富山鹿島町教会

礼拝説教

「聖霊が真理を悟らせる」
イザヤ書 42章1〜9節
ヨハネによる福音書 16章4節b〜15節

小堀 康彦牧師

1.聖霊が遣わされるとの約束
 主イエスが十字架にお架かりになる前日の夜、主イエスは弟子たちにこれから起こることについてお語りになりました。14章から続く長い主イエスの送別説教と言われるものです。ここで繰り返し語られていることの一つは、主イエスが十字架の上で死んだ後、弟子たちに聖霊が与えられるということでした。順に見てみますと、14章16節に「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」とあり、14章26節に「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とあり、15章26節に「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」とあります。ここで弁護者と訳されている言葉は聖霊を意味します。
 主イエスは十字架に架かって死ぬ。しかし、それですべてが終わるのではなくて、復活があり、昇天があり、聖霊が与えられるという出来事が続く。主イエスはこのことを弟子たちにちゃんとお語りになって、十字架への備えをなさったのです。主イエスが語られた時、弟子たちはそれを十分受け止めることは出来ませんでしたけれど、実際に主イエスが十字架の上で死に、そして復活された主イエスに出会い、聖霊を与えられて、初めて彼らは悟ったのです。主イエスというお方が誰であり、主イエスの十字架とは何だったのか。主イエスが十字架にお架かりになる前に、自分たちに語られていたことがどういうことだったのか。そのすべてを悟り、そしてこの福音書が記されたのです。
 主イエスの弟子たちが特に鈍いということではないでしょう。私共は教えられてもなかなか分からない、信じられない、そういう鈍さを持っています。信仰というものは、実際に出来事に直面して初めて分かる、一つ一つ分からせていただいていく、そういうものなのではないかと思います。頭では分かる。聞いて知っている。しかし、それは本当に自分のこととして分かるということとは違います。私共には、聞いてもなかなか自分のこととして分からない、本当のところで分からない、そういう鈍さがあるのでしょう。そのような鈍い私共が、主イエスの弟子たちが分からせていただいたように、一つ一つ本当に本当のことだと分からせていただいていくのです。聖霊が遣わされる、聖霊が来るとの主イエスの約束もそうなのです。

2.弟子たちの悲しみを慰める聖霊
 さて、今朝与えられております主イエスの御言葉は、「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。」と始まっています。「これらのこと」というのは、先週見ました、この直前にあります迫害の預言です。イエス様が十字架に架けられた後、「世があなたがたを憎む」ようになるという預言です。この主イエスの言葉は、弟子たちに相当衝撃を与えました。今まで主イエスが世を去るということは聞いていました。そのことも弟子たちには耐え難いことでした。愛する者と別れるということは本当に耐え難いことです。しかし、そのことが今度は自分たちが迫害されるという直接的な苦しみにつながることを知らされた時、弟子たちは本当に困り果て、弱り果ててしまったのです。イエス様が一緒にいた時には、人々の憎しみはイエス様に直接向けられていた。しかし、イエス様がいなくなれば、その矛先は自分たちに向いてくる。そのことは考えるだけでも憂鬱になってしまうことでした。イエス様は弟子たちの心を見抜かれ、こう言われました。5〜6節「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」そう主イエスは語られたのです。弟子たちの心は、主イエスとの別れの悲しみ、自分たちが迫害を受けるかもしれないという恐れ、不安で満ちてしまったのです。
 愛する主イエスとの別れ、自分に迫る迫害。これは具体的で現実的な恐れ・不安・悲しみをもたらします。この具体的で現実的な恐れ・不安・悲しみに対して、主イエスはどう弟子たちを支え、慰め、導くと言われるのでしょうか。主イエスは、この具体的で現実的な恐れ・不安・悲しみに対して、同じレベルでどうこうするとは言わないのです。主イエスが弟子たちにこの時にお与えになられた約束は、「聖霊が来る」ということでした。弟子たちはこの時まだ、聖霊、ここでは「弁護者」と言われており、口語訳では「助け主」と訳されていましたが、これを知りません。ですから、弁護者、助け主、聖霊が来ると約束されても、弟子たちは少しも慰められず、励まされることもなかったのではないかと思います。しかし、実際に主イエスが十字架にお架かりになり、恐れと悲しみが現実になった時、三日目に主イエスは復活されて弟子たちにその御姿を見せ、聖霊を注いでくださった。そして、弟子たちはまことの信仰を与えられ、本当にイエス様が誰であるかを知り、あの十字架が何であったのかが分かり、自分たちに与えられた救いの恵みがどれ程大きなものであるかを知ったのです。
 主イエスは、7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と言われました。弟子たちはこの時、弁護者が来るということがどういうことなのか知りません。ですから、主イエスが去っていって聖霊が来るということがどんなに自分たちのためになるのか知りませんでした。しかし、主イエスが十字架にお架かりになった後、復活され、聖霊が送られた。弟子たちはそのことを実際に経験して、聖霊が送られるということがどんなに素晴らしいことなのか、力あることであるかを知ったのです。主イエスが「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」と言われたのは本当に本当のことだったと彼らは知ったのです。そして、それを知った者として、弟子たちはこの福音書を記したのです。この福音書に記されているイエス様が語られたことは、ただイエス様がこう言われたというだけではなくて、このイエス様が言われたことは本当のことだと証明されたことであり、それを知らされた者が記した言葉なのです。
 イエス様が十字架の上でこの地上での歩みを終えるということは、弟子たちにとってどのように良かったのでしょうか。第一に、そもそもイエス様が十字架にお架かりになってくださらなかったなら、私共の罪は赦されなかったということです。第二に、イエス様がずっと地上の歩みを続けておられたのなら、イエス様と共に生きることが出来るのは、イエス様の近くに生きる人々に限られてしまいますが、聖霊を送られることによって、イエス様は時代を超え、国を超え、すべての者と共に生きる方となってくださったということです。第三に、聖霊が与えられなければ、誰も真理を悟ることが出来なかったということです。聖霊が与えられなければ、弟子たちは主イエスとの別れの悲しみと迫害の恐れの中で、主イエスを神の御子として信じる信仰を保つことが出来なかったでしょう。聖霊が与えられて、弟子たちは主イエスの福音を完全に悟り、これを宣べ伝える者とされたのです。

