富山鹿島町教会

礼拝説教

「鶏鳴」
詩編 85編2〜14節
ヨハネによる福音書 18章15〜18節、25〜27節

小堀 康彦牧師

1.主イエスの裁きとペトロの裁き
 今、ペトロが主イエスを三度知らないと言ってしまった所をお読みしました。15〜18節、そして少し飛んで25〜27節を読みました。ヨハネによる福音書は、12〜14節の主イエスが捕らえられアンナスの所に連れて行かれた記事に続いて、15節からペトロが主イエスの裁かれている大祭司邸の中庭に入り、主イエスとの関わりを否定する一回目の場面が記されています。そして、18節からの主イエスが尋問を受けた記事に続いて、25節から二回目と三回目の否定の場面が記されている。それはちょうど、舞台の右の方で主イエスの場面、舞台の左の方でペトロの場面があって、それがライトを点けたり消したりして話が進んで行くような感じです。まず主イエスが捕らえられる場面が照らされ、次にペトロが中庭に入って来て一度目の否定の場面が照らされる。そして次に、主イエスが尋問される場面が照らされ、最後にペトロが二度目、三度目の否定をする場面。そんな風に記されているわけです。
 このような書き方をしている意図は、主イエスの裁きとペトロの裁きを対比しようとしているのだと思います。今、ペトロの裁きと申しましたが、もちろんペトロは正式な裁きの場に立たされているわけではありません。女中や人々から、主イエスの弟子の一人であることを指摘され、「違う」と言っただけです。別に正式な裁きの場ではない。しかし、ヨハネによる福音書は、裁きの場としてこれを記しているのだと思います。それは、人間による裁きではなく、神様の御前における裁きです。主イエスは、そのことを弁えて、正々堂々と神の御子の権威をもって大祭司に相対しています。一方ペトロは、神様の御前に自分が立たされていることをまるで知らずに、主イエスとの関係を否定してしまうのです。ここに、主イエスの強さとペトロの弱さ、主イエスの真実とペトロの嘘が対比されているわけです。

2.日常の小さな出来事の中での信仰告白
 13章の終わりの所で、ペトロは、主イエスに向かって「あなたのためなら命を捨てます。」と明言いたしました。それに対して主イエスは、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と告げられました。ほんの10時間ほど前のことです。
 ペトロのこの時の気持ちに嘘はなかったのだと思います。ペトロは、大祭司の前で裁かれる自分の姿を思い浮かべていたのかもしれません。ひょっとすると、そのような状況だったのなら、ペトロも堂々としていられたのかもしれません。心の備えも覚悟もした上での裁きの場であったのなら、「あなたのためなら命を捨てます。」と言い切った時のペトロでいられたのかもしれません。しかし、不意を突かれたような女中や人々からの問いに、ペトロはまことにもろくも主イエスとの関わりを否定してしまったのです。
 私共は、この主の日の礼拝のたびに信仰告白を告白いたします。御言葉を受け、その応答として信仰を告白する。御言葉によって信仰を新しくされ、告白するのです。私共は、この信仰告白を大切にする伝統の中で、信仰を与えられ、育まれてきました。信仰告白こそ私共を結び合わせる絆であり、使徒以来の信仰継承のしるしであり、私共が神の子として救われ、永遠の命を与えられる根拠となるものです。しかし、信仰告白というものは、持っていれば良いというものではないでしょう。まさに、告白していなければ意味がない。この告白に生きていなければ、意味がないのです。そして、私共が信仰を告白する場、信仰を告白して生きる場とは、日常の生活の場なのです。裁判の場に引き出されて、その時自分の信仰をどう言い表すかというようなことではないのです。私共のほとんどは、そんな場に引き出されることは一生の間、まず無いのです。そうではなくて、私共の信仰が問われるのは、日常の何気ない一コマの中でなのです。そして、その場こそが、神様の御前における裁きの場であるということなのです。
 主イエスは言われました。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイによる福音書10章32〜33節)私共は、この主イエスの言葉をしっかり受け止めなくてはなりません。主イエスは、私共が自らの信仰を告白しつつ生きることを求めておられるのです。信仰告白というものは、礼拝の中で唱えていれば良いというようなものではないのです。
 先週の説教の中で、次の主の日に行われる伝道礼拝の案内のハガキを自分の名前で出しましょう、と申しました。それは、私共が日常において行う、一つの信仰告白だからです。伝道は、神様の御前における信仰告白なのです。

