富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の愛、我が内にあり」
出エジプト記 19章1〜6節
ヨハネによる福音書 17章20〜36節

小堀 康彦牧師

1.主イエスは私共のために祈られた
 私は牧師として歩みながら、神様が与えてくださる救いの恵みというものは、私共が考え、理解しているよりも、ずっとずっと大きいことを教えられるのです。私共が分かっているのは、神様が与えようと備えてくださっている救いの恵みの、ほんの少しでしかない。そう思わされるのです。そして、そのほんの少しでさえも、いつも私を驚かせます。今朝与えられている御言葉を通し、私共に与えられている救いの恵みを共に味わい、共に驚き、共に喜び、共に主をほめたたえたいと思うのです。
 イエス様は、御自身が十字架にお架かりになる前の日に、父なる神様に祈られました。ヨハネによる福音書の17章全体が、その祈りを記しています。この祈りは、5節までの主イエス御自身のための祈り、6節から19節までの主イエスの弟子たちのための祈り、そして20節以下の弟子たちによって主イエスを信じるようになった人たちのための祈りから成っています。今朝与えられている御言葉は、20節以下の主イエスの弟子たちによってイエス様を信じるようになった人たちのために祈られた所です。
 この祈りは、主イエスの弟子たちによって、弟子たちの語る言葉によって、弟子たちの伝道によって、イエス様を信じるようになった人々のために祈られているのですから、これはキリストの教会のために祈られた祈りであると言って良いでしょう。私共のために祈られた祈りです。イエス様がこの祈りをささげられた時、主イエスの弟子たちの他にイエス様を信じる人たちがどれほどいたのかは分かりません。しかし、イエス様はこの時、御自身が十字架にお架かりになり、復活し、天に昇られた後、弟子たちに聖霊が注がれ、キリストの教会が生まれる、そしてそこに多くの人たちが召し集められていくことを御存知でありました。その上で、この祈りをささげられたのです。
 20節「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」と始まります。「彼ら」というのは主イエスの弟子たちのことです。主イエスの弟子たちによって主イエスを信じるようになる人々、そこには当然私共も含まれています。ここで主イエスは、私共のために祈ってくださったのです。主イエスの時代から二千年も経った、エルサレムから遠く離れた日本の、この富山の地に生きる私共のために、主イエスは祈ってくださった。ありがたいことです。そして、実に驚くべきことです。この祈りは、まだ生まれて来ていない、将来誕生するであろうキリスト者のためにも祈られています。なんと大きな祈りであろうかと思います。この祈りの大きさの中に、主イエスというお方が誰であるか、どのような方であるのか、はっきり示されていると言っても良いでしょう。主イエス・キリストというお方は、終末に至るまでの歴史を見通し、全世界を見渡し、そこに生きる一人一人のために祈ってくださる方だということであります。私共は、この主イエスの祈りの中で生かされているのです。

2.祈られている者であることを知る
 私共は、祈ることは大事だ、祈りましょう、と教えられています。祈ることはつまらないことだ、祈ったところで何になる、と言う人はキリスト者の中には一人もいないでしょう。「祈り」と言われてまず思うのは、「私が祈る」ことであり、多くの場合「○○のために祈る」「誰々のために祈る」そういう言い方で祈りについて言われることが多いと思います。しかし、私共がまず知るべきことは、主イエスが私のために祈ってくださった、自分は祈られている者だ、ということなのではないかと思うのです。私が祈る前に、私は祈られていた。主イエスによって、また愛する兄弟姉妹によって、自分は祈られていた。今も祈ってもらっている。このことを私共は知らなければなりません。自分が祈ってもらっていることを知らず、自分が祈っているということばかり思うのは、まことに傲慢でありましょう。
 昨日、当教会を会場に行われました富山地区信徒修養会の講師として、K教会のM先生が来てくださいました。とても素敵な講演でした。その中で、御自身が小学校6年生で信仰告白(M先生のお父様は牧師ですので、洗礼は幼児洗礼だったのです)をした時、お母さんが泣いていた。その姿を見て、自分は「何を泣いているのだろう。」と思った、と言われました。今は、自分も結婚して二人の子が与えられており、その時の母の気持ちが分かるけれど、その時は全く分からなかった、と言われたのです。そうだろうと思います。自分が祈られていることを知らない人は、この小6の時のM少年と同じなのでしょう。今朝、私共がまず心に刻むべきは、私共は祈られている存在なのだということです。「自分のために祈っている人など一人もいない。」そんなことを言える人は一人もいないのです。私共は祈られている存在なのです。

