富山鹿島町教会

礼拝説教

「洗足」
エレミヤ書 31章31〜34節
ヨハネによる福音書 13章1〜20節

小堀 康彦牧師

1.教会総会の日を迎えて
 今日は、この礼拝の後で、2012年度の教会総会が開かれます。皆さんお気付きのことと思いますが、四月の第一の主の日の礼拝から、週報の表に印刷されております聖句が変わりました。ヨハネによる福音書15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」です。これが2012年度の私共の聖句です。この御言葉に導かれて、2012年度の歩みを為していきたいと願っております。教会総会がある主の日の礼拝は、その年の教会聖句から御言葉を聞くことになっています。この御言葉に聞き、2012年度の私共の歩みが主の御心にかなうものであることを祈り願うものであります。

2.まことのぶどうの木の実り
 さて、私共は毎週ヨハネによる福音書から御言葉を受けているわけですが、先週与えられました13章の洗足の出来事の所からは、最後の晩餐における主イエスと弟子たちとのやり取りが記されております。この15章のぶどうの木のたとえも、14章から始まる主イエスの送別説教とでも言うべき長い説教の一部です。ですから、このぶどうの木のたとえを話されるまでに主イエスがお語りになられたことを、少し見ておく必要があるかと思います。主イエスは洗足の出来事の後、弟子たちに「互いに愛し合いなさい。」という新しい掟を与えられ、「互いに愛し合うこと」こそ主イエスの弟子であることのしるしであると言われました。そして、14章の始めの所で、主イエスは御自身が父なる神様のもとに行くことを告げられます。それは、十字架に架かって死なれること、三日目に復活されること、そして天に昇られることをも含んでいると思います。主イエスは、これからどういうことが起きるのかを弟子たちに告げられたわけです。そして、続いて聖霊が与えられるという約束をされました。そこでは「弁護者」「真理の霊」とも言われておりますが、聖霊のことです。そしてそのことが告げられた後に、この15章で「わたしはまことのぶどうの木」と始まっているのです。つまり、「互いに愛し合うこと」が主イエスの弟子であることのしるしだが、主イエス御自身はもう十字架にお架かりにならなければならない。けれども、聖霊が与えられるから、あなたがたは互いに愛し合うという掟を全うすることが出来る。大丈夫。そう言われて、「わたしはまことのぶどうの木」と語り始められたのです。とするならば、このぶどうの木の実りとは互いに愛し合うこと、そのように理解することが出来ると思うのです。
 しかし、この「互いに愛し合う」ということは、お互い仲良くやっていきましょうというようなこととは少し違うのです。これは実に豊かな内容と持っているもので、お互い仲良くやっていきましょうというような、人と人との付き合い方の話しで終わるようなことではないのです。主イエスの弟子としての「しるし」となるものであり、ここに神様がおられるということが明らかになるほどのことなのです。

3.「まことのぶどうの木」と「まことでないぶどうの木」
 ここで私共は、主イエスが何故「わたしはまことのぶどうの木」と言われたのかを考える必要があります。「まことのぶどうの木」という言い方は、「まことではないぶどうの木」というものがあるということを前提にして主イエスがお語りになったのだと思います。「まことではないぶどうの木」とは、神様が植えたぶどうの木でありながら、神様が期待した実を結ばなかったぶどうの木のことです。そして、それはイスラエルのことでした。
 先程、イザヤ書27章をお読みしましたが、ここには、やがて神様と和解し、良き実りをつけることになるぶどう畑の預言が記されておりました。この預言の成就こそ、主イエスが「まことのぶどうの木」として来られることによってもたらされることになるわけですが、このイザヤの預言が語られた背景には、イスラエルが良き実りをつけないぶどう畑になってしまっていたという現実があるわけです。
 イザヤ書5章1〜7節に、「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを堀り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう、わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」とあります。イスラエルの民、ユダの人々こそ、神様が愛されたぶどう畑でした。神様は出エジプト以来、これを愛し、手をかけ、良き実りを期待されたのです。ところが、実ったのは酸っぱいぶどうでした。とても食べることの出来ないものだったのです。この酸っぱい実りとは、イザヤ書全体を見ればすぐに分かることですが、具体的には偶像礼拝であり、社会的不正義でした。つまり、神様が与えられた十戒をことごとく破り、それで平気な顔をしている。それが「まことではないぶどうの木」としてのイスラエルだったのです。
 イエス様が「わたしはまことのぶどうの木」と言われた時、それは、酸っぱいぶどうの実しかつけることが出来ず、その結果バビロン捕囚という神様の裁きに遭わなければならなかったユダのような民になるのではなく、神様が求める良き実をつける新しい神の民がわたしから始まっていく、そう宣言されたのだということなのです。ですから、主イエスがこの「わたしはまことのぶどうの木」と言われた時、それは、私共が個人的に主イエスにつながって愛に満ちた人になるというようなことではなくて、「互いに愛し合う」という新しい神の民、新しい共同体がそこに生まれるということを意味していたのです。そして、それがキリストの教会というものなのです。
 ですから、この新しい神の民がつける良き実とは「互いに愛し合う」ということですけれど、その内容は、十戒に示されている「神を愛し、人を愛する」交わりということになるでしょう。「お互いに仲良くする」と言い換えることが出来るような内容ではないのです。神様に愛され、神様を愛する。この神様との交わりの中に生きる献身者の群れとなることによって与えられるところの愛の交わりなのです。お互いが、神様の御心にかなうこと、神様に従うことを第一とする者とされていくことによって生じる愛の交わりです。お互いが、同じただ独りの神様を見上げ、その御前にひれ伏し、全力で従っていく中で育まれていく愛の交わりなのです。