3.聖霊が悟らせる真理
 では、主イエスが去り、聖霊が与えられることによって悟らされた真理とは何でしょうか。ここでは、最も大切な三つのことが挙げられています。8節「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とあります。
 第一に、罪について世の誤りが明らかにされます。罪について、世はどう考えているかと言えば、してはいけないと定められていること、その代表的なものが十戒であり律法ですが、これをしてしまうことが罪だと考えている。しかし、それは誤りだ、本当の罪はイエス様を信じないことだと言うのです。イエス様を信じないということは、この世界を造られた神様が、その愛する独り子を十字架に架けてまで私共を救おうとされている、その愛を信じないということです。これが根本的な罪なのです。
 それは次の、義についてに続きます。義について、人々は自分が善い人間になって、義しい生き方をすることだと世は思っている。しかし、それは間違いだと言うのです。罪も義も自分の業によると考えている、それは間違いなのです。そんなことではなくて、イエス様が「父のもとへ行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」、つまり、イエス様が十字架にお架かりになり、復活されて天に昇る、ここに義がある、ここにしか義はない、と言われるのです。この義とは、私共の義ではありません。神の義、神の義しさです。私共の中に義しさなどないのです。神様が、愛する独り子を十字架におかけになって、その独り子を死から復活させ、死を滅ぼし、天国への道を開いてくださった。ここに義がある。この神の義によって、私共の罪は赦され、神の子とされ、永遠の命へと招かれたのです。
 第三に、裁きについてですが、裁きといえばこの世の支配者が人々を裁くものだと世は思っている。しかし、そうではない、この世の支配者が断罪されるのだと言うのです。イエス様は、この世の支配者によって十字架につけられました。この世の支配者によって断罪されたのです。しかし、それは本当の裁きではない。本当の裁きとは、主イエスを十字架につけたこの世の支配者が、神様によって断罪されることだと言うのです。これは更に、この世の支配者とは、目に見える王や政治家だけを指しているのではなくて、この世の君であるサタンを指していると読んでも良いでしょう。サタンは主イエスを十字架に架け、勝利したと思ったでしょう。サタンの最後の砦は死です。しかし、主イエスはこのサタンの最後の砦である死を滅ぼし、復活されたのです。そして更に、この裁きは最後の審判における裁きをも意味しています。神様の御前における裁きにおいて、この世の支配者たちの持っている権力は何の役にも立ちません。神様と、その右におられる主イエス・キリストが、すべての人を裁くのです。主イエスは、これらのことを聖霊が明らかにすると言われたのです。
 この聖霊によって明らかにされることとは、何よりも主イエスの十字架と復活の意義が明らかにされるということなのです。聖霊が与えられるまで、弟子たちでさえ主イエスの十字架と復活の意味が良く分かりませんでした。しかし、聖霊によってこのことがはっきり分かり、弟子たちは何も恐れずにこの救いの恵みを全世界に宣べ伝える者となったのです。
 主イエスは続けてこう言われました。12〜13節「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」イエス様は、罪と義と裁きについて、御自身の十字架と結びつけてでなければ何も分からないし、そのことを聖霊は明らかに教えてくれると言われました。しかし、聖霊が弟子たちに教えてくれることは、罪と義と裁きについてだけではありません。「真理をことごとく悟らせる」と言われているとおりです。しかし、この真理とは、科学的な真理までも含んだすべてということではないでしょう。主イエス・キリストの十字架と復活の救いの恵みが明らかにされるすべての真理ということです。聖霊によって宇宙の歴史やビッグ・バンが明らかになるというようなことではありません。そうではなくて、主イエスの十字架と復活について教えられることによって、私共は自分の罪の姿がいよいよ明らかにされ、悔い改めないではいられない者とされる。悔い改めた私共は、主イエスの十字架によって神の子とされている。永遠の裁きにおいて義とされ、永遠の命に与る者とされている。世界は、この神様の裁きの時に向かって進んでいる。私共の命は、この肉体の死をもって終わらない。この救いの恵みは、キリストの体なる教会において保持され、広められていく。このような、主イエス・キリストによる救いの真理、それがことごとく聖霊によって悟らされるということです。聖霊によって悟らされるということは、まことに不思議なことですが、本当にそうなのです。

