富山鹿島町教会

礼拝説教

「互いに愛し合うために選ばれた者」
歴代誌 上 28章1〜10節
ヨハネによる福音書 15章11〜17節

小堀 康彦牧師

1.主イエスに選ばれて
 今朝主イエスは、私共にこう告げられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」何と喜ばしい言葉でしょう。今朝私共がここに集まっているのは、この主イエスの選び、私共の思いを超えた主イエスの招きによるのです。私共は、自分の願いや思いを超えて、主イエスによって選ばれ、今、こうして主の御前に集まっているのです。
 主イエスは、私共の何を見て選ばれたのでしょうか。それは分かりません。ただ言えますことは、私共の中に何か取り立てて優れた所があったからではないということです。私共の中には、神の子とされるにふさわしい所などありません。神様に愛されるにふさわしい所など、どこにもないのです。神様に嫌われ、捨てられても仕方がない所ならたくさんあります。自分勝手で、人の痛みが分からず、傲慢な私共です。にもかかわらず、イエス様は私共を選んでくださいました。そして、私共を「友よ」と呼んでくださるのです。まことにありがたいことです。
 先日、ある求道者の方と話をしていましたら、「私のような者がキリスト者になって良いのだろうか。私のような者は、キリスト者になるのにふさわしくないと思う。」と言われました。私は「自分がふさわしくないということを知っているということこそが、何よりふさわしいことなのです。」と答えました。多分その人の中では、キリスト者とは立派な人で、人に優しく、愛に満ちている人というようなイメージがあるのでしょう。そして、そのようなイメージと自分を重ねて見ると、自分はふさわしくない、そういうことになったのかもしれません。しかし、この「自分はふさわしくない」ということを知る者こそ、キリスト者にふさわしいのです。もっと言えば、自分は神の子、神の僕とされるにふさわしくない、このことを知ることこそ、キリスト者になるのに不可欠なことなのです。私共は誰一人として、神の子とされるにふさわしい者などいません。皆、罪人だからです。しかし、イエス様は私共を愛してくださり、私共を選んでくださり、「我が友よ、我と共に生きよ。」と招いてくださったのです。これが神様の愛なのです。私共は、ふさわしくないこの私を愛し、選び、招いてくださっている主イエスの御声を聞くのです。この御声を聞く者は、「主よ、感謝します。あなたの友として私を生かしてください。」と応えるしかないのです。そして、このように主イエスに応えた者、応えている者、それがキリスト者なのです。私共が主イエスの友となる前に、主イエスが私共の友となってくださったのです。

2.友のために命を捨てる主イエス
 13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と主イエスは告げられました。私共はこの言葉の前にたじろぎます。本当にそうだと思いつつ、自分の中にそのような愛があるのだろうかと思わざるを得ないからです。私にも友がいます。幼い時からの友人もいますし、牧師の友人もいます。しかし、その友人のために自分は命を捨てられるかと問われれば、とても「ハイッ」とは返事が出来ません。ですから、この言葉の前に私はたじろぎ、うろたえざるを得ないのです。そして、「私はキリスト者として、牧師として、ふさわしくない者です。」と言って、主の御前に立つしかないのです。
 しかし、イエス様はここで、私共にそのような愛を求めるために、この言葉をお語りになったのでしょうか。そうではなくて、それ以上にイエス様御自身がそのような愛で私共を愛しているのだということをお告げになったのではないでしょうか。
 この13節は直訳しますと、「人がその友のために命を捨てる、これより大きな愛を持っている人はいない。…これより大きな愛を誰も持っていない。」となります。確かに、友のために自分の命を捨てるほどに大きな愛はないのですけれど、ここでの主イエスの言い方は、これより大きな愛を持っている人はいないという言い方なのです。主イエスがここで告げられているのは、御自身の十字架を前提としているのです。つまり、「友のために命を捨てることより大きな愛を持っている人はどこにもいない。けれど、このわたしはその友のために命を捨てる愛を持っている。わたしは友であるあなたのために十字架の上で命を捨てる。わたしはそれほどまでにあなたを愛してる。」という、主イエスの私共に対しての愛の宣言なのです。
 ですから、私共はこの御言葉の前に立って、自らの中にふさわしさが無いということを嘆く以上に、これ以上の愛はないというほどの愛をもって私共を愛してくださっている主イエスに感謝し、主イエスをほめたたえたいと思うのです。実に、この主イエスの言葉は十字架の言葉なのです。主イエスが十字架にお架かりになり、その十字架の上から私共に語りかけておられるのです。「友よ、わたしはあなたのために命を捨てた。この愛が分かるか。お前の中にふさわしさなど微塵もないことを、わたしは知っている。しかし、わたしはあなたを愛している。この愛の中にとどまれ。このわたしの愛の中に生きよ。」そう告げておられるのです。

