富山鹿島町教会

礼拝説教

「互いに愛し合いなさい」
レビ記 19章17〜18節
ヨハネによる福音書 13章31〜35節

小堀 康彦牧師

1.主イエスの送別説教
 ヨハネによる福音書の13章からは、最後の晩餐の場面の出来事が記されております。主イエスは、食事の前に弟子たちの足を洗い、そして「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(13章14節)と告げられました。その後、食事の席で主イエスはユダの裏切りを告げられ、ユダはそこから出て行きました。主イエスを裏切るためです。主イエスはこの日の夜、この時から数時間後に祭司長やファリサイ派の人々によって捕らえられます。その残された数時間の間に弟子たちに語られたのが、13章31節から16章まで続く、いわゆる「主イエスの送別説教」と言われるものです。31節の始めの所を見ますと、「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。」とあります。ユダは出て行ったのです。ついに十字架へのスタートボタンが押されてしまいました。もう時間がありません。残されたわずかな時間の中で、主イエスは弟子たちにどうしても伝えておかなければならないことをお語りになった。それが31節から始まる送別説教なのです。
 私共はこれから、この主イエスの送別説教から順に御言葉を受けていくことになります。内容的には、そう単純に言うことは難しいかもしれませんが、一応この主イエスの送別説教は14節までの前半と15章・16章の後半とに分けることが出来ます。前半はこれからのこと、つまり主イエスが十字架に架かり、復活し、昇天されること、そして主イエスが見えなくなっても聖霊が与えられるから大丈夫だという慰めが語られます。そして、後半では、主イエスの弟子としてどのように生きていくのか、歩んでいくのかということが告げられております。
 そのように送別説教の全体を見渡しますと、今日与えられております31〜35節の部分はその冒頭に当たり、全体を要約している、そのように読むことが出来るかと思います。

2.主イエスの栄光=十字架
 順に見てまいります。主イエスは、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」と告げられます。これは過去形で記されておりますけれど、内容としては、これから起こる十字架のことを指しています。主イエスが栄光をお受けになるのは、十字架の時です。この過去形で告げられておりますのは、神様によって確実に行われることになっていることを告げる場合の言い方です。その意味では「今や、人の子は栄光を受けることになっている。神も人の子によって栄光をお受けになることになっている。」と訳しても良いかと思います。
 主イエスの栄光は、十字架の栄光です。十字架は極刑ですから、人の目にはとても栄光の姿とは見えません。けれども、天地を造られて以来の神様の愛、神様の救いの御業の成就の時がこの主イエスの十字架の時ですから、主イエスの十字架は神様の御心が完全に現れるという意味で栄光の時なのです。先日、まだ教会に来ておられない方々と聖書の学びをしておりました。学びが終わりましてお茶を飲んでいる時に、一人の方が、「自分は小さい時に十字架の絵を見て、恐ろしくなった。どうしてキリスト教はこんな恐ろしいものを大切に拝んでいるのかと思った。」と言われました。なるほどと思いました。私共にとって十字架は神様の愛の究極の姿ですけれど、神様の愛を知らなければ、十字架というものはただただ恐ろしいものにしか見えないということなのでしょう。
 何故、主イエスは十字架にお架かりになられたのか。それは、私共に代わって、私共の一切の罪の裁きをイエス様が我が身に受けてくださったからです。主イエスの十字架がなければ私共の罪は赦されることなく、私共はただ滅びるばかりの者として、死に向かって歩むだけの存在にすぎません。しかし、主イエスが十字架にお架かりになってくださったが故に、私共は神様に向かって「アバ、父よ。」と祈ることが出来、神様がどんなに私共を愛し、赦し、受け入れ、救おうとされているかが分かる。この神様の救いの御業を完成させることこそ、神の独り子イエス様の栄光なのです。
 私共は、栄光と言えば、人の目に栄光と見えること、人から称賛されることを思います。しかし、主イエスは、神様の目に良しとされること、神様の大いなる救いの御業に仕えること、その御業の成就こそが本当の栄光であることを知っておられました。私は、この主イエスが自らの十字架をもって「栄光を受ける時」と語られたことを、よくよく心に刻んでおきたいと思うのです。私共は、神様の目から見てどうなのか、神様の御業にお仕えしているかどうか、そこから自らの歩みを考えるのではなくて、いつの間にか人の目にどうか、人からどう思われるか、そんなことにばかり心を使うようになってしまうからです。私共も主イエスの弟子として、神様の目から見て栄光ある歩みを為していきたいと思うのです。その意味で、主イエスの十字架の栄光は、私共が生きていく上でも、私共の歩みを照らす光となるのです。

