1.証しとしてのペトロの否認
今朝私共に与えられている御言葉は、ペトロが主イエスを三度知らないと否認した出来事です。この出来事は四つの福音書すべてに記されておりますし、主イエスの十字架への道行を思い起こします時、必ず思い起こされる場面です。皆さんも今までに何度もこの話を聞いてきたでしょうし、何度も聖書のこの場面を読んでこられたことだろうと思います。しかし、この場面は大変有名なのですけれど、ここだけを取り上げて読んでも良く分からない所だ、と私は思います。この出来事には前と後の話があるのです。それを合わせて考えてみないと良く分からないのです。前に何があったかと申しますと、最後の晩餐の席上で主イエスがこのペトロの裏切りを預言しておられたということです。そして、後には何があるかと申しますと、主イエスを裏切ったペトロが、復活した主イエスと出会って再び使徒として召し出され、キリストの教会を導く者、主イエスの福音を宣べ伝える者になったということです。
ペトロが主イエスを三度知らないと言ってしまったことは重大な裏切りでした。しかしこのことは、ペトロ自身の口から語られなければ、決して皆が知るようになることはなかった出来事です。ペトロは何度もこの出来事を語ったのだと思います。「主イエスを三度も知らないと言ってしまった自分が、今こうして皆さんに主イエスの福音を告げているのは、主イエスが私を愛し、再び使徒として召し出してくださったからです。これが主イエスの愛です。これが十字架の赦しなのです。」ペトロは自分の存在をかけて主イエスの福音を語る時、この出来事に触れざるを得なかったのだと思います。三度主イエスを知らないと言ってしまった自分の弱さが、逆に主イエスの愛の深さを示すことになっていることの不思議を、ペトロは思ったことでしょう。
「自分の恥は神の栄光」という言葉があります。自分の弱さ、愚かさ、小ささ、醜さ、とても人前では言えないそういうものを私共は持っているし、そういう経験をしているわけです。しかし、そのような私共が神の子とされ、神の僕として生かされ、立てられている。ここに神様の栄光が現れ、証しが立つのです。だからパウロは、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙二12章9節)と告げたのです。「自分の弱さを誇る」というのは、自分はこんなにダメな人間ですということを誇るのではないのです。そうではなくて、このようなダメな私を神様は愛してくださり、用いてくださっている、何と神様は素晴らしいお方かと誇るということでしょう。
こう言っても良い。ペトロもパウロも、自分の弱さの中にあぐらをかいて、自分はどうせダメな人間なんだと開き直った所で生きていたのではない。彼らは悔い改めて、新しくされ、神様によって造り変えられた。だから、「自分の弱さを誇りましょう。」と言い切ることが出来たのです。もしペトロが、主イエスを裏切ったまま復活の主イエスに出会うこともなく、ただ故郷のガリラヤ湖に帰って漁師に戻っただけであったならば、彼は生涯この出来事を引きずり、この出来事に捕らわれ、ここから自由になることはなかったでしょう。ペトロにとって、主イエスを三度知らないと言って裏切ったこの出来事は、生涯の傷であって、誰にも言えない、誰にも見せられない、自分でも思い出したくもない出来事になったはずです。しかし、そうではなかった。復活された主イエスはペトロに現れ、ペトロを赦し、再び使徒として召し出したのです。ペトロは、この主イエスの赦しの中、新しい者へと造り変えられたのです。だから、彼はこの話を喜びをもって何度も語ることが出来たのです。そしてまた、これを聞いた者たちも、立ち直って命をかけて主イエスに従っているペトロの姿を見ていますから、主イエスの愛と赦しの恵みをここから聞き取ることが出来たのでしょう。ペトロのこの三度主イエスを否認した出来事を聞いても、誰も「なんてペトロはダメな奴か。」とは思わなかった。そうではなくて、「なんと神様は素晴らしいお方か。」「私もこの方と共に生きてみたい。この方の赦しの中に生きたい。」そう思ったのです。
ですから、このペトロの三度否認の出来事は、その後のペトロの使徒としての歩みがなければ何の意味もなくなってしまう、ただのダメな男の話になってしまうものですし、聖書に記されることもなかったはずなのです。ですから、この主イエスを三度否認したペトロの話は、それを語る主イエスの僕として生きているペトロという人間抜きには成立しない、そういう話なのです。証しとはそういうものなのです。そして、この話を聞く私共は、主イエスを三度知らないと言ってしまったペトロの姿に、自分の具体的な過ち、犯した罪、弱さを重ね合わせながら、自分もまたペトロのように生まれ変わることが出来るはずだ。今の自分は主イエスを三度知らないと言ってしまった時のペトロのような状態だけれど、この自分にも主イエスの弟子としての新しい明日があるはずだ。神様が私を造り変えてくださるはずだ。そう信じるように、そう信じて主の御前に心から悔い改めるように、招かれているということなのでしょう。
2.ペトロとユダの違い
