富山鹿島町教会

礼拝説教

「ユダヤ人の王として」
イザヤ書 53章1〜6節
ヨハネによる福音書 19章1〜16節a

小堀 康彦牧師

1.昨日の結婚式
 昨日、教会員のM夫妻の御長男の結婚式をホテルで行いました。ホテルと言いましても、ホテルの中のチャペルでの結婚式ではありませんで、ホテルのロビーで行うというものでした。最近は、こういう形もあるのでしょう。ホテルのロビーですから、人の出入りはありますし、横には喫茶コーナーがあって食事をしている人やお茶を飲んでる人がいます。何とも集中するのが難しい場所でした。しかし、路傍伝道をするつもりで行いました。私は求められれば、何処にでも行きます。結婚式も準備会にさえ出ていただけるなら、何処にでも行きます。神様の祝福を告げるために自分は召されていると思っているからです。営業をしに行くのではないのです。イエス様は、道を歩きながら、山の中で、湖の畔で、福音をお語りになりました。自分もそうでなければならないと思っているのです。全体で30分というホテル側の制約もあり、十分なことは出来なかったかもしれませんけれど、短くでしたが説教をし、精一杯の司式を行いました。私が願ったことは、結婚する二人が○○ホテルで結婚式を挙げたということ以上に、神様の御前で誓ったのだということを覚えてほしいということ。そして、キリスト教に触れたことのない人たちに本当のキリスト教に触れてほしいということでした。参列者の中には、終始おしゃべりをしていた人も後ろの方ではいたようですけれど、奏楽と賛美のために金沢のイベント会社から派遣されている人たち、この人たちは毎週のようにキリスト教式の結婚式に立ち会っている人たちですが、彼らがとても良く説教を聞いていました。私共は、与えられたところにおいて、精一杯のことを為すのです。それがどのような結果になるのかは分かりません。しかし、神様は御存知です。この神様の御手にすべてをお委ねして、私共は為すべきことを精一杯行うだけなのです。私共の伝道とは、そういうものなのではないかと思うのです。

2.釈放したいのに、それが出来ないピラト
 今朝与えられております御言葉は、ピラトによる裁判の後半です。ヨハネによる福音書は一貫して、ピラトが主イエスに対して、十字架に架けられる、死刑になる、そのような罪を見出せなかった、だから赦そうとした、ということを記しております。ヨハネによる福音書は3回も繰り返して、ピラトにそのことを言わせるのです。18章38節の終わり「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」、19章4節後半「そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」、19章6節後半「わたしはこの男に罪を見いだせない。」とあります。ですから、ピラトは主イエスを十字架に架けないようにしようとしたわけです。まず、18章39節に「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」とありますように、過越祭の時に罪人を釈放する慣例を主イエスに適用しようとしたのです。しかし、ユダヤ人たちの「その男ではない。バラバを。」と叫ぶ声に負けて、実行することが出来ませんでした。そして、19章12節には、「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。」とあります。ピラトは主イエスに死刑に値する罪を見いだせなかった。だから釈放しようと努めたのです。それが、ローマから総督として遣わされているピラトの為すべきことだったからです。ピラトは、ローマの力と権威によってユダヤを治める者として遣わされて来ています。それは、もっと具体的に言えば、ローマの法に基づいて統治するということでした。彼は、ローマの法に照らして無罪を宣告し、主イエスを釈放したいわけです。それが自分の務めであることを良く承知しています。しかし、出来ないのです。
 何故でしょうか。主イエスが十字架に架けられる事が決まってしまう最後の場面において、そのことが記されています。13〜16節です。主イエスが外に連れ出され裁判の席に着いたのを見ると、ユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫んだのです。そして、ピラトが「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか。」と問いますと、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」と答えたのです。その前の12節においても、主イエスを釈放しようとするピラトに対し、ユダヤ人たちが「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」と叫ぶ、というやり取りが記されています。ここで、ユダヤ人たちはピラトを脅しているわけです。主イエスを釈放すれば、あなたはユダヤ人の王と称する者を釈放することになる。それはユダヤにおける反乱を黙認したことになりますよ。それでいいのですね。わたしたちはローマ皇帝に忠誠を誓っているのです。だからこの男を殺しなさい。それがすべてを丸く収める方法です。そうしなければ、ユダヤで何が起きても知りませんよ。そんなことになれば、一番困るのは総督であるあなたではありませんか。明言されてはいませんが、そのような脅しがユダヤ人たちからピラトに為されているのでしょう。そして、ピラトはその脅しに屈してしまったということなのだと思います。それが、主イエスが十字架に架けられることになった、目に見える所の理由です。