4.聖霊によって与えられる信仰
 「信仰は教育出来るのか。」というキリスト教教育学における根本問題があります。皆さんはどう考えるでしょうか。カリキュラムを組んでこれこれの教育を施せば信仰者が生まれる、そのように簡単には言えないということを、私共は経験的に知っていると思います。しかし、だったら信仰教育は無駄なのか。そうではありません。考え方、生き方、価値観、聖書の読み方、祈りの言葉、教理や教会の歴史等々、教育によって訓練されること、されなければならないことはたくさんあります。けれど、その人が、教えられたことを本当にこのことは本当だ、このイエス様こそ私の人生の主人だ、私はこの方とどんな時も一緒に生きていく、そのような決断と申しますか、自分の命と主イエス・キリストというお方が結ばれるという信仰、それが与えられるのは聖霊なる神様のお働きによるしかないのです。ここに、人間の業としての教育の限界があります。それは伝道についても同じことです。このことを良く弁えさせ、私共を謙遜にさせるのもまた、聖霊なる神様の御業なのでしょう。
 主イエスは聖霊なる神様について、こう語りました。13節後半〜14節「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」聖霊なる神様は、イエス様と無関係に新しいことを私共に教えるのではないのです。イエス様が語られたことを、本当に本当のことだと分からせてくださるのが、聖霊なる神様なのです。そして、聖霊なる神様はイエス様に栄光を帰すのです。聖霊なる神様は、イエス様がほめたたえられるためにお働きになるのです。神様とイエス様が栄光をお受けになるように働かれるのです。断じて、私共が自分は大した者だとうぬぼれるようなことのために、聖霊なる神様がお働きになるようなことはありません。代々の教会が、謙遜をもって第一の徳目としたことは正しいことであり、それは聖霊なる神様の導きによると言って良いのだと思います。
 私共には聖霊が注がれています。聖霊によって信仰を与えられ、導かれ、教えられ、生かされている私共であります。私共は、この恵みの事実をしっかり受け止めましょう。確かに、生きていく上での困難があります。具体的、現実的な恐れ、不安、悲しみがあります。しかし、聖霊なる神様の導きの中にある私共です。その目の前の困難が私共をどんなに不安にさせるとしても、全能の力ある神様の霊、主イエス・キリストによって送られる聖霊なる神様が共にあるなら、必ず私共の思いを超えた展開を与え、私共を神の国へと導いてくださいます。私共はそのことを信じて良いし、そのことを信じて「来たれ、聖霊よ。」と祈る者として召されているのです。   

[2012年8月12日]

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