富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスが祈り求める栄光」
詩編 24編7〜10節
ヨハネによる福音書 17章1〜5節

小堀 康彦牧師

1.大祭司の祈り
 共々にヨハネによる福音書を読み進めておりますが、今朝から17章に入ります。14章から16章までの主イエスの送別説教と呼ばれる所が終わりまして、17章は主イエスの祈りが記されております。聖書の中で最も長く主イエスの祈りが記されている所です。この17章は、昔から「大祭司の祈り」と呼ばれてきました。主イエスはヘブライ人への手紙などで大祭司と呼ばれておりますので、主イエスが祈られた祈りだから大祭司の祈りということなのですけれど、この祈りの中に、大祭司である主イエス・キリストとはどういうお方なのか、そのことがはっきり現れていると言っても良いと思います。
 そもそも大祭司とはどういう役割を持つ者なのかと言えば、エルサレム神殿の一番奥まった所にある至聖所、ここは聖なる神殿の中でも特に聖なる所であり、契約の箱が納められていて誰も入ることが許されていない所です。神様は全宇宙でさえも納め切れない程大いなる方ですから、神殿の中に収まるような方ではありません。しかし、この至聖所には確かに主なる神様が臨んでおられる。それは、神様の足の小指がちょこんと置かれているような、神様の足台と考えられていました。この至聖所に年に一度入り、すべての民の赦しを願い求める。人間と神様との間に入って、人々を代表して神様に執り成しをする。それが大祭司の役割でした。
 イエス様は14章から16章におきまして、弟子たちに向かって、御自身が十字架にお架かりになって後、聖霊が与えられることを約束してくださいました。それは、イエス様が神様の側に立って、弟子たちに向かって語られたことでした。そして、今度はイエス様は人間の側に立って、神様に向かって祈られました。イエス様は、神様と人間との間に立って、人々に教える時には神様の権威と力をもって語られ、祈る時には人間のすべての罪を担って神様に執り成しをされるのです。イエス・キリストというお方は、まことの神にしてまことの人であられましたが、この神様と人間との間に立たれるという大祭司の役割を徹底するならば、それはまことの神にしてまことの人というお方でなければならなかったのです。その意味では、旧約における大祭司は、まことに不十分なあり方でしかその役割を果たすことが出来なかったと言うべきでしょう。旧約における大祭司という職務が主イエス・キリストによって完成されたのだと言っても良いでしょう。そして、その大祭司としての業の完成が、十字架だったのです。旧約の大祭司は、人間の罪の身代わりとして動物をささげました。しかし、主イエス・キリストは、私共の罪の身代わりとして、全く罪のない、しかし同じ人間である御自身を十字架の上でささげられ、私共の一切の罪の執り成しをしてくださったのです。これこそ、主イエス・キリストがまことの大祭司であられる所以です。

2.父よ、時が来ました
 このまことの大祭司であられる主イエス・キリストは、御自身の十字架の死を目前にして何を祈られたのか、順に見て参りましょう。
 主イエスはまず「父よ、時が来ました。」と祈り始めます。「父よ」と主イエスは神様に向かって呼びかけます。私共は、習慣のように神様に向かって「父なる神様」とか「天におられるお父様」とか言って祈りますけれど、これは主イエスがまずこのように祈られ、あなたがたもそのように祈って良い、そのように祈りなさいと言われたからです。神様に向かって「父よ」と呼びかけるということは、少しも当たり前のことでありません。神の独り子である主イエス・キリストならではのことです。
 「時が来ました。」と言われます。この「時」というのは、十字架の時であり、その後に続く復活、そして聖霊降臨の時です。主イエスがクリスマスに誕生されてから、ずっとここを目指して歩んで来られたその時です。もっと言えば、天地が造られる前から定められていた神様の救いの御業が現れる時です。その時がついに来たのです。主イエスは、一晩明ければ御自身が十字架に架けられることになっていることを見ています。その時は、人間の目から見ればただ苦しみを受ける、罪人の一人として十字架の上で処刑されるということなのですけれど、それは神様の目から見れば栄光の時であり、救いの御業を成就される時であることを、主イエスはご存じでありました。この時、主イエスが何より祈り願ったことは、神様の救いの御計画が成就することでした。そして、そのことこそが、神の独り子であるイエス・キリストが栄光を受けられる、ただ一つの道だったのです。そのことを主イエスはよくご存じでした。
 主イエスは、十字架から逃れようと思えば逃れることも出来ました。しかし、そのようなことは考えもしませんでした。何故でしょうか。それは、もしそのようなことをすれば、自らの栄光を失うことを知っておられたからです。主イエスの栄光、それは父なる神様の御心と一つになって生きることです。そこにしか神の独り子としての栄光がないことを、主イエス御自身がよく知っておられました。

