1.神様のとの交わり、主イエスとの交わりに生きる
神様を信じる、主イエスを信じるということは、神様と共に生きる、主イエスと共に生きるということです。神様との交わりの中に生きることであり、主イエス・キリストとの交わりの中に生きることです。私はいつも、主の日の礼拝を守りましょう、日々聖書に親しみ祈りましょう、と申します。それは、そのような日々の歩みを抜きにして、主イエスと共に生きるということは出来ないからなのです。日々聖書を読み、祈りをささげ、主の日には礼拝を守る。これが、主イエスを信じる者の生活の基本です。もちろん、私共の生涯には様々な時があります。心穏やかに祈りをささげることが出来ないほどに、心乱れ、困り果て、思い悩んでしまう日々もあるでしょう。主の日の礼拝になかなか集えないという時もあるでしょう。そのような時はどうすれば良いのでしょうか。
私共の教会のI長老が著した『キリスト教入門』という冊子があります。私共の教会で礼拝後に持たれている「初歩の会」のテキストとして用いられているものです。「初歩の会」は短い時間ですので、求道者の方、洗礼を受けて間もない方はぜひ出席して欲しいと思います。この冊子は問答形式になっていて、問60〜71が祈りについて記されています。その問66にこうあります。問「祈る気持ちになれないとき、どうすればよいのですか。」答「祈れるように聖霊の助けを求めればよいのです。」これは、本当にそうだと思います。祈れない時にどうすれば良いのかという問いに対して、祈れるように祈りなさいというのでは、答えになっていないではないかと思う方もおられると思います。しかし、この問いを丁寧に読みますと、問いは「祈る気持ちになれないとき」なのです。問題は、自分の気持ちです。この自分の気持ちを打ち破ることは、自分の中の何かによっては、つまり強い意志とか熱心とかいうものによっては出来ないのです。答えは「聖霊の助けを求める」というのです。聖霊なる神様の助けによって、祈る気持ちになれない私共の罪の現実を打ち破っていただくしかないということなのです。ここには、信仰というものが、私の信じる気持ちなどというものではないということがはっきり示されています。信仰とは、聖霊なる神様が私共に与えてくださる、大いなる恵みなのです。信仰というものを、私の熱心や、私の決断や、私の生き方といったものだと考えている人にこれは分かりません。しかし、私共の信仰は、そのようなつまらないものではないのです。
問71にはこうも記されています。問「教会に行くのが嫌になったとき、どうすればよいのですか。」答「教会の礼拝に参加できるように、お祈りすべきでしょう。」これも、まことにその通りです。私共が、何故主の日の礼拝に集えないのか、何故日々聖書に親しみ祈ることが身に付かないのか。それは、そのように出来るよう祈っていない、聖霊なる神様の助けを求めていない、ということにあるのではないでしょうか。私共は自分や家族の健康のために祈ってはいても、自分が祈れるように、日々聖書を読めるように、礼拝に集えるように、祈っているでしょうか。それをしないのは、どこかで私共が信仰というものを、自分の生き方、考え方の一つぐらいに思ってしまっているところがあるからなのではないか。そう思うのです。信仰とは、そんな小さなものではないのです。天地を造られた父なる神様が、永遠の御計画の中で、私共を罪の闇の中から救い出すために愛する独り子を与えてくださり、私共の一切の罪の身代わりとしてくださった。そして、私共を選んで、その神様の尊い独り子の血潮を持って、私共を罪の縄目から救い出してくださった。私共を神の子、神の僕として、永遠の命に与る者としてくださった。その気が遠くなるほどに大いなる神様の救いの御業の中で与えられたのが、私共の信仰というものなのです。ですから神様は、私共が自らの信仰をいよいよ堅くはっきりさせるために願い求めるなら、必ず聖霊なる神様の助けを与えてくださり、私共の中に巣くっている、神様に従おうとしない罪を打ち滅ぼしてくださるのです。私共はそのことを信じ、神様に願い求めれば良いのですし、そうしなければならないのです。
2.主イエスの叫び
今朝与えられております御言葉は、12章までにイエス様が人々に対して様々な奇跡を為し、教えを語られた、最後の締めくくりの所です。13章からは、最後の晩餐の場面における、主イエスと弟子たちとのやり取りが記されます。その意味でこの箇所は、この福音書において12章までに主イエスが為されたこと、お語りになったことの総括と言っても良いかと思います。