4.主イエスにつながっていれば
 この愛の交わりの鍵は、主イエス・キリストに一人一人がしっかりつながっているということです。この「つながっている」という言葉は、直訳すれば「その中にとどまる」という言葉です。ぶどうの木なので「つながっていれば」と訳されたのでしょう。ですから5節の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば」という所は、直訳すれば「わたしの中にその人がとどまり、その人の中にわたしがとどまるならば」となります。ぶどうの木の太い幹がイエス様で、その枝が私共だというイメージを持つ方が多いと思います。しかし、ぶどうの木というのは、先の枝も含めてぶどうの木なのではないでしょうか。ここまでがイエス様、ここから先がわたしたち、そんな風に分けられるものではないと思うのです。私共がイエス様に包まれ、イエス様が私共の中に宿るという主イエスと私共の命の一体性とでも言うべきあり様がここで示されていることなのです。つまり、私共が主イエスの中に生きるということであり、主イエスが私共の中に生きるということです。
 このことをさらに具体的に言えば、私共が聖書の言葉の中に生きるということであり、聖書の言葉がいつも息づいている生活を私共が保つということです。このことは、7節で「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言われていることからも分かります。主イエスが私共の中に宿るということは、主イエスの御言葉が私共の中に宿るということなのです。ですから、私共が主イエスとつながるということは、この礼拝における説教と聖餐とに与り続けるということであり、日々の生活の中で聖書を読み祈るということによって与えられるものなのです。このことを横に置いて、主イエスとつながっていくことは出来ません。
 主イエスは、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と約束してくださいました。私共が一生懸命努力して良い人になりましょうというのではないのです。イエス様はまことのぶどうの木なのです。必ず良き実を結ぶまことのぶどうの木なのです。私共がこの方の中におり、この方が私共の中にいてくだされば、まことのぶどうの木である主イエスが必ず良き実を結ばせてくださるのです。私共が頑張って、何とかして良い実を結びましょうという話ではないのです。私共にそんな力はありません。イエス様は続けてはっきり言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」私共の中に、神様が求めておられる良き実を結ぶ力はありません。しかし、イエス様はこのような私共に良き実を結ばせることがお出来になるのです。私共を造り変え、私共のこの交わりを麗しいものに造り変えてくださるのです。互いに愛し合う者としてくださるのです。私共はそのことを信じて良いし、そのことを信じなければなりません。これを信じるところからすべては始まります。これを信じなければ、私共の努力などというものはまことに空しいことになってしまうでしょう。