3.一つになるように努める?  さて、主イエスは私共のために、代々のキリスト者のために、何を祈られたのでしょうか。二つあります。一つは、「一つになる」ということです。もう一つは、「主イエスのいる所に、共におらせる」ということです。
 順に見ていきましょう。21〜23節「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。…わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」ここで、主イエスは「一つにしてください」と祈り、「一つになるためです」と告げられます。この祈りは大変有名なものです。特に、22節の「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」という御言葉は、スイスのジュネーブに本部を置くW.C.C.(世界教会協議会)という、世界中のプロテスタントの主な教派が集う、エキュメニカル運動を推進する団体の標語となっています。このW.C.C.という団体は、キリスト教界における最も大きな団体だと言って良いでしょう。20世紀の世界の教会はこのW.C.C.と共にあったと言っても良いほどです。このW.C.C.が目指したエキュメニカル運動というのは、教派の壁を越えて、全てのキリスト者、全てのキリストの教会が一つになることを目指す運動です。このW.C.C.の標語としてこの聖句が用いられたのは、良く分かる気がします。主イエスが一つになるように祈られたのだから、教会は一つにならなければならないし、なるように努めていこうというのです。実に分かりやすい。しかし、聖書がここで告げていることは、本当にそういうことなのでしょうか。
 私も、終末が来る時、カトリックもプロテスタントもギリシャ正教もなく、すべてのキリスト者が共に復活の恵みに与り、一つになって主をほめたたえることを信じています。天国には、教会も聖書も必要ないのでしょう。しかし、ここで主イエスが祈られたことがそういうことを指しているとは、私には思えないのです。

4.一つにされている私共
 21節を見てみましょう。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」ここで主イエスは、私共が一つであることを祈ってくださっているのですが、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われるのです。これは、三位一体の父なる神様と子なるキリストの一体性を言っているわけです。父なる神様と子なるキリストが一つであるように、教会を一つにしてくださいと言うのです。私共は互いに全く違う存在です。考え方も性格も生きてきた道も、お互い全く違う。そのような違う者同士が、話し合って一つになりましょうといっても、それは限界があるのです。まして、主イエスの祈りは、今は無いけれど、私共が努力すればかなえられる、そんなものではないはずです。主イエスが祈られたということは、この主イエスの祈りに父なる神様が応えてくださって、既に私共に与えられているはずなのです。主イエスの祈りを、私共の祈りと同じレベルで考えてはおかしなことになってしまうと思います。まだ一つではないけれど、イエス様がこう祈られたのだから、一つになるように努力しましょう。そんな話ではないと思う。私は、ここで主イエスが一つになるように祈られたのですから、神様はその祈りに応えて、教会は既に一つにされている、そう思うのです。
 それは、終末において、天において、完全に一つにされることになっているというだけではありません。今、現に、私共は一つにされているはずなのです。私共がそのことに気付かなければ、未だ一つになっていないのだから話し合って仲良くして一つになりましょうと考えたりすることになるのだと思うのです。話し合ってお互い仲良くすることは良いことです。反対する理由は何一つありません。しかし、主イエスによって私共に与えられている恵みは、そんなものではないのです。
 三位一体の父なる神様と子なるキリストの一致は、まさに神秘的一致と言うしかないと思いますが、「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」と続いているように、私共が一つになるというのは、この三位一体の神秘的一致の中に、父なる神様と子なるキリストとの永遠の交わりの中に、私共も入れられるという、とてつもない恵みの事実を告げているのです。これは、神秘、秘儀としか言いようがない。しかし、信仰を与えられ、救われたということは、この恵みに与っているということなのです。
 今日、二人の方が私共の教会に転入されます。他教団で洗礼を受けられた方ですが、この転入に際し、私共はもう一度洗礼を受けていただくことをしません。どうしてでしょうか。それは、既に洗礼を受けておられるからです。洗礼というものを、自分の信仰の決断の儀式くらいにしか考えていない人は、別に洗礼を何度受けてもいいじゃないかと思うかもしれません。しかし、そうではないのです。洗礼とは、世界に広がり、歴史を貫く、ただ一つのキリストの体である教会につながることです。一度キリストにつながった者は、再びつながる必要はないのです。ですから、洗礼は一度しか行われないのです。もう一度洗礼を行うということは、前の洗礼は有効ではない、この人はキリストにつながっていない、と言うのと同じです。その人が洗礼を受けた教会がキリストの体の一部ではないと言うのと同じです。そんなことは誰にも言えません。その様なことを言う人は、この「ただ一つのキリストの体なる教会」を信じていないということなのです。
 良いですか皆さん。私共は既に一つにされているのです。教会というキリストの体につながり、キリストの命に与り、キリストと一つにされることによって、私共は既に一つにされているのです。その救いの恵みの確かなしるしとして、私共は聖餐に与っているのです。私共が一つにされているこの救いの恵み、この教会の一致という恵みの現実は、既に洗礼、聖餐において与えられているのです。私共は既に一つにされて、共にキリストの命の中を歩んでいるのです。互いに性格も考え方も趣味も違う私共が、一つにされる。それは、私共の努力によってもたらされるのではなく、主イエスの十字架と復活による罪の赦しによって、既に与えられていることなのです。父と子と聖霊の三位一体なる永遠の交わりの中に、私共も組み入れられているのです。
 この命の交わりは、愛の交わりでもあります。父なる神様が子なるキリストを愛されているように、私共もまた、父なる神様に愛されているのです。子なるキリストが父なる神様を愛するように、私共も父なる神様を愛する。この愛によって、私共は、教会は一つなのです。26節「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」とある通りです。
 教会というものはそれぞれ個性があります。私共の顔や性格が違うように、教会も顔や性格が違う。歴史的な歩みが違うのですから当然です。しかし、主イエスを愛し、父なる神様を愛し、共にただ一つの主イエスの命に与っていることにおいて、一つにされているのです。