3.「あの罪」と決別して生きる
 さて、ペトロはここで三回主イエスとの関わりを否定したのですけれど、この三回というのには意味があると思います。三というのは聖書においては完全数ですから、ペトロは、完全に、徹底的に、言い逃れが出来ないほどに、主イエスとの関係を否定したということなのです。一回なら、つい、たまたま、そんな言い訳も出来るかもしれません。しかし、三回です。もうこれは逃れようがありません。
 私共はここで、何故この記事が四つの福音書すべてに記されているのかを考えてみる必要があるでしょう。私共は、このペトロの姿に自分の姿を重ね合わせて、自分もこのペトロと同じ弱さがある、そう思うと思います。確かにそうなのです。このペトロの弱さ、このペトロの情けない姿と、無縁の人はいないでしょう。そして、このペトロさえも主イエスに赦されるのだから、私も赦される。赦されている。そんな風に思う人もいるのではないかと思います。確かにペトロは赦されました。復活された主イエスは、ペトロを再び召し出し、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。ローマ法王は、このペトロに与えられた主の御命令を継承する者、ペトロの後継者としてすべての主イエスの羊を飼う者であると言っているわけです。確かにペトロは、この三度主イエスを否認したことを赦されました。しかし、ペトロにとって、もう赦されたのだから、あの出来事は無かったことにする。そんな風にはならなかった。だから、この出来事が四つの福音書のすべてに記されているのです。ここが大切です。あれはもう無かったことにする。あれはもう忘れた。そうはならない。そのことが本当に大切なのです。私共の罪は赦される。主イエスが私共のために、私共に代わって、十字架の裁きを受けてくださったのですから、私共は赦されているのです。それは本当のことです。しかしそれは、私共の犯した罪が、その事実が、無くなったということではないのです。
 ペトロは、自分が主イエスの福音を宣べ伝える者として生かされ歩む中で、この日の出来事を忘れることは決してなかったのです。彼は罪赦された者として生きました。それは、二度とあの日と同じことをしない者として生きるということだったのです。あの日の自分と決別し、新しく罪赦された者として生きるということだったのです。

4.福音は証言として伝えられる
 何故この出来事が四つの福音書に記されているのか。それは、ペトロが忘れることの出来ない出来事として、何度も何度も語ったからです。彼にとって、主イエスの福音、罪の赦しを語るということは、このように三度主イエスを否認した私、主イエスを三度も裏切った私を主イエスは赦してくださり、福音を宣べ伝える者として立たせてくださった。そのことと切り離すことは出来なかったのです。罪の赦し、主イエスの福音というものは、私が赦されたという出来事と切り離して伝えられることはないのです。主イエスの福音というものは、説明によって伝えることが出来るものではない。福音は、ただ証言によってのみ伝えられるものなのです。
 このことはパウロの場合も同じです。パウロは、主イエスの弟子たちを迫害していた者でした。ところが、ダマスコ途上において復活の主イエスと出会い、主イエスの弟子とされ、主イエスの福音を宣べ伝える者となりました。しかしパウロは、自分が主イエスの弟子たちを迫害していた者であったという事実を忘れることはありませんでした。そのような私が赦され、主イエスの弟子とされた。これが福音なのです。彼は二度と、律法を守らなければ救われないという所に立つことはありませんでした。そんなことをすれば、主イエスの十字架を無駄にすることになるからです。主イエスの十字架を無駄にしない。それがパウロの、そしてペトロの、主イエスによって新しくされた者の歩みなのです。
 もし、ペトロがこの主イエスを三度知らないと言った時と同じことをその後何度も繰り返していたのなら、この記事が福音書に記されることはなかったはずです。彼は赦され、変えられたのです。だから、ペトロはこのことを語ることが出来たし、この記事が四つの福音書すべてに記されることとなったのです。福音書が記された時、既にペトロは初代教会における最も重要な人物となっていました。しかし、この記事が記された。それは、この出来事が初代教会において、みんなが知っていることだったからでしょう。それほどまでに、ペトロはこの出来事を何度も何度も、誰に対しても語ったということなのです。そして、初代教会が知っていたペトロは、あの三度主を知らないと言ったペトロではなかった。彼は変えられていたのです。ローマで殉教するほどまでにです。
 私が申し上げたいことは、主イエス・キリストの罪の赦しの福音は、こんな罪を犯す私でも赦されたのだからこのままで良いのだ、そんな所に私共を置くことは決してないということなのです。この罪の許しを受けた私共は、自らの罪を恥じて、二度とそのような歩みはすまいと心に定め、変えられるということなのです。

