1.罪を照らし出す主イエス
主イエス・キリストというお方は、私共の嘘、ごまかし、自己保身、無責任、言い逃れといったまことに醜い罪の姿を、白日の下に露わにしてしまうお方です。このお方の前に出ますと、私共は嫌でも自分の罪を見せられてしまう。その意味では、まことに恐ろしいお方です。人に悟られまいとして隠している私共の罪、あるいは自分でさえ気付いていない罪、それが主イエス・キリストというお方の前に出ると、はっきりと照らし出されてしまう。もう言い訳は出来ない。「神様、お赦しください。」と悔いるしかない。そういう所に私共を立たせるお方です。私共が聖書を読む、聖書の御言葉を受けるとは、そういうことなのです。主イエス・キリストと出会った人々の姿の中に、私がいる。この人に語られた主イエスの言葉は、今、私に語られた言葉であり、この人に向けられた主イエスのまなざしは、今、私に向けられたまなざしだ。聖書を読むたびに、私共はそのように思わされるのではないでしょうか。そしてその時、私共は単に自らの罪を知らされるだけではなくて、その罪から救われる道をもこの方によって与えられていることを知るのであります。主イエスは私共の一切の罪を知りながら、「我が友よ、我が僕よ、大丈夫。わたしはあなたを赦す。わたしと共に生きよう。新しく生きよう。」そのように呼びかけてくださる。この呼びかけを聞き、私共はこの方と共に、この方のあわれみの中で新しくされた者として、歩んでいこうという志が与えられるのでしょう。これが、主の日の礼拝のたびごとに私共の上に起きていることなのだと思うのです。
2.ピラトとユダヤ人たち
今朝与えられております御言葉において、主イエスと出会っているのは、主イエスを捕らえた大祭司を先頭とするユダヤ人たちと、ローマから遣わされておりました総督ピラトです。
ユダヤ人たちは、大祭司のもとで主イエスを裁きました。しかし、自分たちの手で主イエスを殺すことなく、総督ピラトの所に連れてきたのです。28節には、その時が「明け方であった。」と記されております。今の暦で4月頃ですから、朝の4時とか5時という時刻でしょう。こんな時刻に訪ねられた総督ピラトは、「何事か。」と驚いたことでしょう。そして、不愉快になったかもしれません。
どうしてユダヤ人たちは、主イエスをピラトの所に連れて来たのでしょうか。29〜31節のピラトとのやり取りの中に、その理由が記されています。29節「どういう罪でこの男を訴えるのか。」とピラトは問います。ピラトは、ユダヤ人たちがどういう罪状で主イエスを訴えているのかを問うのですが、これは当たり前の問いです。この男を裁けと言ってユダヤ人たちは主イエスを連れて来ているのですから、何の罪なのかも分からずに裁くことは出来ません。ですから、ピラトの問いはまことに当たり前の問いです。それに対して、ユダヤ人たちの答えは、全く答えになっていません。30節「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう。」というのは、「わたしたちはちゃんと裁いた結果、この男を連れて来たのです。だから、あなたはいちいち詮索することなく、わたしたちの言うとおりにすればいいんです。」そんな言い方にも聞こえます。そんな風に言われて、ピラトはカチンときたのではないかと思います。ですから、31節「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け。」とビラトは言ったのでしょう。ピラトは、「だったら、あなたたちの律法で裁けばいいじゃないか。」と言ったのです。ユダヤ人たちは大幅な自治権をローマから与えられておりまして、税金と軍隊以外は、ほとんどユダヤ人たちに委ねられていたのです。ですから、ピラトの言っていることは、まことに理に適っていると申しますか、当たり前のことを言っているのです。「こんな朝早く何だというのか。お前たちが勝手にやれば良いだろう。」といったところでしょうか。或いは、面倒なことには関わりたくないという思いもあったでしょう。しかし、31節で遂にユダヤ人たちの本音が出ます。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」要するに、ユダヤ人たちはどうしても主イエスを殺す、死刑にする、そのためにピラトのもとに来たということです。罪状なんて何でもいい、どうでもいいのです。わたしたちはこの男を殺すと決めた。だからローマの総督であるあなたは、わたしたちの言うとおりに、その権限を使ってこの男を死刑にすればいいんだ。そういうことです。