3.栄光を与えてください
 今朝与えられております「大祭司の祈り」の中で繰り返し繰り返し出て来る言葉は、「栄光」です。1節「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」、4節「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」、5節「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」
 ここで主イエスは、「栄光を与えてください。」と、1節と5節で祈り求めています。主イエスが十字架と復活を前に父なる神様に祈り求めていたものとは、何よりもこの栄光なのです。そしてこの栄光は、神の独り子であるキリストが、父なる神様と共に天上において持っておられた栄光です。主イエスが地上に下って来られる前に持っていた栄光です。そしてそれは、今、天に昇られたキリストが天の父なる神様の右にあって持っておられる栄光でもあります。父なる神様と共にあり、父なる神様と一つであり、父なる神様と共にすべてを造り、すべてを支配される栄光です。天と地にあるすべてのものの存在の根拠であり目的である栄光です。神様だけが持つ栄光の輝きであります。それを与えてくださいと、主イエスはこの時祈り求めておられるのです。このキリストの栄光は、父なる神様と一つである栄光でありますから、父なる神様の御心と一つでなければ、その輝きを失うものです。主イエスは、この十字架を目前にして、自らが十字架に架かることによってその栄光を現すのだ、と受け止めておられたということなのです。
 ここで私共は、主イエスが祈り求めておられた栄光というものが、人間の目で見る所の姿とは全く違うということを知るのです。私共が栄光を受けるという言葉から思いますのは、先日までオリンピックがありましたけれど、あのオリンピックの表彰台に上るようなことでありましょう。私もオリンピックを毎日のように見て、いささか寝不足の8月でしたけれど、しかし主イエスが祈り求める栄光とは、そういうものではないのです。主イエスが求める栄光とは、言うなれば天上の栄光と言って良いかと思います。地上においては、十字架という栄光とはほど遠い姿で示されますけれど、その恥辱にまみれた出来事が、天上において神の独り子としての栄光を受けることになるということなのです。
 そのことを思いますとき、私共は自らが祈り求めるものが何であるのかということが問われるのです。私共が祈り求めているのは地上の栄光ではないのか。もしそうであるならば、私共は天上における栄光を受けることは出来ない。私共が求め行うことが、神様の御心と全く違うことであるならば、私共は天上の栄光を受けることは出来ないのです。私共が祈り求める第一のことは、この地上で人々から栄光を受けることではなくて、天の父なる神様の御許において与えられる栄光なのです。

4.栄光を受けるために
 そしてそれは、御子イエス・キリストが、4節で「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げ」たと言われているように、私共も一人一人に与えられている、父なる神様が行うように命じられた使命を果たす、御心に従って果たす。このことに懸かっているのであります。
 父なる神様が行うようにと私共に与えられた使命。それは一般的に言うならば、十戒を守ることであり、神を愛し人を愛することであり、互いに愛し合うことでありましょう。しかし、具体的には、それこそ一人一人違うのです。子としては父と母を敬うことであり、父や母としては子を健やかに育てることであり、市民としてはそれぞれ社会人としての務めを果たすことであり、私にとっては牧師として伝道・牧会に日々励むことであります。神様が私共に与えられていることは一人一人違うのです。そのそれぞれ違っている為すべきことを、私共は神様からの召命として受け取るのです。このことが何より大切なことなのです。皆が牧師であるわけではありません。車を作る人も、子どもを教える人も、家庭を守る人も、みんな必要なのです。それぞれの場において私共は皆違ったあり方で生かされておりますが、そのそれぞれの場において生かされていることの中に神様の召命を覚えるということです。私共は、ただ食べるためにその仕事に就いているのではありませんし、毎日仕方なくやらなければならないことをしているというのではないのです。神様に召されて、その場その場で生かされているのです。そのことを覚えて、忠実にその神様の召しに応えていく。それが神の栄光のために生きるということなのです。そして、これを献身と言うのです。その意味では、私共は皆献身者なのです。
 私が以前遣わされていた教会で、私は中学生たちにいつもこう言っていました。「何をするにしても、それを何故やっているのか?何のためにやっているのか?そう問われたら、いつでも『神の栄光のために』と答えられるようにしていなさい。」どうしてそのクラブを活動をするのか?神の栄光のために。どうして勉強をするのか?神の栄光のために。どうしてその学校に進学するのか?神の栄光のために。どうしてその仕事に就くのか?神の栄光のために。中学生たちにどこまで伝わったのかは分かりません。しかし、何度も何度も語りました。これが中学生に限らず、全てのキリスト者に大切なことだと信じているからです。

