしたいと願い、献身の歩みへと一歩を踏み出すのです。そうは言っても、私共の献身は、いつも不徹底です。牧師である私も例外ではありせん。だからこそ、いつも「もう一歩前へ」なのです。私共の信仰の歩み、献身の歩みは、「これで良いのだ」という所にあぐらをかくことは出来ません。いつでも、もう一歩前へと進むのです。もし、私共の信仰の歩みにおいてマンネリということがあるとすれば、それはこの「もう一歩前へ」を踏み出すことをやめたからではないでしょうか。もう一歩で良いのです。具体的に、日々の歩みの中で、信仰の決断としての一歩を踏み出すのです。「毎週、礼拝は欠かさずに守ろう」でも良い。「毎日聖書を読もう」でも良い。「毎日祈りの時間を確保しよう」でも良い。「教会学校の教師としての奉仕をしよう」でも良い。「家庭集会に出よう」でも、「祈祷会に出よう」でも、何でも良いのです。神様が自分に向かって促してくださる、その一歩を踏み出せば良い。そこに、新しい信仰の歩みが必ず展開します。その信仰の決断としての一歩、献身の一歩を踏み出し続けていく中で、私共は主イエスの十字架を心に、体の中に、生活の中に、刻むのです。
 私共の信仰は、少しも観念的なものではありません。具体的に、どう夫婦の関係を良きものにしていくのか、子どもとの関係を良きものにしていくのか、そこで愛が問われる。愛は仕えるものでしょう。この仕えるということは具体的なのです。そこで、一歩踏み出していくのです。それは辛いこと、しんどいこと、心が悲鳴を上げることだってあるかもしれない。しかし、主イエスが「しなさい」と言われるなら、私共はその一歩を踏み出していくしかないのです。それが私共の、十字架を心に刻むということなのです。
 こんな話もしました。「家族への伝道が難しい」という話になりまして、これは伝道についての話をすれば必ず出てくることですが、私は「難しくない。」と申しました。温泉に一緒に行けば良い。「今日は温泉に行こうか。」「いいね。」「今日は温泉に行こうか。」「いいね。」となると、「今日は教会に行こうか。」と言ったら、きっと「いいね。」となりますよ。この話は、「そんな簡単なものじゃない。」と反感を買ってしまったのですけれど、私は、家族伝道とはそういうものだと思っているのです。人は、教会が良い所だから来るのではないのです。来たことがないのですから、良いも悪いも分からない。ただ、この人が「行こうか。」と言うから、それなら行こうかとついてくる、そういうものです。ここで「この人が行こうというのなら」ということが大切なのです。そのような関係がない所で伝道は出来ません。伝道は愛なのです。愛のない所で伝道は出来ないのです。教会でのややこしい話や教会の愚痴を家に帰ってさんざんしておいて、「教会に行こうか」と言っても来るはずがないのです。温泉の話で言えば、「あの温泉はいいよ。泉質がいい。露天風呂からの景色がいい。」と繰り返し聞かされていて、「あの温泉に行こうか。」と言われれば、「行く、行く。」となるでしょう。逆に「あの温泉は泉質が良くない。風呂は狭い。景色も良くない。おまけに、働いている人が無愛想だ。」そんな話を聞かされていて、あの温泉に行こうと誘ったところで、行ってみようとなるはずがないのです。当たり前のことです。

3.イエスは、自ら十字架を背負い
 さて、17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」とあります。ヨハネによる福音書は、主イエスの十字架までの歩みを詳しく記しません。他の福音書には、キレネ人シモンが主イエスの十字架を代わりに背負わされたというようなことが記されておりますが、ヨハネはそれを記しません。ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中で最後に記されたものですから、そのようなエピソードを知らないはずがないのです。しかし、記さない。それは、「イエスは、自ら十字架を背負い」ということが大切であると考えたからだと思うのです。主イエスは御自身で十字架を背負われた。この十字架は、私共の弱さ、私共の嘆き、私共の情けなさ、私共の傲慢、私共の怠惰といった、私共の罪の一切であります。それを主イエスは背負ってくださった。私共が神様からの献身の促しに対して従うことが出来ないのは、この罪が邪魔をするからです。一番大きい理由は、そんなことをしたら大変だ、という思いでしょう。あれが出来なくなる。これが出来なくなる。どうして、そこまでしなきゃいけないのか。そんな思いが湧いてくる。しかし、主イエスはその私のために十字架を背負われたのです。この主イエスの前にしっかり立つなら、私共は言い訳など出来ません。この主イエスの十字架をしっかり見据えて、この方の前にちゃんと立つならば、私共の中に湧き上がってくる言い訳は、その場所を失うでしょう。自分の中に湧き上がってくる様々な言い訳と戦うとはそういうことであり、この罪との戦い無しに献身の一歩を踏み出すことは出来ません。私共の一切の罪を主イエスが背負ってくださったのですから、この主イエスに信頼して、後のことは心配せずに一歩を踏み出していきましょう。そこには必ず、今まで自分が見えなかった景色が広がっていきます。神様の御支配の確かさが、御恵みの豊かさが、私共の思いを超えてすべてを備えてくださっている神様の御配慮の細やかさが、今よりもっとはっきり分かってきます。
 主イエスは、ゴルゴタという所で他の二人の犯罪人と共に十字架につけられました。このことについては次回、丁寧に見たいと思います。アドベントからクリスマスまでは違う所から御言葉を受けることにしていますので、次回というのはクリスマスの後、12月の最後の主の日になると思います。今朝はその部分を飛ばしてその後の所、23節以下の所を見たいと思います。