私はここで、ペトロとイスカリオテのユダとの違いをはっきりさせておく必要があると思います。主イエスの十字架への道行において、ユダとペトロという二人の裏切りが聖書には記されているのです。このことは、キリストの教会というものはその出発において既に、主イエスを裏切るような者を含んでいたということです。教会は、決して教会の外の人たちが想像しているような、清く正しく美しい人たちの集いなどではないのです。しかし、悔い改めることのなかったユダではなく、悔い改めたペトロによって示される「悔い改めし罪人」の群れなのです。ただの善人の群れでもないし、ただの罪人の群れでもありません。「悔い改めし罪人の群れ」です。
今私は、「悔い改めることのなかったユダではなく」と申しました。これに対して、ユダも自分の罪を悔いたから首をつって死んだのではないか、と言う人もいると思います。確かに、ユダは主イエスを裏切ったという自分の罪を後悔して、首をつって死にました。しかし、これは悔い改めではないのです。これは「出口のない自責の念」とでも言うべきものです。「出口のない自責の念」と「悔い改め」とは全く違うのです。昔、「反省だけならサルでもできる」というテレビのコマーシャルがありました。何ともインパクトのある言葉です。しかし、本当にそうなのだと思います。自分がやったことを悪かったと思う。それは誰でも思うことです。しかし、それは反省であって悔い改めではないのです。悪かったと思ったらどうするのか。罪を償おうとするのでしょう。しかし、自分がやってしまった罪を本当に償うなんてことが出来るのでしょうか。出来ないのでしょう。だから、「出口のない自責の念」と言ったのです。反省に出口はありません。いつまでも自分を責めるか、あるいは、仕方がなかったと言って、無かったことにするか、忘れるか。それしかないのです。しかし、それは出口ではないでしょう。そんなことを何度繰り返しても、私共は何も変わりません。
悔い改めというのは、神様の御前に立つということです。神様の御前に立って、何一つ言い逃れせずに徹底的に裁かれるということです。そして、この自分の裁きを主イエス御自身が十字架の上で担ってくださったという事実の前に立つのです。そして、徹底的な赦しに与るということです。これが私共の犯した罪に対する唯一の出口なのです。罪を赦していただかなければ、私共はその罪から自由になることは出来ないのです。そして、その罪の赦しを受ける場こそ、この主の日の礼拝なのです。
反省は自分でするものです。どこまでも自分です。自分で自分を変えることは出来ません。しかし、悔い改めは神様の御業です。奇跡なのです。頑なで自分の罪を認めようとしない私共が、何一つ言い訳も出来ない者として神様の御前に立つことが出来るとすれば、それは聖霊なる神様の御業であり、奇跡以外の何ものでもありません。私共はこの奇跡を信じるのです。神様が、悔い改めを通して私共を造り変えてくださることを信じるのです。この信仰をもって立ち続けた群れがキリストの教会なのであり、この奇跡が起き続けることによって神様の愛と真実とを証しし続けてきたのがキリストの教会なのです。私共はユダになるのではなく、ペトロになることを求められ期待されているのです。人は悲しいほど変われないのです。だから、神様を必要としているのです。悔い改めを必要としているのです。神様を要らないと言える人など、一人もいないのです。誰も皆、自分の罪の悲しみの中に生きているからです。
3.ペトロの裏切りを知っていた主イエス
さて、ペトロが主イエスを三度知らないと言った出来事には、前がありました。最後の晩餐の時、主イエスが捕らえられる数時間前のことです。主イエスは弟子たちの足を洗い、互いに足を洗い合わなければならない、互いに愛し合わなければならないと告げられました。この時ユダの裏切りが告げられ、そしてペトロの裏切りもまた預言されたのです。ユダとペトロの裏切りを主イエスは知っておられた。主イエスは人間の罪というものを、そのどうしようもなさを、よくよく知っておられたのです。だから十字架にお架かりになられたのです。
しかし、ペトロはこの時まだ自分の罪を、自分の弱さを本当のところでは知りませんでした。だから、主イエスがペトロに「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(36節)と言われた時に、ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(37節)と言うのです。この時のペトロの言葉に嘘はなかったと思います。本気でそう思ったのです。本気でそう言ってしまうほどに、彼は自分の罪、自分の弱さを知らなかったのです。私共もそうでしょう。とんでもないことをしでかす前、私共は自分のダメさを本当のところでは分かっていないのです。そして、失敗した人のことを「あいつはダメな奴だ。」と言って平気でいられるのです。自分は違うと思っているからです。しかし、そうではないのです。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3章10節)のです。主イエスはそのことを知っておられました。