3.かなえられる願い
 「この愛に生きよ。」これが「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という御言葉の意味です。主イエスを抜きにして、自分の中にある愛で互いに愛し合いましょうというようなことではないのです。私共の中に愛はないのです。その愛のない私共が、この主イエスの十字架の前に立って、この御声を聞くのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」との御声を聞くのです。私共の中に愛はない。とすれば、私共はこの愛を願い求めるしかないではないですか。それが16節後半の「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」との御言葉につながるのです。愛のない私共が十字架の主イエスの前に立って「互いに愛し合いなさい。」との御言葉を聞く時、私共は「愛を与えてください。」と祈り願わざるを得ない。その願いを父なる神様は必ずかなえてくださるのです。そう主イエスが約束してくださったのです。
 この「何でも願うなら与えられる。かなえられる。」との御言葉は、14章13節「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」、15章7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」、16章23節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」と何度も繰り返されている御言葉です。主イエスの私共に対するとても大切な約束です。しかしこれは、魔法のランプのように、私共が願うことは何でも神様が必ずかなえてくれるということを言っているのではないのです。私共が願う、その願い、その祈りが問題なのです。5億円の宝くじが当たりますようにと願ったなら必ず当たる、というようなことではないことは明らかでしょう。この願い、この祈りは、私共が主イエスの十字架の御前に立って私共の中に起こされる願いであり、祈りなのです。主イエスと深く結び合わされた所で与えられる願いであり、祈りです。だからそれは必ず神様がかなえてくださるのです。
 私は若い時、三つのことを願っていました。まだ主イエス・キリストと出会う前のことです。@金持ちになりたい。A出世して大きな家に住みたい。Bきれいな奥さんを持ちたい。その当時、これらをはっきり意識していたわけではありません。しかし、どうして一生懸命勉強して、良い大学に入ろうとしたりしていたのか。その頃のことを思い返してみると、この三つの願いに集約するのかなと思うのです。今思えば、実にくだらないことです。けれど、それがくだらないこと、つまらないことだとは若い時には気付いていませんでした。しかし、主イエス・キリストと出会って変えられたのです。三つの願いは全くどうでも良いことになりました。もちろん、主イエスに出会ってすぐに、この三つの願い、三つの欲といっても良いでしょうけれど、それとすぐに決別出来たわけではありません。主イエスと出会って、5年、10年という年月が必要でしたが、私の中に新しい願い、新しい祈りが生まれてきました。それは、主の祈りの初めの三つの祈りです。@御名があがめられますように。A御国が来ますように。B御心が天になるごとく地にもなりますように、という祈りです。時によってその祈りは具体的ですが、その具体的な祈りはすべて、この三つの祈りから生まれてくるものです。例えば私共は今、隣接地の取得を教会の祈りとして祈っています。この具体的な祈りの課題は、私共の中から出て来たのではないのです。隣接地を取得して、いよいよ神様の御業お仕えする教会として整えられていきたいと願ってのことです。御名があがめられるために、御国が来るために、御心が天になるごとく地にもなるために、今私共は隣接地の取得をしなければならない、そういうことなのだと私は信じています。