しかし、ここには嘘があります。ユダヤ人たちの自己保身の嘘です。ユダヤ人たちは、人を死刑にすることが全く出来なかったかというと、そうではないのです。使徒言行録7章にあるステファノの殉教の場面を思い出せば分かります。ステファノは最高法院で裁かれ、人々から石を投げられて殺されたのです。いわゆる石打ちの刑です。これは正式な裁判ではなくリンチだと見ることも出来ますけれど、宗教上の罪で裁かれる場合、石打ちの刑がユダヤの習わしでした。しかしこの時、ユダヤ人たちはその古くからの習わしを捨てて、ピラトのもとに主イエスを連れて来たのです。そして、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」と言うのです。
なぜ彼らはそのような面倒な手続きをとってまで、ピラトによって主イエスを殺させようとしたのでしょうか。その理由は明らかだと思います。彼らは自分の手を汚したくなかったのです。もし自分たちの裁きによって、自分たちの手で主イエスを殺せば、主イエスをメシアだと思っている群衆が、自分たちに怒りを向けるかもしれない。その可能性は十分にあります。人々が「ダビテの子にホサナ。」と叫んで主イエスをエルサレムに迎えたのは、ほんの数日前です。だから彼らは、そんな危ないことはしたくないということだったのでしょう。私共は、自分の身を守るために、しばしばこのような嘘をつくのではないでしょうか。その後で面倒なことが起きても、自分は知らない、私の責任ではない。そういう言い逃れを前もって準備しておく。しかし、神様は、主イエスは、御存知なのです。人間にはその言い逃れが通じても、神様には通じないのです。
主イエスの十字架は、そのようなユダヤ人たちの思惑、計略があってのことでしたけれど、しかしそこには、ユダヤ人たちの思いを超えた神様の御心がありました。ユダヤ人たちはそれを知る由もありませんでしたけれど。その神様の御計画とは、主イエスが十字架に架けられて死ぬことによって、神様に捨てられた者、神様に呪われた者として死ぬということでした。「木に架けられて死ぬ」という死に方は、律法においては(申命記21章22〜23節)、神に呪われた者の死に方なのです。イエス様は、私共のために、私共に代わって、神様に捨てられた者として死ぬ。それが神様の御心だったのです。それが、32節において言われていることの意味です。
3.ピラトと主イエス 〜ユダヤ人の王を巡って〜
さて、ピラトはこのようなやり取りの後、主イエスに問います。33節「お前がユダヤ人の王なのか。」この問いに対しての主イエスの答えは、34節「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
です。この主イエスの答えは、答えというよりも、ピラトに対しての問いになっています。そして、この主イエスのピラトの問いは、マタイによる福音書16章において、弟子たちが主イエスに問われた問い、すなわち、弟子たちが主イエスに「人々はあなたを洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だと言っている。」と言うと、主イエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われた、あの時と同じ問いがここにはあるのではないかと思うのです。つまり、ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか。」という問いに対して、それは、あなたがそう思うのか、それとも他の人が言っているだけなのか、と言われた。つまり、「あなたはどうなのか。」と主イエスは問われたのです。
主イエスが誰であるか。それは、牧師はこう言っている、誰それはこう言っている、そんなことを山と積み上げてもダメなのです。意味がないのです。主イエスに問わなければなりません。そして主イエスは、それを問う者に向かって、あなたはどう思うか、そう逆に問われるのです。この問いに対して、どう答えるのか。それが私共の信仰です。人がどう思っているかではないのです。