44節「イエスは叫んで、こう言われた。」とあります。私は迂闊なことに、ここに記されている「叫んで」という言葉を読み落としておりました。目では「イエスは叫んで、こう言われた。」と読んでいるのですが、頭の中では「イエスはこう言われた。」と読んでいたのです。言われている内容が、叫びながら言うような内容ではないと思ったからでしょう。しかし、聖書はここではっきりと「イエスは叫んで、こう言われた。」と告げています。
この主イエスの叫びは、どんな叫びなのでしょうか。皆さんは、どんな時に叫んだことがありますか。私はあまり大声で叫んだという記憶はありません。特に大人になってから大声で叫んだという記憶はあまりありません。私の叫んだ記憶は、小学生の頃にスキー場で霧が出て来て10m先も見えなくなった時に、一緒に滑っていた父の姿が見えなくなって、大声で「お父ちゃ〜ん!」と叫んだことを思い出すくらいです。父はすぐに来てくれて、霧が少し晴れてくるのを待って降りて来たのを思い出します。しかし、ここで主イエスが叫んでおられるのは、もちろん助けを求めてではありません。その逆です。主イエスは、罪の闇の中に沈んでしまっている私共に向かって、私共を救い出すために叫んでおられるのです。まるで激流に流されそうになっている人にロープを投げて「これにつかまれ!」と叫ぶように、あるいは、山で遭難している人に向かって「助けに来たぞ!もう大丈夫だ!頑張れ!」と叫ぶように、叫ばれているのです。この箇所は、12章までの主イエスの御業、主イエスの言葉の総括のような所だと申しました。とするならば、主イエスの御業、主イエスの言葉というものは、実に主イエスが私共を救わんがために叫んでおられる、そのような言葉・御業として聞き取らなければならないということなのでしょう。そして、主イエスの言葉をそのような叫びとして聞き取ることが出来たなら、私共もその叫びに応えて、「私はここにいます!助けてください!」そう叫ぶのでしょう。それが、聖霊の助けを求めて祈るということなのです。
3.一つの心、一つの意志、一つの目的
主イエスはこう叫ばれます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」ここで主イエスははっきりと、父なる神様と御自身とが一つであることを告げておられます。ここには、私共が考える親子という関係以上のものがあります。人間の親子というのは、どんなに似ていても、「私を見る者は私の父を見るのである。」とは言えないでしょう。ここには、主イエス・キリストが父なる神様と一つの心、一つの意思、一つの目的を持って、私共人間を救うために来られた。そして、その救いの御業を行い、救いへと導くためにお語りになられたということが示されているのだと思います。49節「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」とあるのも、そういうことでしょう。
では、その父なる神様と一つなる心、一つなる意思、一つなる目的とは何か。それは、46〜47節にある「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」ということです。つまり、罪の暗闇の中にあった私共を救うということです。
罪の暗闇の中にある者は、自分が罪の暗闇の中にあるということを知りません。生まれてからずっと暗闇の中に生きていれば、そこが暗闇だということも知らないのは当たり前です。光を見て、光に照らされて、私共は初めて、自分が暗闇の中に生きていたということを知るのでしょう。主イエスは、そのような光として世に来られたのです。主イエスに出会う前、私共は自分がどんなに小さく、どんなに愚かで、自分のことしか考えない者であるかを知りませんでした。そのくせ、自分の力だけで生きているかのような思い違いをしておりました。人間死んだらお終いだと思い、永遠の命があるなど考えたこともありませんでした。自分のことを棚に上げて、あの人はああだこうだと批判ばかりしておりました。自分に良くしてくれる人は良い人で、自分と気の合わない人がいれば邪険にしておりました。愛することを知らず、人に仕えることを知りませんでした。そのような私共を、神様はなお愛してくださり、イエス様を与えてくださり、この人を見よ、ここにあなたのあるべき姿があると示してくださいました。神様を愛し、神様との交わりの中に生きるという新しい道を示してくださいました。隣り人を愛し、隣り人に仕える道を教えてくださいました。そして、主イエス・キリストの十字架の故に、私共の一切の罪を赦してくださいました。神の子、神の僕として生きる新しい道を与えてくださり、光の中を歩むようにと招いてくださったのです。本当にありがたいことです。