5.永遠の命とは
 主イエスが父なる神様から与えられた為すべきこととは、自分に委ねられた人々に永遠の命を与えることでありました。主イエスは、永遠の命を与えるためにこの世に来られましたし、そのために十字架にお架かりになったのです。
 この永遠の命について、主イエスはこう言われました。3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」これは意外な言葉ではないでしょうか。拍子抜けと言いますか、「知るだけなの。」「それだけなの。」「こんなことなの。」そんな感想を持つ人もいるかもしれません。皆さんなら、永遠の命について説明を求められた時、なんと答えるでしょうか。主イエスはここで、天国についても語られませんし、肉体が滅んだ後の霊魂不滅などということもお語りにはなりません。永遠の命とは、ただ父なる神様とイエス・キリストを知ることだと言われるのです。
 この「知る」という言葉は、表面的にあの人を知っているというような意味の「知る」ではありません。創世記4章1節に「アダムは妻エバを知った。彼女は身籠もってカインを生み」とありますが、この「知る」は肉体関係を持ったという意味を持っているのは明らかです。まさにこのように父なる神様と主イエス・キリストを知るのです。夫婦が互いを知り、肉体関係を持ち、子が与えられる、そのように「知る」のです。この父なる神様を知り主イエス・キリストを知るとは、人格的に深く交わること、その方無しには生きることは出来ないというあり方で知るということなのです。それは愛すると言い換えても良いでしょう。父なる神様と主イエス・キリストというお方を、この方無しには生きられないというようなあり方で深く愛し、この方との深い人格的な交わりに生きる。それが永遠の命に生きるということなのです。
 ジュネーブ教会信仰問答の問1は「あなたの生きる主な目的は何ですか?」とあり、答えは「神を知ることです。」とあります。この「神を知ること」とは、そのような意味なのです。神を知り、主イエスを知ることは、私共が生きる目的となるそういうものなのです。
 主イエスは、永遠の命というものについて、霊魂がどうのこうの、天国がどうのこうのというような、人々の好きな高級なおとぎ話はなさいません。そうではなくて、父なる神様と主イエス・キリストと深く交わる、その交わりこそ永遠の命なのだと言われるのです。永遠から永遠に生き給う全能の父なる神様と子なるキリストと結ばれ、この方を愛し、この方を信頼し、この方と共に生きる。そこに永遠の命がある。この交わりは、肉体の死をもってしても滅ぼされることはない。主イエスは、この交わりを私共に与えるために地上に来られ、そして私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになったのです。ですから、私共はこの方との交わりに生きることによって、神様から与えられた使命をそれぞれの場で果たすことが出来るのですし、永遠の命を与えられて、天上における栄光に与ることも出来るのです。信仰とは、この父なる神様と主イエス・キリストとの交わりに生きるすべての営みを指しているのです。
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は、私共と父なる神様そして主イエス・キリストとの交わりを示しています。私共と主イエス・キリストとの交わりは、少しも観念的なものではありません。この方の肉を食べ、この方の血潮を飲むのです。この方との命の交わりに生きることなのです。私共はこの聖餐に与るようなあり方で主イエスを知り、父なる神様を知るのです。ここに私共の永遠の命の保証があります。この聖餐に与る者として、それぞれの場で、父なる神様に与えられた為すべき務めに励んで参りましょう。

[2012年9月2日]

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