1.召天者記念礼拝を迎えて
今朝私共は、先に天の父なる神様の御許に召された方々を覚えて、礼拝をささげております。先に召された方々を覚えるということは、その方々の、地上の生涯を送られた日々を思い起こすということだけではありません。その方々の信仰を思い起こし、何を目当てに、どのような希望を持って生きたのか、そのことを思い起こすことです。そして、私共もまた、その同じ目当て、同じ希望を持って、この地上の歩みを為していこうと、改めて心に刻むことでありましょう。お手許に、先に召された方々の名簿をお配りしております。70名の方々の名が記されています。昨年の召天者記念礼拝から2名の方の名前が加わりました。お一人お一人にそれぞれの人生がありました。しかし、同じ目当てを持って、同じ希望を持って生きた人々です。
2.まことの希望
今朝与えられております聖書の箇所の最後の所、ローマの信徒への手紙8章24節の半ばから、こうあります。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」聖書が私共に与える希望は、見えるものに対する希望ではないと言うのです。見えるものに対する希望とは、どんなものであっても、やがては消えていくものだからです。家を持つ、安定した生活をする、事業を大きくする、仕事を成功させる、健康で生きる、子や孫の成長を楽しむ。それらは、私共にとって大切な、目に見える希望であるに違いありません。もちろん、そのようなものは何も要らないと言うのではありません。しかし、それらの目に見える希望は、やがて死を迎えることによって、あるいは時間が経つにつれて、消えていってしまうものではないか。そのことをきちんと見据えて、それでも無くならないもの、消えていかないもの、それこそ本当の希望ではないかと言うのです。どんなことがあっても失われない希望。それを持つ者は、どのような状況の中にあっても忍耐することが出来る、そこに向かって歩むことが出来ると言うのです。
その希望とは、23節の中ほどにあります「神の子とされること、つまり、体の贖われること」なのです。これは、別の言葉で申しますと、「救いの完成」と言い換えて良いでしょう。主イエス・キリストの十字架によって、私共は救われました。主イエス・キリストを信じることによって、神様の子とされた。しかし、それはまだ完成していません。私共は神の子とされてはいますが、誰が見ても、どこから見ても神の子だと言えるような者とはなっていません。しかし、やがてそのような者とされる時が来る。必ず来る。主イエスが再び来られて、私共に復活の体を与えられ、私共が皆キリストに似た者に変えられるのです。その日を待ち望みつつ、その希望の中で、お一人お一人、この地上の生活を歩まれたのです。
そのことは、具体的にはどういうことになるでしょうか。今朝ここにお集まりの御遺族の方々の多くは、信仰を持って地上の生活を歩まれた方の夫や妻、兄弟、或いはお子さんやお孫さんであるかと思います。子を育てるというのは、なかなか大変なことです。特に、今のように物があふれているような時代でなかった時、子どもの必要を満たすということは、両親にとって本当に大変なことだったでしょう。そういう中で、お父さんもお母さんも「この子は神様に与えられた」ということを信じ、「神様のためにこの子を育てる」という思いを持って、お一人お一人を育てられたに違いないと思うのです。だから頑張ったのです。頑張れたのです。神様によって与えられる救いの完成を待ち望みつつ生きるということは、今自分に与えられている状況を神様が与えられたことと信じて受け取り、精一杯、神様の御心に適うようにと、忍耐をもってやり抜くということなのです。このやり抜く力を、まことの希望は与え続けていくということなのです。
3.”霊”の初穂(1)
では、どうしてそのような救いの完成の日を信じ、それを待ち望み、困難の中で生き抜くことが出来たのでしょうか。それは、23節にあるように、「”霊”の初穂をいただいて」いたからです。「初穂」というのは聖書特有の言葉ですので、少し説明が必要でしょう。初穂というのは、その字の通り、その年の収穫の初めの物ですけれども、それは収穫全体を代表するものであり、収穫の中の一番良いものを意味しています。つまり、「”霊”の初穂をいただいている」とは、聖霊なる神様が与えてくださる救いの恵み全体を代表するような、神様が与えてくださる救いの恵みの中の一番良いものを与えられているということなのです。ですから、やがて与えられるであろう、救いの恵みの完成を信じることが出来るということなのです。救いの完成というものは目に見えません。けれども、あるかないか分からない、そうなるかどうか分からない、そういうものではないのです。既に、初穂をいただいている。だから、揺らぐことなき確信を持って救いの完成を待ち望むことが出来るということなのです。