3.主イエスに対する権限
 しかし、聖書はもっと深い、目には見えない所の理由を記しています。それは、8〜11節に記されています。ピラトは主イエスに「お前はどこから来たのか。」と問います。この問いは、ヨハネによる福音書においては「お前は何者か。」という問いと同じです。主イエスはどこから来たのかということについて、7章28〜29節において、主イエスはこう言っておられます。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」更に、3章17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。主イエスは、天の父なる神様のもとから来られたのであって、それは主イエスがまことの神の独り子であることを示しているわけです。ピラトのこの「お前はどこから来たのか。」すなわち「お前は何者なのか。」という問いに、主イエスは答えようとされませんでした。既に、ピラトに対して、18章36節「わたしの国は、この世には属していない。」と言い、また18章37節「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言っているのです。主イエスは既に答えているのです。問題は、ピラトがこれを信じるかどうかなのです。主イエスのこの沈黙は、わたしはもうあなたに答えている、あなたがそれを信じるかどうかなのだ、そのことをピラトに示しているように思うのです。
 この主イエスの沈黙に対して、ピラトは侮辱されたと思ったのでしょう。ピラトは主イエスにこう言います。10節「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」これに対しての主イエスの答え、これこそ主イエスが十字架にお架かりになることになった本当の理由です。11節「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」主イエスは、ローマの総督であろうと誰であろうと、わたしに対しては何の権限もない。わたしは神様のもとから来た者であり、神様だけがわたしをどうするかお決めになることが出来る。そう答えられたのです。つりま、ローマの総督であろうと、大祭司であろうと、わたしに対しては何の権限もない。ただ神様だけが、わたしをどうするのかお決めになることが出来るのだというのです。これが、主イエスが十字架に架けられた本当の理由なのです。神様がお決めになったのです。神様がお決めになったことに、主イエスは従っておられるのです。この神様がお決めになったことに対して、ユダヤ人たちもピラトも、自分でどうこう出来るかのようにふるまっていますけれど、それは少しも決定的なことではなくて、ただ神様の御心だけが堅く立っているのです。あの箴言の有名な御言葉「人の心には多くの計らいがある。(しかし)主の御旨のみが実現する。」(19章21節)を、私共は思い起こすのです。
 では、ピラトやユダヤ人たちの為したことは全く意味がなかったかと言いますと、そうではありません。神様の御心というものを知らず知らずのうちに指し示す、そういう役割を果たしてしまっているのです。