私共はしばしば、このありがたい救いの恵みの中に生かされていることを忘れます。そして、まるで主イエスの光の中に生きていないかのように、以前の暗闇の中で生きていた時と同じような言葉が口から出たり、妬み心にさいなまれたりします。人をバカにし、まるで自分が偉い者になったかのように振る舞います。そして、そのことに気付くと、本当に嫌になってしまう。それは、私共の中に根深く巣くっている罪が、まるで雑草のように、抜いても抜いても頭をもたげてくるからです。草取りは大変です。取っても取ってもまた生えてきます。でも、やらなければなりません。そうしないと草ぼうぼうになってしまうからです。そんな草取りの極意は、まだ出て来たばかりの時に摘んでしまうことだそうです。だから、毎日聖書を読み、祈ることが大切なのでしょう。主イエスの光は永遠の光です。聖霊の助けと導きを願うなら、私共は何度でもこの光の中へと立ち帰ることが出来ますし、神様はそのことを私共に求めておられます。
4.信じない者の裁き
さて、48節は少し分かり難いところです。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」とあります。しかし、47節で「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」と言われておりますので、裁かれないのか裁かれるのか分からない、と思う方もおられるでしょう。
これはこういうことだと思います。主イエスは裁かれない。主イエスは救うために来られたのです。しかし、この主イエスの救いを拒み、受け入れないという人がいるわけです。ヨハネによる福音書では、今までも繰り返し繰り返し、信じる者と信じない者がいたということが記されてきました。主イエスを信じない者、受け入れない者はどうなるのか。それは、光を受け入れないのですから、罪の暗闇の中にとどまり続けるということになります。自ら選んで闇の中にとどまるということでありますから、結果として裁かれることになる、ということではないかと思います。
しかし、このことは私共がそんなに簡単に言えることではありません。主イエスが言われたのは、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては」ということですが、主イエスを信じない人の多くは、そもそも主イエスの言葉を知らないし、主イエスと出会ったこともないわけです。ですから、この言葉はそういう人に対して言われた言葉ではないのです。間違っても「主イエスを信じなければ、あなたは地獄に行きます。」などという言い方は、決して為されるべきではありません。何故なら、それは主イエスを信じていない人々を呪うことであり、私共が命ぜられているのは人々を祝福することだからです。
5.命は神の言葉と共に
最後に50節を見て終わります。ここで主イエスは「父の命令は永遠の命である」と告げておられます。父なる神様が永遠の命であるというのは分かります。父の命令を守るなら永遠の命を得るというのも分かります。しかし、ここでは「父の命令は永遠の命である」と言われている。これはどういうことなのでしょうか。私はこう思います。父なる神様は私共に、十戒を始め、このように生きなさいという御命令を与えてくださいました。この父なる神様の言葉は、永遠に変わることはありません。そして、この永遠に変わることなき神の言葉と共に、父なる神様はおられるのです。良いですか皆さん、神様はその辺にふわふわ居るようなあり方で私共と共におられるのではなくて、神様の言葉と共におられのです。神様の言葉に従う者は、神様に従うのであり、神様はそのような者と共にいてくださるのです。神様の言葉は、ただの言葉ではなくて、その言葉と共に父なる神様御自身が臨まれる、そういう言葉だということです。そして、主イエスが語られたことは、この父の命令に他ならないというのですから、神の言葉こそ、主イエス・キリスト御自身であり、主イエス・キリストの語られた言葉なのです。ですから、この言葉と共に生きる者は、父なる神様と共に生きる者であり、永遠の命の中に既に生きている者なのです。
私共が日々聖書を読み、祈り、主の日の礼拝を守るのは、この営みの中で既に永遠の命に与ることになるからなのです。永遠の命は私共の中にはありません。それは、父なる神様と子なる神様、そして聖霊なる神様にしかありません。この父・子・聖霊なる神様との交わりに生きる時、私共はこの三位一体の神様が持つ永遠の命の交わりの中に入れられ、永遠の命に与る者とされるのです。それが私共の信仰生活というものなのです。私共に与えられている信仰というものは、このように私共の思いをはるかに超えた、大きな大きな恵みなのです。この恵みの中にとどまる者、主イエスの光の中に生きる者として、この一週も歩んでまいりたいと願うものであります。
[2012年4月15日]
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