3.主イエスの復活・昇天
 次の32節「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」主イエスの十字架を通して、神様の愛の真実、豊かさが明らかにされるわけですが、そうすると今度は神様がイエス様に栄光を与えると言われる。これは、復活を指していると考えて良いでしょう。「しかも、すぐにお与えになる。」というのは、三日目に復活されることを指しているわけです。
 そして、33節「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」というのは、復活に続く昇天を指していると考えて良いと思います。ヨハネによる福音書においては、場所を示す言葉は、水平の次元におけるこの地上の場所ではなく、垂直の次元における天を指して用いられ、主イエスが誰であるかということを語ることが多いのですが、この場合もそうです。しかし、人々はこれを理解することは出来ませんでした。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように」というのは、7章34節で主イエスが言われたことを指していますが、この時も主イエスが垂直次元のこと、つまり神様のもとに、天に昇ることを言われたのですが、人々は分かりませんでした。このように、ヨハネによる福音書においては、場所を指す言葉で、御自身が何者であるかを示す場合はたくさんあります。9章29節で、ユダヤ人たちが主イエスのことを「あの者がどこから来たのかは知らない」というのは、何者であるのか知らない、という意味です。主イエスは神様のもとから来て神様のもとに帰るのですが、それは主イエスがまことの神の独り子であることを示しているわけです。主イエスは、御自身が「神の子」である、「神」であるという直接的な言い方ではなくて、どこから来てどこへ帰る者であるかというあり方で、御自身のことをお語りになります。それが、ヨハネによる福音書において主イエスが御自身を語られる場合の語り方なのです。イエス様は天に昇られることを語り、御自分が何者であるかということをお示しになったのです。
 しかし、この場合、更に主イエスの弟子たちがこれからどういう歩みをするかということについて示すことにもなっています。次回見ることになる36節以下において、ペトロがこの主イエスの言葉を受けて、「主よ、どこへ行かれるのですか。」と問うわけです。すると、主イエスは、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」とお語りになりました。これは、後にペトロが殉教すること、伝えられているところによればローマにおいて逆さ十字架に架けられて殉教したのですが、そのことを指していますし、その後ペトロが父なる神様の御許に召されることを指しているわけです。
 このように、主イエスはここで、御自身がこれから十字架に架かり、復活して、天に昇られることをお語りになったわけです。

4.新しい掟=互いに愛し合いなさい
 そして、そのように主イエスはこれからの歩みを告げた後で、弟子たちに「互いに愛し合いなさい。」という新しい掟を与えられたわけです。この「互いに愛し合いなさい」というのは、15章ではぶどうの木のたとえとして更に展開されていき、15章12節と17節でこの言葉が繰り返されます。この「互いに愛し合いなさい。」との御言葉こそ、主イエスが弟子たちに、主イエス・キリストの弟子として歩む者がどうしてもそこにとどまり続けなければならないこととして示されたものなのです。
 主イエスの弟子として為すべきこと、為さねばならないことは、挙げればきりがないほどあるでしょう。教会形成、伝道、教育、福祉、医療、奉仕、山ほどあります。しかし、主イエスはここで「互いに愛し合いなさい。」とだけ告げられました。これは、キリストの弟子としての私共が何をするにしても、「互いに愛し合う」ということが欠けていたのなら意味がないものになってしまう、そういうことではないかと思うのです。
 しかし、主イエスはどうしてこれを「新しい掟」と言われたのでしょうか。先程お読み致しましたレビ記19章18節には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」とあります。既に旧約の律法においてこのように記されているのですから、「互いに愛し合いなさい。」という掟は少しも新しくないのではないか。そう思う方もおられると思います。あるいは、旧約の律法に記されていることなど知らなくても、「互いに愛し合う」のが大切だということぐらい誰でも知っているではないか。べつに主イエスに改めて教えてもらうほどのことではない。そう思う方もおられるかもしれません。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。私共は主イエスに改めて教えていただかなくても、本当に「互いに愛し合う」ことが大切だと思っているでしょうか。これこそ無くてはならないもの、これが無ければ一切が無意味になってしまうもの、自分の人生のすべてを賭けて全うしなければならないものとして、私共は「愛」というものを受け止めているでしょうか。そうではなくて、「互いに愛し合う」というこの主イエスの御言葉さえ、どこかで「良いことはやりましょう。悪いことはやめましょう。」というくらいの、つまらない倫理の一つとして受け止めてはいないでしょうか。もしそうだとすれば、この主イエスの御言葉をきちんと受け取っていませんし、少しも新しい掟にはならないでしょう。
 実は、この主イエスの掟の新しさは、「わたしがあなたがたを愛したように」というところにあるのです。「互いに愛し合いなさい」という言葉を、分かっていることとして、もう知っていると受け取る人は、自分の力で愛せると思っているし、この言葉を「互いに仲良くしなさい」という程度のこととして受け取っているのでしょう。しかし、主イエスがここで言われていることは、そんなことではないのです。主イエスは、そんなつまらないことをわざわざ言うために十字架にお架かりになられたのではないのです。
 ここで主イエスが語られた愛は、十字架の愛です。十字架の愛とは、神様が御自身に敵対して罪の中を歩む私共のために、愛する独り子を身代わりとされた愛です。自分にとって大切な人、好きな人、気が合う人、その人のために労苦をいとわない。そういう愛ではないのです。親が子を愛する、恋人を大切にする、友人と仲良くやる。そういうことでもないのです。たとえ自分と気が合わない人でも、嫌な人でも、その人のために労苦をいとわず、愛の業に励むのです。それを、互いに為せと言われ、これが掟だと言われたのです。これは実に新しいではありませんか。

