1.ヨハネによる福音書が示す主イエスの姿
ヨハネによる福音書を共に読み進めておりますが、今朝与えられている所は主イエスが捕らえられる場面です。ヨハネによる福音書はここでも、神の御子としての主イエスが、その力と権威とをもって自らその道を選び取った、そのように記しております。主イエスは嫌々、仕方なく捕らえられたのではなくて、これから十字架に架けられることもすべて承知の上で、堂々と捕らえられたと記すのです。ここには、いわゆる「ゲツセマネの祈り」もありませんし、主イエスを裏切るユダが主イエスに接吻したという記述もありません。主イエスの祈りは17章でもう終わっておりますし、その祈りも大祭司の祈りと呼ばれる、神の御子としての堂々たる祈りです。ユダは、この場に主イエスを捕らえようとする人々を連れて来て、役割を終えます。更に言えば、他の三つの福音書においては、主イエスを捕らえるために来た人々の中に兵隊はいませんでした。しかしここには、3節に「一隊の兵士」が一緒であったとあります。この「一隊の兵士」というのは、10人位をイメージしそうですが、ここで用いられている言葉は600〜1000人の兵隊を意味する言葉です。正確な人数はもちろん分かりませんが、大変な数の人々が主イエスを捕らえるために動員されているのです。そして、その人々を前に、主イエスは少しも臆することなく、堂々と、自分から捕らえられた。ここで告げられていることは、はっきりしています。主イエスは、ユダヤ当局者やローマ帝国の力によって十字架に架けられたのではなくて、神様の救いの御業を成就するために十字架にお架かりになったのだということです。世の歴史家たちは口を揃えて言います。主イエスはユダヤ当局者とローマ帝国の力によって十字架に架けられたのだ。十字架は主イエスの敗北であり、彼はこの現実的で強大な力の前に無力であった、と。もしそうであるならば、主イエスの十字架はゴルゴタの丘の上に立った三本の十字架の中の一つに過ぎず、主イエスは一緒に十字架に架けられた他の二人の犯罪人と何も変わらず、私共の救いの根拠にはならないでしょう。しかし、そうではないのです。主イエスは、神の子としての力と権威とをもって自ら十字架への道を歩み、私共の救いとなってくださった。ですから、この主イエスと共に歩む私共は、主イエスと共に、何も臆することなく神様が備えられた道を歩むことが出来るし、そのように歩むよう促されるのです。
遠藤周作の小説に代表されるような、力もなく、ただ愛だけを説く主イエスの姿というのは、ヨハネによる福音書が語る主イエスの姿ではありません。主イエスは、神の御子としての力と権威とをもって自ら捕らえられ、十字架につけられたのです。そして復活された。その主イエスが私共と共にいてくださり、私共の一切の歩みを支え、導いてくださっているのです。
2.主イエスを捕らえに来た人々
順に見て参りましょう。
1〜2節に「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。」とあります。エルサレムは小高い丘の上にある小さな町です。そこに、過越の祭りのために大勢の人たちが集まって来ている。主イエスの一行は、エルサレムの町の中に泊まるのではなくて、エルサレムからキドロンの谷を挟んだオリーブ山にある園、たぶんこれがゲツセマネの園だと思いますが、そこで夜を過ごされていたのだと思います。当時、富裕層の人たちはエルサレムの郊外に園を持っていました。主イエスを信じる誰かが、主イエスの一行が夜を過ごすためにこの園を用意したのでしょう。当然ユダはそのことを知っておりましたから、夜になればこの園に戻って来る、その時に捕らえれば良いと考え、主イエスを捕らえようとする人々を案内して来たのでしょう。
13章21節以下を見ますと、主イエスは食事の時に、自分を裏切ろうとしている者が弟子たちの中にいることを告げ、ユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい。」と言われました。主イエスはユダが裏切ることを御存知でした。ですから、捕らえられることを避けようとすれば、いつものこの園に来ることはなかったのです。しかし来られた。主イエスは、御自身が捕らえられることを百も承知の上で、ここに来られたと考えるしかありません。
ユダが連れて来た人々は、先程申しましたように「一隊の兵士」が一緒ですから、実に大勢の人が松明や灯火そして武器を手にしてやって来たのです。1000人もの人が松明を手にして来れば、それは相当明るかったでしょうし、遠目にも分かったでしょう。この物々しさは、主イエスが黙って捕らえられることはないだろう、相当の抵抗があるはずだ、と考えての動員だったと思います。主イエスと11人の弟子たちが本気で抵抗すると考えたなら、このくらいの人員を配備するのは当然でしょう。私共が何となく、20〜30人の人たちが捕らえに来たとイメージするのは、主イエスがおとなしく捕らえられたことを知っているので、大勢の人は必要ないと考えてしまうからだと思います。12人の男が本気で抵抗することを前提にこれを捕らえようとすれば、何百人という単位で人を揃えるのは当然のことです。
3.「わたしである」(エゴー・エイミ)