4.十字架の下で 〜兵士たち〜
 主イエスが十字架にお架かりになり、私共の一切の罪を背負って苦しみのただ中におられた時、その十字架の下には二組の人たちがいました。一組は兵士たち、もう一組は主イエスに従って来ていた婦人たちと弟子たちです。
 兵士たちは、十字架の刑を執行するために来ていた者たちでした。彼らは三人の者を十字架につけ、息を引き取るのを見届ける役目があったのだと思います。主イエスを十字架につけると、彼らは主イエスの服を四つに分けて分け合いました。これが彼らの役得だったのでしょう。服は当時、大変貴重なものでした。当時の人は普通、上着を一着しか持っていませんでした。彼らは服を分け合い、下着はくじ引きにして当たった者がもらうことにしたのです。
 私は、この場面を思うたびに、この兵士たちの姿こそ人間の世界そのものだと思うのです。十字架の上で苦しまれている主イエスの姿には目もくれず、目の前の損得にばかり心が向いている。これが私共が生きている世の中というものなのではないでしょうか。イエス様のこと、神様のことなど考えもしない。ただただ自分の損得に目を奪われている。主イエスの下着が誰のものになるかを決めるためにくじ引きをする。これは文面だけを見ると、何とものどかなようですが、私が思いますに、この時の兵士たちの目は血走っていたのではないかと思います。自分の損得のために血走った目でくじを見つめる男たち。これが、主イエスの十字架の下で繰り広げられたことであり、これはいつの時代のどこにおいても繰り広げられている人間社会の現実なのでしょう。しかし、そこに主イエスの十字架が立っていたのです。主イエスの十字架は、この世界と無関係な所に立ったのではないのです。自分の損得に血眼になっている、そういう人間の営みのただ中に、主イエスの十字架は立ったのです。主イエスの十字架は、どこか遠くの離れた静かな所に行って、修行を積まなければ仰ぐことが出来ないということではなくて、私共が生きているその生活のただ中で、ただ上を見上げれば良い。そこに主イエスの十字架があるということなのです。上を見上げれば、そこに主イエスの十字架があるのです。世の人々はそれに気付かないだけなのです。目に見える自分の損得にばかり心を奪われている人が生きているそこに、主イエスの十字架があるのです。そこにおいて主イエスは、「我を見よ。あなたの一切の罪は私が担った。あなたのために、あなたに代わって、この苦しみを受けている。我を見よ。」そうこの世界に対して、いつも呼びかけているのです。しかし、その声はなかなか届かない。でも、私共は聞いた。だから、私共はこの声を届けるのです。

5.十字架の下で 〜婦人たちと弟子たち〜
 主イエスの十字架の下には、もう一組の人たちがいました。主イエスに従って来た婦人たちと主イエスの弟子たちです。この記述は、他の福音書には記されていません。そもそも、主イエスが声をかければ届くほど近くに婦人たちや弟子たちがいることが出来たのかということがあります。ルカは、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」(ルカによる福音書23章49節)と記しています。マルコも、「婦人たちも遠くから見守っていた。」(マルコによる福音書15章40節)と記し、マタイも同様です。弟子たちについては何も記されず、婦人たちが遠くから主イエスの十字架を見守っていたというのが、マタイ・マルコ・ルカの記していることです。私は、マタイ・マルコ・ルカが記していることの方が本当だったのではないかと思っています。しかし、ヨハネが記していることは、今までも見て来たように、事実以上に、事柄の意味を示そうとする、そういう書き方をしているのだと思うのです。では、その意味とは何なのか。
 それは、主イエスの十字架の出来事によって新しい家族としての教会が生まれたということであります。主イエスは、ここで長男として、自分が死んだ後、お母さんのマリアは生活に困るだろうから、愛する弟子にその面倒を見てくれるように頼んだという話ではないのです。カトリック教会は、ここで主イエスが弟子に、「見なさい、あなたの母です。」と言われたのだから、マリア様がすべてのキリスト者の母であり、そのようにマリア様をあがめ、大切にしなければいけないと教えているわけですが、そうではないのです。主イエスの十字架によって、主イエスを中心とする神の家族としての教会が建ったということを、これは示しているのです。
 自分の損得しか考えない兵士たちによって示されているこの世の中にあって、教会は新しい家族としての愛の交わりに生きる群れとして建てられたということなのです。世は、愛が分からないのです。そういう世にあって、教会は、心と生活において愛を世に示す存在、ここに来れば愛が分かる、そういう共同体として建てられているということなのです。
 確かに、教会は天国ではありませんから、いろいろなことが起きます。そこでは「つまずく」ということも起きます。牧師につまずく、人につまずく、いろいろある。教会という所は、この世にあるトラブルはすべて起きます。必ず起きます。ですから、そんなことでつまずいていては、信仰の歩みを全うすることは出来ません。おおよそ、つまずくというのは、自分のことを棚に上げて他人を批判する所で起きるものです。しかし、この人のためにも、私のためにも、キリストは十字架にお架かりになったのです。このことをしっかり受けとめる。そこにしか教会は建ちません。教会はキリストの愛を受け、その愛を現すものとして建てられています。教会はそのことを知っている。だから、その御心に添うような教会となっていきたいと願います。そして、そのために私共は献身の歩みを更にもう一歩と踏み出し続けるのです。教会も私共も、この「もう一歩」という志、営みを止めた時、少しもキリストの愛を現すことの出来ない存在になってしまうのではないかと思うのです。
 主イエス・キリストが私のために、私に代わって、十字架について苦しんでくださった。このことを心に刻み、この方の愛に、どうにかしてお応えして生きていきたいのです。私共は、そのように願っている者の群れなのです。ですから、もう一歩、ここから踏み出していきましょう。主イエスの愛をいよいよ深く味わい知るために、主イエスの十字架を心に、体に、生活の中に刻み込んでいくためにです。

[2012年11月25日]

メッセージ へもどる。