ピラトはこの問いに答えません。それどころか、「わたしはユダヤ人なのか。」と言い返します。お前がユダヤ人の王であろうとなかろうと、わたしの知ったことではない。わたしには関係ない。わたしはユダヤ人ではなく、ローマの総督なのだ。そう言いたかったのでしょう。ピラトにしてみれば、今はそんなことをしている場合じゃないということなのでしょう。ピラトは、ローマの総督として主イエスの前にいるのです。わたしは裁く者、お前は裁かれる者。お前は自分の立場が分かっているのか。そんな思いだったのではないでしょうか。しかし、ここでピラトは主イエスによって裁かれている。そう思うのです。
そして、ピラトは裁く者として、「お前は何をしたのか。」と主イエスに問いました。これは、裁く側のピラトとしては、当たり前の質問です。他の福音書を見るならば、ユダヤ人たちは主イエスを、「この男はユダヤ人の王と称しています。ローマに反逆する者です。反乱を企てています。」そうピラトに訴えていたのでしょう。もしそれが事実ならば、ローマの総督としてピラトも目をつぶるわけにはいきません。それに対しての主イエスの答えは、36節「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」でした。主イエスの国は神の国です。この世の国家ではありません。この世の国であるならば、ローマ帝国と同じレベルでの国ならば、主イエスが捕らえられる時、主イエスの弟子たちは戦ったでしょうし、主イエスをメシアとして立てようとする人々の思いに応えて、大勢の人々に武器を持たせ、隊列を組ませ、エルサレムに入って来たことでしょう。しかし、そのようなことを主イエスは全くなさいませんでした。ローマの支配を脅かすこともありませんでした。なぜなら、主イエスの国は神の国だからです。神の国は、主イエスが再臨する時、天と地が新しくされる再創造の出来事によって完成されるものです。人間の知恵や努力や信仰的熱心によって建てられるものではないのです。私共は神の国に向かって歩みます。神の国の実現を願い、求め、愛の業に励みます。しかし、それを完成されるのは神様です。私共の手で神の国を実現出来る、実現しようとする企ては、全く間違っています。
ピラトは、有能な人です。有能でなければ総督にまでなることは出来ません。彼は、主イエスの答えの中で二度繰り返された「わたしの国」という言葉を聞き逃しません。「それでは、やはり王なのか。」とピラトは問います。これに対しての主イエスの答えは、口語訳と新共同訳を読み比べますと、どっちが本当なのかと戸惑うほどに違っています。口語訳では「あなたの言うとおり、わたしは王である。」となっていますが、新共同訳では「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」となっています。口語訳の「あなたの言うとおり」なら、全面肯定です。一方、「あなたが言っていることです」というと、肯定よりも否定的ニュアンスが強い感じがします。ギリシャ語ではどちらとも訳せるのですが、私は、ここはヨハネによる福音書特有の、一つの言葉や文章に二つ、三つの意味を持たせるという書き方が現れていると考えて良いのだと思います。つまり、34節で主イエスがピラトに対して問われた「あなたはどうなのだ。」との問いがここにもあって、「わたしはその通り王であるが、あなたはどう思うのか。それは、あなたが決めなければならないことだ。」そう主イエスは言われたのではないかと思うのです。
4.ピラトと主イエス 〜真理を巡って〜
そして、主イエスは続けて、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と言われます。これに対するピラトの答えは、「真理とは何か。」でした。これもまた、幾通りものニュアンスで受け取ることが出来るものですけれど、確かなことは、ピラトは本気で主イエスに「真理とは何か。」と問うてはいないということです。本気で真理を問うということは、その真理に本気で従おうとする覚悟が求められるものでしょう。真理を本当に知ったならば、それに従って生きなければならない。少なくとも、今までの人生とは違った歩みをしなければならない。ですから、軽々しく真理は問えないし、真理を知るということはそれほどに重いことです。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」と、論語の中で孔子は語りました。真理とは、それほどのものであります。