5.強い主イエスと共に、聖霊を注がれて生きる
 そんなことを言っても、私共は信仰を与えられても罪を犯すではないか。その通りです。しかし、私共はそのたびに、主イエスの赦しを求め、主イエスの赦しに与ります。そして、新しくそこから歩み出すのです。そこで変えられていくのです。変えられ続けていくのです。
 良いですか皆さん。ここで、強い主イエスと弱いペトロが対比されていると申しました。それは、この弱いペトロが、強い主イエスによって守られ、支えられているということを示しているのです。ペトロは弱い。私共も弱い。しかし、主イエスは強いのです。その強い主イエスが、弱いペトロを赦し、再び弟子として召し出し、生かすのです。新しく生かされたペトロは、強い主イエスと共に歩む者とされます。主イエスの霊である聖霊を与えられて、この聖霊の導きの中で生きる者とされます。そこでペトロは変えられ続けていったのです。
 ペトロが三度主イエスとの関係を否定した時、鶏が鳴きました。他の三つの福音書は、ペトロがその時「泣いた」と記しています。ヨハネによる福音書は、ペトロが「泣いた」とは記しません。私は、この時ペトロが泣いたかどうかは、それほど大切ではないと思います。ペトロがこの時に泣こうと泣くまいと、この出来事を生涯忘れることのない自らの罪、弱さの出来事として心に深く刻んでいたことは間違いないからです。それより、この時「鶏が鳴いた」ということが大切なのです。これは、主イエスの預言が成就したということです。主イエスは、ペトロが三度知らないと言うことを御存知であったということです。その上で、主イエスは十字架に就かれたということなのです。主イエスの十字架は、このペトロの三度知らないと言った裏切りの罪をも担われたということなのです。ペトロは、この鶏の鳴く声を聞くと共に、主イエスが10時間ほど前に、自分がこうしてしまうことを予告しておられたことを思い出した。そして、主イエスはすべてをお見通しの上で、自分たちと共に歩んでくださっていたことを知ったのです。そして彼は、復活の主イエスと出会って、再び主イエスの弟子として生きる者とされた。
 彼は、主イエスの福音を宣べ伝える者として、今まで罪を犯し続けてきた多くの人と出会った。その時彼は、「あなたの犯した罪を、主イエスはすべて御存知です。その上で赦してくださいます。主イエスが、あなたに代わって裁きを受けられました。だから、悔い改めなさい。あなたは新しくなるのです。洗礼を受けなさい。」そう告げることが出来たのです。私を赦してくださった主イエスが、目の前のこの人を赦して新しくしてくださらないはずがない。そのことをペトロは確信し、そのことを告げ続けたのです。キリストの教会は二千年の間、この福音を宣べ伝え、この福音に生き、この信仰を告白してきたのです。

6.悔い改めつつ生きる
 先日、刑務所で教悔師として受刑者の方と話をしておりましたら、受刑者の方がこう言われました。「頭に来ることがあった時、『主の祈り』を唱えたら、気が静まって手を挙げずに済んだ。」私は、『主の祈り』と『使徒信条』をコピーしたものを、私の担当の受刑者の方に渡して、朝夕これを唱えて覚えてしまいなさいと言っております。私に言われたとおりにして、主の祈りを覚えてしまった人が何人かいます。その中の一人がそう言われた。「良かった。」と思いました。「祈り」というものは、神様との交わりです。神様は私共をいつも見ていてくださいますが、こちらが神様を見上げなければ、それは分かりません。祈る時、私共の視線は神様に向けられる。その時、私共と神様の視線が合うわけです。そして、その時私共は神様の御前にある私を発見し、神様の御前に生きる自分を取り戻すのです。主の祈りを唱えたら、頭に来ていた血が引いて、気が静まったというのは、そういうことなのでしょう。
 受刑者にとって一番大切なことは、自分は本当に悪いことをしたということに気付いて、もう二度とこんな所には来ないと思うことです。しかし、これが本当に難しいのです。それは、何も受刑者に限ったことではありません。本当に自分が悪い。自分は何という人間か。なかなかそう思えないのです。罪が見えない、罪が分からないのです。罪が分からなければ、悔い改めようがない。新しくなりようがないのです。
 しかし、新しくなりたいと願うなら、すでに道は開かれています。ここに来れば良い。ここに来て、主イエスのまなざしの中に身を置けば良い。そうすれば、私共は新しくなれる。悔い改めと共に、変えられ続けるのです。私共は弱い。しかし、主イエスは強いのです。この方の御手の中で、私共は変えられるのです。
 次の土曜日、日曜日に、一人でも多くの人がここに集い、新しく生き始める人が起こされることを共に祈りましょう。

[2012年10月14日]

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