では、その「”霊”の初穂」とは何かと申しますと、私共を神の子とする霊、神の霊、キリストの霊である聖霊を与えられるということです。聖霊を与えられると申しますと、何か不思議な力を与えられたり、常軌を逸したような言葉や行動をするかのように受け取られかねないのですけれど、そうではありません。14〜15節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」とあります。「”霊”の初穂」をいただいているとは、聖霊を与えられて、神様に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになるということです。神様に向かって「父よ」と呼ぶ。父と呼ぶことが出来るのは、その人の子どもだけでしょう。私共キリスト者が、神様に向かって「父よ」と呼びかけ祈ることが出来るということは、私共を神の子とする霊、聖霊を与えられたからなのです。
先に召された方々の御遺族の方は、その方々が祈る姿を見たことがあるでしょう。何を祈っていたのか、その言葉はあまり覚えておられないかもしれませんけれど、その最初の所で、「父なる神様」とか「天のお父様」とか「全能の父なる神様」とか、必ず神様に向かって「父よ」と言って呼びかけていたのは覚えておられると思います。本来、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのは、まことの神の子である主イエス・キリストだけです。しかし神様は、この神様の御子であられるキリストの霊である聖霊を私共に与えてくださり、天地を造られた神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈ることが出来る者としてくださったのです。
まことに不思議なことですが、神様に向かって「父よ」と呼ぶことなど誰でも出来そうなのですけれど、これがなかなか出来ないのです。私は、教会に通うようになって一年半ほどで洗礼を受けたのですけれど、この一年半ほどの間、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈るということが、どうしても出来なかったのです。たまに祈ってみる。しかし「父なる神様」と口ずさんだ途端に、何か空々しい気分になってしまったことを覚えています。まだ、聖霊が与えられていなかったからなのでしょう。しかし、洗礼を受ける前、何故か「父なる神様」と呼んで祈るようになりました。そして、「私の罪を赦してください。」と本気で祈ったことを覚えています。
父なる神様に向かって「父よ」と呼んで祈る者となる。それは、聖霊を与えられた確かなしるしです。そしてそのことは、私共が神様の子とされたということを意味しています。子と申しましても、それは実の子ではなくて養子です。本当の子は、神様の独り子である主イエス・キリストしかおられません。
4.”霊”の初穂(2)
もう一つ、ここで「”霊”の初穂」について申しますと、天地の造り主なる神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るようになったということは、神様と私共との間に愛の交わりが与えられたということでもあります。私共にとって一番大切なもの、無くてはならないもの、私共の人生、私共の命を意味あるものにするもの、それは愛でありましょう。目に見えるどんなに素晴らしいものを手に入れても、愛が無ければ、私共の人生は生きることが辛くなることはあっても、喜びをもって、感謝をもって、生き生きと生きることは出来ません。しかし、私共は人生において、何度かこの愛の破れというものを経験するのです。それは本当に辛いことです。誰もそんな経験をしたくはありません。しかし、そういうことがあるのです。でも、そのような中にあっても、神様の愛は破れることがありません。この破れることのない愛に慰められ、励まされ、私共は生きることが出来るのです。そして、この愛の交わりはもっと完全な形で完成することになる、そのことを確信させるに十分なものなのです。神様の愛に包まれて、神様と共に歩む中で、やがて破れることのない確かな愛の交わりを私共も形作ることが出来るようになる。そのことを信じ、希望の中でその日を目指して生きるのです。この地上における私共の愛は破れやすいものです。しかし、救いの完成に与るとき、私共は決して破れことのない神様の愛を身に帯びて、互いに愛し合う交わりを形作ることが出来る。このことを信じることが出来るのです。
5.キリストの共同の相続人
さて、私共はこの地上での歩みにおいて、”霊”の初穂を与えられ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るようにされ、神様との愛の交わりを与えられていると申しました。このことが、やがて与えられるであろう私共の救いの完成を私共に確信させるのですけれど、この救いの完成の約束を、17節では別の言い方で言い表しています。それが、「キリストと共同の相続人」という言葉です。
何度も申しますが、神様の本当の子は、神の独り子である主イエス・キリストただ一人です。しかし、神様は私共に聖霊を与え、神様の養子として迎え入れてくださいました。そのしるしが、神様を「父」と呼べることであり、神様との愛の交わりを与えられているということであります。そしてそれは、私共が主イエス・キリストと同じ良きものすべてを神様から受け取ることが出来るということを意味しているのです。子なる神である主イエス・キリストは、父なる神様から何を相続しておられるでしょうか。いろいろ挙げることが出来ます。