昨日、東京神学大学後援会北陸支部主催の講演会が富山新庄教会で行われました。講師は、富山新庄教会出身で、現在は東京神学大学の准教授である小泉健先生でした。その講演の冒頭で、富山新庄教会を開拓伝道された亀谷凌雲先生の、キリスト教との出会いの場面をお話しくださいました。亀谷先生は浄土真宗のお寺の子です。北海道でキリスト教の伝道者に会うのですが、そこで祈りの話をする。亀谷先生は、浄土真宗が「祈らない宗教」であることを誇りにしていた。阿弥陀様に本当に信頼したならば、祈る必要もない。それを「ああして欲しい。こうして欲しい。」と言うのは、実にだらしない宗教だと考えていた。ところが、キリスト教は盛んに祈ることを言う。亀谷先生は、そのキリスト教の伝道者の泊まっているところまで行って談判するのです。祈る宗教などというのは、まことに不徹底な信仰ではないか。そんなことを言った。するとその伝道者は、「あなたは祈ったことがあるか。」と聞くわけです。亀谷先生は、祈らない宗教であることを誇りにしていたのですから、当然祈ったことなど無い。するとその伝道者は「それじゃ分からない。」と答えたというのです。しかも、その伝道者は、亀谷先生の帰り際に長々と祈った。亀谷先生は、大変立腹したそうです。しかし、この伝道者との出会いは亀谷先生にとって忘れることの出来ないものとなり、やがて自分自身もキリスト教の伝道者になってしまうわけです。真理を問うということは、そういうことなのです。
しかし、ここでピラトは主イエスに対して、「そんなことは問題ではない。」そう言ったのです。真理、そんなことは問題じゃない。これは、いつの時代であっても、日々の生活こそがすべてだと思う人、現実主義者と言ってもいい、そういう人の心の中にある思いでしょう。いつの時代でも、そういう人が多いのです。現代の日本でもそうです。真理で飯が食えるか、という感じでしょうか。主イエスと出会う前は、私共も皆そうだった。このピラトの姿は、真理や神様など全く問題にしないで生きていける、生きていこうとする人間の姿です。だったら、ピラトにとって大切なこととは何だったのか。それは、総督としての自分の地位を守ること、それに尽きるのではないでしょうか。私共は、これを笑うことは出来ません。聖書は、ここに私共の姿がある、そう告げているからです。確かに私共はそういう人間でした。そう思っていた。しかし、今は違う。主イエスというお方と出会って、この方こそ真理そのもの、この方こそ私の人生の目的、生きる力、私の命となった。主イエス御自身、「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われました。私共は、この主イエスの御言葉を「アーメン。」と言って信じ、受け入れた者なのです。
ピラトは真理を持ちません。真理を問題にもしなかった。しかしそれ故、彼の中から恐れが消えることはなかったのです。ローマの総督という地位にありながら、人を恐れ、人の目を気にして生きるしかなかった。だから、ピラトは、主イエスの中に死刑に値する罪を見いだせなかったにもかかわらず、十字架に架けることにしてしまったのです。また、この主イエスを裁く場面においても、ピラトは総督として高い所にいて、堂々とユダヤ人や主イエスを前にしているのではないのです。ユダヤ人たちが汚れるといって総督官邸に入って来ないものですから、ピラトの方が出てくるのです。そして、また中に入って主イエスを尋問する。すると、また出てくる。まるで御用聞きのように、ユダヤ人たちと主イエスの間を行ったり来たりしているのです。この姿は大変象徴的です。主イエスは、「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)と言われました。しかし、真理を問題にしないピラトは、自由であるように見えて、全く自由ではなかったのです。周りの人間の言葉に右往左往するしかなかったのです。主イエスを信じるということは、そのような生き方をしないでいい者になるということです。
私共は今から聖餐に与ります。聖餐に与るということは、主イエスに対して、あなたこそ我らの王、我らを自由にする真理、我らの命であると告白し、この方が与える自由、命、祝福に与るということです。今、改めて自らの罪を悔い、主の赦しに与り、新しい者として、ここから新しい一週の歩みへと歩み出して参りましょう。
[2012年11月4日]
へもどる。