ここで、主イエスと主イエスを捕らえに来た人々との間でやりとりが為されます。まず、主イエスが進み出て、「だれを捜しているのか。」と問います。主イエスは前に進み出て、自らそう言われたのです。彼らが、「ナザレのイエスだ。」と答えると、主イエスは「わたしである。」と言います。これを聞くと、主イエスを捕らえに来た人々は後ずさりして、地に倒れた、と聖書は記しています。不思議な光景です。どうして人々は主イエスの返事を聞いて後ずさりし、そして倒れたのでしょうか。武器を手に持ち、何十倍という圧倒的に数に勝る人々が、どうして主イエスの言葉に後ずさりしたのでしょう。しかも倒れる。ここで注目すべきは、主イエスの答え、「わたしである」です。ここでも三度この言葉が繰り返されています。この「わたしである」というのは、ヨハネによる福音書を読み進める中で、今まで何度も出て来ました。その都度お話ししてきましたが、この言葉はヨハネによる福音書における重要なキーワードの一つです。
ギリシャ語では「エゴー・エイミ」、英語だと「I am」です。これが一体何かということですが、出エジプト記3章14節で、モーセが神様に名前を尋ねますと、神様は「わたしはあるという者だ。」とお答えになりました。この「わたしはある」というのが、「エゴー・エイミ」なのです。ヘブル語では「ヤハウェ」となります。つまり、主イエスはここで「わたしは神だ。」と宣言し、その言葉によって人々は後ずさりし、地に倒れたということなのです。人々は主イエスの言葉の力に打たれたのです。神の権威に打たれたのです。ここに、主イエスが「神の御子としての力と権威とをもって」ということがはっきり現れています。これが分からないのは、神様の力も権威も知らないからです。ルカによる福音書2章にあるように、野宿していた羊飼いたちに救い主の誕生を知らせるために天使が現れた時、羊飼いたちは「非常に恐れた」のです。天使に会っても非常に恐れるのです。まして、神様がその力と権威とをもって主イエスの言葉と共に臨まれたのなら、恐れて打たれるのは当たり前のことです。多分、ここで主イエスが「下がれ。」と言われたなら、誰も主イエスに手を出すことは出来なかったでしょう。主イエスは、捕らえに来た人々の真ん中を通って、悠々とその場を去られたに違いありません。今までも、そんな場面は何度もありました(10章39節、8章59節、8章20節、7章44節等)。今までは、まだ時が来ていなかった。しかし、この時主イエスはここを去ることなく、自分から捕らえられます。時が来たからです。
4.弟子を逃がす主イエス
ただこの時、主イエスは自分は捕らえられますけれど、弟子たちは逃がすのです。8〜9節「すると、イエスは言われた。『「わたしである」と言ったではないか。わたしを捜しているなら、この人々は去らせなさい。』それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした。』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」とあります。他の福音書では、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げたと記されていますけれど、ヨハネによる福音書はそのようには記しません。事実としては、弟子たちは捕らえられる主イエスを見捨てて逃げたことになるのでしょうけれど、ヨハネによる福音書は「主イエスが弟子たちを去らせた」と記すのです。「あなたがたが捜しているのがわたしなら、わたしを捕らえれば十分だろう。この人々は去らせよ。」そう捕らえに来た人々に告げ、弟子たちを去らせた。そうすることによって、主イエスは弟子たちを守られたと言うのです。
十字架に架けて殺すために主イエスを捕らえようとしに来た人々が、その場に居合わせた弟子たちに目もくれずに、主イエスだけを捕らえるというのは不自然ではないでしょうか。その場にいる弟子たちも一緒に捕らえようとする方が自然です。たぶん、捕らえに来た人々はそう思っていたはずです。しかし、そうならなかった。否、そう出来なかったのです。主イエスが弟子たちを守られたからです。
私共は、主イエスを見捨てて逃げた弟子たちの弱さ、弟子たちの卑怯さ、弟子たちの罪に、目を向けがちです。それは、私共自身の姿が弟子たちのそれと重なるからでしょう。しかし、ヨハネによる福音書は、その弱い弟子たちを主イエスは守られたと記すのです。なぜなら、主イエスはこの弱い、卑怯な、罪に満ちた私共を救うために来てくださったからです。そしてそのことこそ、ヨハネによる福音書が伝えたいことだからです。
主イエスは、17章の大祭司の祈りの中で、12節「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。」と告げられました。この主イエスの御言葉通り、主イエスは、「わたしはある」との神様が与えてくださった御名によって、弟子たちを守られたのです。
5.剣を鞘に納めよ