5.望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる
 イエス様は更に7節で「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と約束してくださいました。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」何と素晴らしい約束でしょう。しかしこれも、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」、直訳すれば「あなたがたがわたしの中にとどまっており、わたしの言葉があなたがたの中にとどまっているならば」ということですから、宝くじが当たりますようにという類の「望むもの」が何でもかなえられるということでないことは明らかでしょう。主イエスの中にとどまるなら。主イエスの救いを信じ、御支配を信じ、主イエスの御業にお仕えするなら。そして、主イエスの言葉に導かれて歩んでいるなら。そういう歩みの中で、私共が神様の御栄光のために願い求めるものは、何でもかなえられるということです。
 主イエスというまことのぶどうの木につながることによって実る良き実は、互いに愛し合うという交わりであると申しましたが、この交わりが更に広く大きく成長することを私共が願い求めるなら、それは必ずかなえられるということでもありましょう。神様の御支配が広く確かなものとされるということは、具体的には、まことのぶどうの木である主イエス・キリストによって新しく造られるキリストの教会という愛の交わりが、大きく豊かに成長していくということです。たった十二人で始まった主イエスの弟子たちの群れであるキリストの教会は、今では全世界に広がって、世界の人口55億の内、19億を超える人数になっています。ちなみに、イスラム教は10億、ヒンズー教は7.6億、仏教は3.3億、その他15億となっています。つまり、大体三分の一がキリスト教で、イスラム・ヒンズー・仏教合わせて三分の一、その他三分の一という感じです。キリスト教は、日本では1パーセント程度ですが、世界では圧倒的に多いのです。歴史的に言えば、それはキリスト教がいつも伝道してきたからでしょう。しかし、もっと本質的には、世界を造られたただ独りの神様が、この世界の救いの実現のために働き続けてくださったからなのです。この神様の御業は、今も少しもとどまることなく続いています。この御業にお仕えする者の群れとして、神様は教会を立ててくださったのですし、キリストの教会を用いて、私共を用いて、今もその御業を推し進めておられるのです。この御業に仕えるために私共が願い求めることを、神様は必ずかなえてくださるのです。私共はそのことを信じて良いし、信じることを求められているのです。

6.本気で信じない罪と戦う
 私共の罪は、この神様の御支配、そして主イエス・キリストが聖霊を送ってくださってすべてを導いておられることを、本気で信じないというところに現れると言って良いでしょう。私共が戦うべき罪はこの不信仰なのです。神様ではなくて、自分の力、自分の能力、自分の富を信じ、頼る。それでは決して、神様が求めておられる良き実を結ぶことは出来ないのです。
 聖書を学び祈る会ではずっと旧約聖書を学んでおりますけれど、そこで繰り返し繰り返し告げられていますことは、イスラエルのこの不信仰なのです。イスラエルのあるパレスチナ地方というのは、西のエジプト、東のメソポタミアに挟まれており、イスラエルの歴史は、この二つの地域に出現する巨大国家の武力の前に翻弄されるということを繰り返してきました。弱小国家であったイスラエルは、その時その時の強い方につくという外交を行ったわけです。これは、人間の知恵とすれば当然のことと言えるでしょう。しかし、預言者たちは、イザヤもエレミヤもエゼキエルも、そのようなあり方こそ生ける神を信じようとしない不信仰である、と厳しく告発したのです。そして聖書は、その不信仰の結果、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされたと告げているのです。
 皆さんはこれをどう考えるでしょうか。イスラエルの外交戦術は、歴史の中で当然のことだ。それ以外に弱小国家であるイスラエルがどうやって生き残る道があるのか。そう考える方もおられると思います。もし、イスラエルが普通の国家であったなら、それで良かったのだと思います。しかし、イスラエルは神の民であり、神様のぶどう畑だったのです。ただ神様にのみ依り頼むことによって、主なる神様こそすべてを御支配しておられるただ独りの神様であることを証しするために選ばれた民だったのです。イスラエルが普通の国家になってしまったら、どうして神様の御支配を証しすることが出来るでしょう。
 イスラエルが神様から求められたことは、どんな時にもただ神様だけを依り頼むということでした。これは、人間の知恵から見れば、まことに愚かで非常識なことでした。しかし、そのような歩みを為すために神様はまことに小さなイスラエルという民をお選びになり、御自身の民とされたのです。私共が神の民とされているということも、そういうことでしょう。この日本において、キリストの教会は確かに小さな群れです。私共もこの世的に地位の高い、力のある者がいるわけでもなく、知恵のある優れた者たちであるわけでもありません。しかし、そういう者たちが、ただ神様を依り頼む、この一点にしっかり立つことによって事を為していく時、この群れのただ中に神様がおられ、確かに生きて働いておられるということが証しされていくのでしょう。少しも善人と言えるような者ではない私共が、ただ主イエスにつながり、主イエスを信じ、主イエスの御言葉に従う中で、驚くべき愛の交わりが形作られていくならば、イエス・キリストとは大したものだとの証しが立つのです。その為に、神様は私共を選んでくださったのです。
 私共のこの2012年度の歩みが、自らの不信仰と戦い、ただ主イエスを頼り、主イエスを信じ、主イエスの御支配の中で神様の喜ばれる実りを結んでいく歩みとなりますよう、心から願うものであります。

[2012年4月29日]

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