5.神様の愛を注がれることによって
 しかし、このように申しますと、「それは確かに新しいけれど、自分にそのような歩みが出来るのか。」と思われるでしょう。生まれたままの私共に、そのような力はありませんし、そのような愛は、私共の内側から湧き上がることはありません。
 この愛は、主イエス・キリストから注いでいただかなければならないのです。イエス様に愛され、イエス様によって罪を赦していただいた者は、自らの罪を知ります。自分の中に愛がないことを知らされます。その私共に「互いに愛し合いなさい。」と主イエスは言われる。愛のない私共が互いに愛し合うとすれば、主イエスに愛を注いでいただかなければなりません。そして、そのために主イエスに愛を祈り求めなければならないのです。何故なら、この愛に生きることが、主イエスの掟だからです。「私には出来ません。」と言って済ませるわけにはいかないのです。
 自分が、苦手だ、気が合わない、好きじゃない、そういう人のために自分の時間を用い、ほんの少しでも労苦することが出来るとすれば、それは決して小さなことではないでしょう。そして、その営みへの一歩が踏み出される時、私共とその人との関係は変わるのです。必ず変わるのです。私共は、相手が変わればこっちも変わってやると思ってしまうところがあります。しかし、そうではないのです。主イエスに祈り求め、愛を注いでいただき、その一歩を踏み出すならば、必ず変わっていきます。しかし、そのためには力が必要です。勇気が必要です。だから祈らなければならないのです。
 先ほど、親が子を愛し、夫婦が愛し合い、友人と仲良くやっていく、その程度のことをここで主イエスは言われているのではない、と申しました。しかし、この自分の大切な人々との関係においてさえなかなか難しい、それが私共が生きている現実ではないかと思います。私共は、そのような中で苦しんでいる。このことの背後に、「自分自身が愛されていない」あるいは「自分を受け入れてくれない」ということがあることが少なくありません。発達心理学においては、幼少期に両親からの愛を十分に受けることが出来なかったことが、大人になっても私共に重大な影響を与えることが指摘されてています。しかし、こんなことはいくら指摘されたところで、私共は幼い頃に帰ることは出来ないのです。だったら、お手上げなのか。そうではないのです。神様が愛してくださっているのです。私共は、この神様の愛の中にある自分を発見することによって変わるのです。本当に変わるのです。驚くほど変わるのです。主イエスはそのことを保証してくださいます。だから、新しい掟として愛無き私共に愛を求められるのです。
 「主イエスは、自分と気の合わない人とも愛し合えと言うのか。とてもそんなことまで出来るはずがない。私にはそんな余裕はありません。」そう思われる方もおられるかと思います。しかし、主イエスに愛を祈り求めるなら、そして私共が一歩を踏み出すなら、そこにおいて必ず何かが変わります。そのためには、言葉の掛け方、対応の仕方という知恵も必要でしょう。しかし、その知恵もまた与えられるのです。私共は、そのことを信じて良いし、そのことを信じて一歩を踏み出すことを求められているのです。何故なら、そのような歩みを踏み出し続けることによって、私共が主イエスの弟子であることの証しが立っていくからです。そして、私共はこの証しを立てるために、主イエスの弟子として召されているのです。

[2012年5月13日]

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