4.ユダヤ人の王
 先週も申し上げましたように、ピラトは「主イエスには何の罪もないこと」「主イエスがユダヤ人の王であること」を指し示しておりました。主イエスに何の罪も見いだせないと言ったことについては最初に見ました。そして、彼は何度も、主イエスを「ユダヤ人の王」と言うのです。それは、ユダヤ人たちが主イエスを「ユダヤ人の王と称している」と訴えたからなのでしょうけれど、5回も「ユダヤ人の王」という言葉を繰り返しています。18章33節「おまえがユダヤ人の王なのか。」、18章37節「それでは、やはり王なのか。」、18章39節「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」、19章14節「見よ、あなたたちの王だ。」、19章15節「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか。」です。そしてピラトは、王の冠として主イエスの頭に茨の冠を載せ、王の衣装として紫の服をまとわせたのです。更に決定的なのは、十字架の上に付けられた罪状書きに「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。
 ピラトは、自分の「主イエスに何の罪も見いだせない。」という発言が、主イエスが何の罪も無きお方、ただ一人の正しいお方であるということを指し示すことになるとは思ってもいなかったでしょう。しかし、そうなってしまった。そして彼は、主イエスがユダヤ人の王であるなどとは少しも思っていなかった。ユダヤを支配しているのは自分であって、目の前の縄を打たれた弱々しい者であるはずがないと思っていた。だから、自分を脅してまで主イエスを十字架につけようと訴えるユダヤ人たちに対する嫌み、当てつけもあったのでしょう。何度も、主イエスを「ユダヤ人の王」と言うのです。しかし、ピラトが使ったこの「ユダヤ人の王」という言葉こそ、主イエスというお方が誰であるかということを明確に指し示すものだったのです。
 ユダヤ人の王。それは、まことの神を指し示す言葉でありました。ユダヤ人は神の民です。神の民とは本来、神様を自分たちの主、自分たちのただ一人の王とする者だからです。サムエル記上8章において、人々が預言者サムエルに向かって、自分たちの上に王を立てるよう求めた時、神様はサムエルに対して、こうお答えになりました。8章7節「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」そして立てられたのがサウル王であり、次の王がダビデでした。ユダヤ人は本来、王を持たなかったのです。それは神様がユダヤ人の王、まことの支配者としておられたからです。その意味で、主イエスはまことのユダヤ人の王であられたのです。言うまでもありませんが、主イエスがユダヤ人の王であるということは、民族としてのユダヤ人の王ということではありません。神の民の王ということです。
 さて、主イエスを十字架に架けたユダヤ人たちは、本来神様だけを自分たちのただ一人の王としなければならない者でありました。しかし、主イエスを十字架につけるために、なんと「わたしたちには、皇帝(=ローマ帝国の皇帝)のほかに王はありません。」と言い切ってしまったのです。その意図は、ピラトを追い詰めて主イエスを十字架に架けるというものでした。しかし、これは重大な言葉です。聖書は、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返しなさい。」という御言葉が示しているように、ローマ皇帝の支配というものを認めています。王もまた、神様の御手の中で立てられ、この世の秩序を任された者です。しかし、「皇帝のほかに王はありません。」という明言は、本人の意図を超えて、主イエスの十字架というものが、この世の権力者を唯一の自分たちの王とする者によって為されたということを示すことになったのです。この世の力、この世の権力を自分の王とする者は、まことの神を十字架につけることになるということであります。この世の力、この世の権力を自分の王とする者とは、もっと具体的に言えば、この世の富、この世の地位、この世の名誉を第一とする者、それらにだけ価値を置く者ということでしょう。そのような人は、主イエスに敵対し、これを殺すということなのです。

5.エッケ・ホモ
 主イエスは鞭で打たれ、茨の冠を載せられ、兵士たちの着る安っぽい赤紫の服を着せられ、ユダヤ人たちの前に連れて来られました。イザヤが予言したように、そこには「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」(イザヤ書53章2〜3節)た者としての姿でありました。
 その主イエスを指して、ピラトは言うのです。5節「見よ、この男だ。」。口語訳では「見よ、この人だ。」となっていました。ギリシャ語では、「見よ、この人を。」です。ここでは男という言葉ではなく、人を表す言葉が使われています。これがラテン語に訳されて、「エッケ・ホモ」となりました。「エッケ・ホモ」。この言葉は、主イエスの裁判の場面の絵や彫刻のすべてを呼ぶようになりました。ちょうど十字架から下ろされた主イエスを母マリアが抱き取る場面の絵や彫刻のすべてが「ピエタ」と呼ばれるのと同じです。讃美歌21の280番、由木康が作詞をした「この人を見よ」と繰り返し歌う讃美歌は、まさにこの「エッケ・ホモ」の讃美歌版と言って良いでしょう。「エッケ・ホモ」、この人を見よ。この方こそ私共のまことの主、ただ一人の王なのです。
 私共は、このお方以外にまことの王を持たないのです。このお方以外にまことの主人を持たないのです。それは、この世の主人に仕える日々の仕事、日々の為すべき業などはいい加減にやっていれば良いということではもちろんありません。そうではなくて、日々の仕事を、為すべき業を、私共はこのまことの王、まことの主人であるこのお方に仕えるために行うということです。食事の世話も、子育ても、洗濯も、掃除も、会社で働くことも、地域への奉仕の業も、すべてこのお方にお仕えする業として行うということです。このお方に喜んでいただけることを一番の喜びとして行っていくということです。
 この地上において主イエスが与えられたのは、鞭打ちであり、茨の冠でした。あざけりであり、軽蔑であり、十字架でした。しかし、主イエスは今、父なる神様の右に座しておられます。私共が求めるものは何でしょうか。「エッケ ホモ」、この人を見よ、です。主イエスが良しと言ってくだされば、主イエスが喜んでくだされば、他には何も要らない。それが、この方をまことの王、まことの主人とした私共なのです。

[2012年11月18日]

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