4.主イエスの友とされて
 さて、14〜15節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」とありますように、主イエスは私共を「友」と呼ばれます。僕(しもべ)、これは奴隷という言葉ですが、これは主人の命令をとにかく守れば良いのです。何を目的として、どうしてこれをするのか、知る必要はないのです。しかし、私共はなぜ自分がこれをするのか、何を目的として、何のためにするのかを知っているのです。だから、友と呼ぶと言われるのです。
 では、私共は何を知っているのでしょうか。第一に、神様は私共を愛してくださっている、このことを知っています。愛する独り子を私共に代わって十字架につけて殺すほどに、私共を愛してくださっていることを知っています。ふさわしくない私共を、神の子、神の僕、主イエスの友としてくださるほどに、私共を愛してくださっていることを知っています。第二に、神様はこの世界を、この世界に住むすべての者を愛しておられることを知っています。この世界のすべての者が父なる神様のもとに立ち帰ることを、神様は求めておられることを知っています。第三に、神様はその救いの御計画を実現するために生きて働き、私共を用いられることを知っています。
 このことを知っている者として、私共は出かけて行って実を結ぶことを求められているのです。実を結ぶとは、前回も申し上げましたが、「互いに愛し合う」ということです。互いに愛し合う交わりを形作るということです。それは具体的に、夫婦、親子、友人、同僚、地域の人たちとの関係を、「互いに愛し合う」交わりにしていく責任が私共にはあるということです。そのために私共は選ばれたからです。16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」との御言葉は、「あなたがたが出かけて行って実を結び」と続くのです。私共が何のふさわしさもないのに神様に選ばれ、神の子、神の僕、主イエスの友としていただいた。私共の中にその理由はありません。しかし、神様には目的があるのです。それは、私共が主イエスの十字架の前に立って、感謝と喜びの中で、愛の交わりを形作っていくということです。この目的を遂行するために私共は選ばれ、召され、招かれたのです。

5.主イエスの御命令=「互いに愛し合いなさい」
 主イエスは言われます。17節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」これは主イエスの御命令なのです。しかも、十字架の言葉です。主イエスが十字架の上から、私共に命じ、告げておられる言葉です。命令されるのが好きな人はいません。しかし、この主イエスの御命令は、喜びの命令であり、命の命令です。11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と主イエスは言われました。主イエスの喜びとは、父なる神様と一つであられるという、永遠の愛の交わりにある喜びです。この喜びに私共を与らせるために、主イエスは「互いに愛し合いなさい。」と命じておられるのです。この「命令」は、12節では「掟」と訳されていますが、同じ言葉です。この命令に従うならば、つまり私共が互いに愛し合う交わりを形作っていくなら、私共も主イエスが持っておられる喜びと同じ喜びに与ることが出来るというのです。イエス様が父なる神様と一つであられる喜び、永遠の愛の交わりの喜び。これに私共も与るというのです。想像をはるかに超える、驚くべき恵みの約束です。そして、この御命令と共にある時、私共は本当に生きる者となるのです。主イエスのこの御命令は、私共をまことの喜びへと導く喜びの言葉であり、まことの命へと招く命の言葉なのです。
 それは、こういうことです。一昨日は高岡市の水害があり、先日は九州の方で大変な水害がありました。被害に遭われた方々の上に主の慰めと支えを祈るものです。その被害を伝えるニュースの中で、濁流に流されそうになっている人が電柱につかまって救助される場面が映しだされていました。電柱につかまっている人に、救助の人が遠くからロープを投げて、「これを受け取れ。これを体に巻き付けろ。」と叫んでいました。こういう時、「よろしかったら、このロープにつかまりませんか?」そんな風に言う人はいません。「これにつかまれ!」と命令するのです。それは、これにつかまらなければ死んでしまうからです。主イエスの御命令とはそういうものです。「互いに愛し合いなさい。」とは、そういう命令なのです。
 愛することを知らず、自分のことしか考えることが出来ないようなら、私共は何を手に入れても、本当に生きることが出来ないのです。命を失うのです。しかもこの御命令は、主イエスが御自身の命を十字架に架けてまで、何としても私共を生かしたいと願ってお与えくださったものです。だから、私共はこの御命令に従って生きたいと思うのです。自分の愛のなさを知らされているが故に、神様に愛を与えてくださいと祈り願いつつ、この御命令と共に生きたいと願うのです。そのために私共は選ばれたからです。

[2012年7月22日]

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