ペトロは「あなたのためなら命を捨てます。」と言いました。ペトロは、自分が主イエスのために命を捨てると言うのです。ペトロは全く分かっていません。命を捨てるのは主イエスの方です。主イエスがペトロのために命を捨てるのです。私共はしばしばこのような勘違いをいたします。自分が神様のために何かをする、何かが出来ると思ってしまうのです。全くの勘違いです。このような勘違いによって熱心な奉仕が為されることだってあるのです。しかし、勘違いは勘違いでしかありませんから、そのような奉仕が良き実をつけることはありません。私共は勘違いしてはいけません。主がすべてを備え、主がすべてを導き、主が私共を赦し、主が私共を立て、主が私共を導いてくださっているのです。この神様の御支配の中で生かされているのが私共なのです。
主イエスは、ペトロに対して「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(38節)と言われました。そして本当にそうなりました。三度というのは、実際に三回ということでありますけれど、それだけではありません。三というのは完全数ですから、完全に、完璧に、徹底的にという意味もあると思います。つまりペトロは、この時主イエスを完全に徹底的に知らないと言ったということです。一回だけなら、ペトロは「ちょっと口が滑って、成り行き上知らないと言ってしまった。」という言い訳も出来るでしょう。しかし、三回というのは、そのような言い逃れを許さない回数なのです。しかも、主イエスがそのことをあらかじめ預言されていたのですから、ペトロはこの時、主イエスが自分の罪・弱さを自分以上に知っておられるということを知らされたのです。この方には何の言い訳も出来ないということを、思い知らされたのです。
4.ペトロの再創造を知っておられた主イエス
主イエスはこの時、ペトロが自分をそのように否認することを御存知でした。人間の罪、人間の弱さを徹底的に知っておられたのです。しかし、主イエスがこの時知っておられたのはそれだけではないのです。主イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と言われた。「今ついて来ることはできない」とは、ペトロが三度知らないと言ってしまうということを指しているのでしょう。しかし、主イエスはこの時、その後のことも言われたのです。「後でついて来ることになる」とも言われたのです。これは、ペトロが復活の主によって再び召され、主イエスの福音を宣べ伝える者として歩み、最後はローマで殉教することを指しています。
ペトロはどうして主イエスを三度知らないと言ってしまったのか。これはほとんど考えるまでもないでしょう。主イエスが捕らえられ、自分も後をついて行ったけれど、主イエスが尋問される大祭司の屋敷の中庭に入り、そこで「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」(18章17節)と問われ、「そうです。」と答えれば何をされるか分からない。自分も捕らえられるかもしれないし、袋叩きに遭うかもしれない。だから恐ろしくて「違う。」と言ってしまったのでしょう。この時ペトロを襲った恐れは、肉体的・感覚的恐れと言っても良いものだったと思います。しかし、復活の主イエスによって再び召されたペトロは、この後同じような場面にあっても少しも恐れることなく、主イエスを証しする者として立っていきました。ペンテコステの後、使徒言行録4章にありますように、主イエスの福音を宣べ伝えたペトロは、主イエスと同じように捕らえられ、尋問を受けます。その時ペトロは少しも恐れることなく、堂々と主イエスの福音を語ったのです。「今後主イエスの名によって話すな。」と脅されますと、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」と言い放ったのです。何という変化でしょうか。これが、聖霊なる神様によって与えられる再創造、神様によって造り変えられるということなのです。
主イエスはペトロの弱さを知っていただけではなくて、そのようなペトロの上に臨まれる神様の再創造の御業をも知っておられたのです。そしてそれをもたらすために、主イエスは十字架にお架かりになられたのです。
ペトロは、主イエスを三度否認した時、目に見える地上の命しか知りませんでした。そして、その自分の命を守るために否認したのです。しかし、ペトロは復活の主イエスと出会って、この地上の命で終わることのない命に生きる道があることを知りました。それが主イエスと共に生きる道です。ペトロは確かにローマにおいて殉教しました。しかしそれは、永遠の命への入口となる死でありました。主イエスと共にある命は、復活の主イエスと共にあり、地上の命の終わりと共に消えることはないからです。
私共は、ペトロと同じように、この主イエスの復活の命、永遠の命に与る者として召されています。弱くても愚かでも罪を犯しても、何度でも悔い改めて、新しくしていただけば良いのです。目に見えるものにしか目が向いていない私共のまなざしを、神様は天に向けさせてくださいます。この神様の奇跡に与って、主イエスの恵みと真実とを証しする者として私共は召されているのです。讃えられるのは、称賛されるのは、私共ではありません。父と子と聖霊なる神様だけであります。主の御前に悔い改めて、新しくされて、自らの弱さを誇れる者に変えられ続けていきましょう。私共はユダではなく、ペトロとして生きるよう召されているのですから。
[2012年5月20日]
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