第一に挙げるべきは、永遠の命でありましょう。主イエス・キリストは十字架にお架かりになり、三日目に墓の中から復活され、私共を支配している死を打ち滅ぼされて、復活の命、肉体の死で終わることのない永遠の命を持っておられることを証明されました。私共は、このキリストの命、復活の命、永遠の命を与えられることになっているということであります。
第二に、全き愛というものを挙げることが出来るでしょう。主イエス・キリストは、神様を愛し人を愛して、御自身の命を十字架の死において捨てられるほどに、その愛を全うされました。私共は、自己愛というものから、本当に抜け出せない存在です。それは本能と言っても良いほどに、私共の心の奥底まで染みついています。それは、国と国との間でも同じです。竹島や尖閣諸島において起きております領土問題というのは、国家としての自己愛の最たる現れでしょう。この領土問題というのは、主イエス・キリストが再び来られて、私共が新しい人として、キリストと同じ相続人として、全き愛を互いに与え会う日まで続くのだろうと思わされます。この世界の争いのほとんどすべては、この自己愛が互いにぶつかり合う所で生じると言っても良いほどです。それが、やがて乗り越えられる日が来るのです。終末においてです。神の御国においてです。キリストと同じ愛、全き愛に互いに生きるようになるからです。
第三に、全き謙遜を挙げることが出来るでしょう。私共はまことに傲慢な者です。人より前へ、人より上へという思いがあります。人に軽んじられれば、傷つき、腹を立てます。誰でもそうです。しかし、主イエス・キリストはそうではありませんでした。全く罪のないお方が、唾を吐きかけられ、ののしられ、十字架に架けられても、「おまえが神の子なら、そこから降りてみろ。」と言われても、彼らの救いのために祈られたのでした。馬小屋で生まれ、大工の息子として育ち、罪人の一人として十字架の上で死なれたのです。天の高きにおられた方が、そこまで低きに下られた。この主イエス・キリストのお姿を思います時、私共は自らの傲慢に恥ずかしくなるのです。そして、愛する者のために、隣人のために、少しでも仕える者として歩んでいこう。そのような志を与えられるのです。確かに、私共はこの地上にある限り、まことに不完全で、欠けが多く、傲慢で、愛することにおいて弱く、ずるい者であります。しかし、変えられます。変えられ続けていきます。それが、聖霊の初穂をいただいて新しく生き始めたキリスト者の歩みなのです。この歩みは、平坦であるとは限りません。苦労はあるのです。キリスト教は「信じれば、すべてが上手くいく」というようなことは教えません。それは嘘だからです。ペトロもパウロも苦労したのです。苦労どころか、殉教したのです。しかし、その苦労はキリストの苦しみと一つとされるものであって、逆に、やがて与えられるところの栄光、主イエス・キリストの栄光、救いの完成の栄光を確信させるものとなるのです。「初穂」は、やがて与えられる完全な収穫、主イエス・キリストに似た者とされ、復活の命、永遠の命に生きる者とされ、父なる神様との、隣人との完全な愛の交わりを形作る者とされる、この希望を確かなものとして私共に与えます。
第四に、全き智恵と知識を挙げることが出来るでしょう。私共は、この地上の歩みにおいて、何が正しく何が間違っているのか、何が御心に適い何が御心に適わないのか、いつも正確に判断できるわけではありません。特に、自分の利害が絡みますと、その判断は極めて怪しくなります。しかし、主イエス・キリストはそのことをいつも正しく判断されました。御自身が十字架にお架かりになった時も、ブレることはありませんでした。或いはまた、私共はこの地上の生涯において、「どうして?」と問わざるを得ない時があります。しかし、私共には隠されていて、どうしてこんなことが起きるのか分からないことがたくさんあるのです。東日本大震災で被災した人たちはどうしてあんな目に逢わなければならなかったのか?誰も分からないでしょう。私共には分からないこと、隠されていることがたくさんあります。しかし、救いの完成の日には、私共は主イエス・キリストと同じように、全き智恵と知識を与えられることになっているのです。
このようなものは、挙げればきりがありません。要するに、キリストと似た者にされるということです。まことにありがたいことです。
私共の愛する、先に天の父なる神様の御許に召された一人一人は、この救いの完成の日を目指して、この地上の人生を走り抜いたのです。今朝、私共が最後に確認したいことは、私共は父なる神様の御前において、キリストに似た者に造り変えられた者として、互いに相見えるということです。短気だったあの人が、傲慢だったあの人が、体の弱かったあの人が、キリストに似た者となるのです。私共もです。何という幸いでありましょう。何という希望でありましょう。私共もこの希望の中、与えられたこの地上の馳せ場を、天の御国に向かって進んで参りたいと思うのであります。
[2012年10月28日]
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