5.主イエスと共にいる
 第二の祈りですが、24節「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」とあります。この祈りもまた主イエスの祈りである以上、父なる神様によって私共の上に既に成就されていると理解すべきです。イエス様は、この祈りをささげた時、次の日には十字架に架かって御自身のこの地上における歩みが終わることを知っておられました。その上で、この祈りを祈っているわけです。まして、この祈りが、主イエスが天に昇られて二千年も時を経た私共のための祈りでもあるとするならば、この「主イエスと共におらせる」ということは、次の二つのこととして理解されると思います。
 一つは、天の父なる神様のもとに帰られる主イエス・キリストと共におることになるということです。私共はこの地上の生活を終えたなら、天の父なる神様の御許、主イエス・キリストがおられる所に行くことになっているのです。これが、主イエスの祈りによって私共に与えられている確かな希望です。私は牧師としてしばしば病床を訪ね、枕元で祈ります。「この人が癒されるように。」と祈ります。しかし、この時私は、この人が癒されなければお終いだ、死んだらお終いだと思って祈っているのではないのです。癒されることなくこの地上での生涯を閉じるということになるかもしれない。しかし、たとえそうであっても、何の問題もない。主イエスがおられるところに行くのだから、何の心配もない。何の問題もない。そう信じ、その上で「この人が癒されるように。」と祈っているのです。
 第二に、この地上の歩みにおいても、私共は主イエスと共にあるということです。これは少しも観念的なことではありません。私共に与えられている恵みの事実です。私共は主の日の礼拝のたびごとに、このことを心に刻んでいるのでしょう。先程、私共が一つにされていることの恵みが聖餐において明らかに示されていると申しました。この主イエスが私共と共にいてくださることもまた、聖餐において明らかに私共に与えられていることです。主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲む。それは、ここに現臨されている三位一体の神様との交わりの中で、私共がキリストの体と命に与るということであります。聖餐のパンと杯に与るたびに、私共は主イエスが私共の中に入り、私共と分かち難く一つになって、私共と共にいてくださることを知るのです。主イエス・キリストは私共と共にいてくださる。私共が喜んでいる時も、嘆きの中にいる時も、けんかをしている時も、病気の時も、主イエスは私共と共にいてくださる。だから大丈夫なのです。そして、たとえ死んだとしても大丈夫なのです。主イエスがおられる所から、私共を引き離すことが出来る者など、この天と地のどこにも存在しないからです。

6.世が知るようになる
 この主イエスの祈りの中で、21節「世は、…信じるようになります」、23節「世が知るようになります」とあります。ここで言われておりますことは 、私共と共に主イエスがおられ、私共に注がれる神様の愛が明らかになる時、また私共が神様を愛していることが明らかになる時、世の人もまた主イエスを信じるようになるということです。これが伝道なのです。ですから、私共がどんなに神様に愛されているか、また私共が神様を愛しているか。そして、どんな時もイエス様が私共と共にいてくださる。そのことを、私共がよくよく知ることが大切なのです。この礼拝において、現臨のキリストに触れ、この方の前にひれ伏して祈り、拝み、力の限りほめ歌う。そこに、主イエスをまだ知らない人が来たなら、これはいったい何なのか、知りたいと思う。そして、ここには神がおられると分かる。そういうことなのでありましょう。

 私共は神様に愛されている。このことをもっともっと分からせていただきましょう。イエス様が私共と共にいてくださる。このことをもっともっと分からせていただきましょう。そして、私共の唇に祈りと賛美とがいつも溢れるまでにしていただきましょう。

[2012年9月23日]

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