ところがこの時、シモン・ペトロは自分の持っていた剣で、自分たちを捕らえに来ていた大祭司の手下マルコスに打ってかかり、右の耳を切り落としたのです。どうしてペトロは、捕らえに来た人々に剣で襲いかかったのでしょうか。主イエスを守るためでしょうか。いや、そうではなかったと私は思います。ペトロは、捕らえに来た人々の人数に圧倒され、恐れ、主イエスがお語りになっている言葉も耳に入らず、恐れのあまり襲いかかってしまったのではないでしょうか。何百人という、武器を持った人々を前に、冷静でいられる人などいないでしょう。主イエスは弟子たちを守ろうとしている。しかし、それが分からずに剣で襲いかかるペトロ。主イエスを先頭にして、まだにらみ合いが続いているこのような場合、一人が斬り掛かると、それを合図にするかのように戦いが始まってしまうものです。ペトロの行為は、そのような結果を招きかねない、前後の見境のない、恐怖に駆られた愚かな行為であったと思います。
主イエスは、戦いが始まる前に決然とペトロに告げます。「剣をさやに納めなさい。」ペトロは、この主イエスの言葉で我に返ったのだと思います。ペトロは剣を納め、争いは広がることなく収まりました。
今、尖閣諸島、竹島の領有権を巡って、日本と中国、日本と韓国は厳しい状況にあります。どのようになっていくのか、私には分かりません。しかし、どちらかが軍隊を出したなら、そしてどちらかが一発の銃弾を放ったなら、とんでもないことになってしまう。そのことだけは分かります。私は、この主イエスの「剣をさやに納めなさい」との御言葉は、今、日本に、中国に、韓国に、神様の権威をもって主イエスがお語りになられているのだと思います。
ペトロは恐れのあまり、自分を守るために剣を持って襲いかかった。しかし主イエスは、剣を納めなさいと言われる。それは、「ペトロ、あなたはその小さな剣一本でで私を守ろうというのか。止めなさい。そんな必要はない。それとも、あなたはその剣で自分を守ろうとしているのか。止めなさい。それも無駄なことだ。相手を傷つけ、自分を守ろうとするのか。そんな必要はないのだ。わたしはあなたに守られる必要はないし、あなたはわたしが守る。だから、剣をさやに納めなさい。」そう主イエスは言われたのでありましょう。
私共はしばしば、自分を守るために相手を傷つけるものです。そうしなければ自分を保てないと思っている。しかし、そうではないのです。私共は、主イエスによって守られているのです。だから、自分を守るために相手を傷つける必要はないのです。もう剣はいらないのです。ハリネズミのように周囲にトゲを出して、触れれば痛い目に遭うぞ、そんな風に心に鎧を着けて生きる必要はないのです。主イエスが守ってくださるからです。また、主イエスを守るための剣も必要ないのです。主イエスは私共が守らなければならないような弱い方ではないからです。私共に剣は要らないのです。
6.父がお与えになった杯は、飲むべきではないか
主イエスは「剣をさやに納めなさい。」とペトロに告げると、続けてペトロに言われました。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」「父がお与えになった杯」とは十字架であることは明らかでしょう。主イエスは、十字架から逃げないのです。それが、父なる神様が自分に与えられた杯だからです。それによって、神様の救いの御業が成就するからです。
私共は弱いのです。ペトロと同じです。しかし、主イエスはそのペトロに「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と告げられた。ペトロはこの言葉に従って、剣を納めました。しかし、この時はまだペトロには、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と主イエスが言われた言葉の意味は、十分には分からなかったのではないかと思います。主イエスはここで、単に自分がこれから十字架に架かるということをペトロに告げたのではないと私には思われます。これは主イエスが十字架にお架かりになる前に、ペトロに与えた最後の言葉です。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」この言葉をペトロは決して忘れることはなかったと思います。そして、やがて彼はこの言葉の意味を知ります。復活の主イエスと出会い、再び主イエスの弟子として召し出され、聖霊を受け、主イエスの福音を宣べ伝えていく者として歩み続ける中で、彼はこの主イエスの言葉の意味をはっきり知っていったのです。そして、主イエスと同じように捕らえられ、彼自身もまた、逆さ十字架に架けられることになるのです。
弱いペトロが変えられたのです。主イエスが共におられる。肉体の死を超えた命の君、天地を造られたただ一人の主が、私と共にいてくださる。この恵みの事実に目を開かれ、その恵みの中に生き切る者とされて、彼は変えられたのです。私共も変えられます。いや、既に変えられ始めています。だから大丈夫なのです。自分の弱さにばかり目を向けてはなりません。主イエス・キリストが共にいてくださるという恵みの現実は、私共の弱さを覆い尽くし、私共を変えていく力がある。この神の力に守られて、私共は歩むのです。神の国に向かって歩むのです。
[2012年9月30日]
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