富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「復活の主による再創造」
創世記 2章4〜8節
ヨハネによる福音書 20章1〜23節

小堀 康彦牧師

1.イースターを迎え、受洗者を与えられて
 主イエスの御復活を喜び祝うために、私共は今朝ここに集まってまいりました。主イエスは金曜日に十字架に架けられて死なれました。しかし、三日目の日曜日に墓から復活され、その復活された御姿を弟子たちに現されました。死んだ者が復活する。まことに驚くべきことです。信じ難いことです。しかし、この信じ難い不思議な出来事に、私共の信仰、私共の希望のすべてがかかっています。キリストの教会は、この主イエスの御復活という出来事によって誕生し、この出来事によって与えられた救いの恵みの中に生き、この喜びを宣べ伝える者として立ち続けてきましたし、今も立っているのです。
 今朝、二人の方が洗礼を受けられます。洗礼を受けるということは、この主イエスの御復活の恵みに生きる者になるということです。主イエスの御復活の出来事は、確かに二千年前に遠く離れたエルサレムにおいてただ一度起きたことです。しかし、主イエスの御復活は、ラザロの復活のように、一度死んだ人間が復活したというだけのことではないのです。何故なら、主イエスは復活された後、天に昇り、天地を造られた父なる神様の右におられ、今も生きて働き、聖霊を私共に注ぎ、私共と共にいてくださるからです。洗礼を受けるということは、二千年前に御復活された主イエス・キリストと共に、この方の守りと支えと導きの中を、この方の御言葉に従って歩む者になるということです。使徒パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)と申しました。このように、主イエス・キリストを我が内に宿して生きる者になるということです。
 洗礼は、聖霊なる神様の御業によって、全く新しい人間に造り変えられるということです。生きる意味、生きる目的、生きる喜び、生きる希望、その一切が主イエス・キリストと結び合わされた者になるということです。生まれたばかりの赤ちゃんが何も分からないように、洗礼を受けたばかりの時はこのことがよく分からないかもしれません。私もそうでした。しかし、洗礼によってキリスト者として誕生した者は、キリスト者として成長していきます。もちろん、成長していくためには、赤ちゃんが乳を飲むように、キリスト者もまた、キリスト者として成長していくための霊の食べ物を食べ続けなければなりません。それが、主の日の礼拝における聞く御言葉としての説教であり、見える御言葉としての聖餐であり、日々の生活において聖書を読み祈るということです。どうか霊の糧をしっかり受け続けて、キリスト者として成長し、神と人とに愛され、神と人とを愛し、神と人とに仕える者となっていっていただきたいと思います。

2.マグダラのマリアは主イエスの墓へ
 今朝与えられております御言葉は、主イエスが御復活された日の出来事が記されております。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」、今の季節ですから日曜日の朝の4時頃でしょうか。マグダラのマリアが、金曜日に十字架から降ろされた主イエスの遺体を納めた墓に行きました。当時のユダヤの暦では金曜日の日没から安息日が始まります。安息日には出歩く距離まで決まっていたほどですから、マグダラのマリアは土曜日には主イエスの墓に来ることが出来なかったのです。マグダラのマリアは、主イエスによって七つの悪霊を追い出していただいた(ルカによる福音書8章2節)女性です。それ以来主イエスに従い、主イエスが十字架に架けられた時もその姿を見ていました。そして、主イエスの遺体が墓に納められる時にも、後からついて行って見届けておりました(ルカによる福音書23章55節)。マグダラのマリアは、日が昇るのを待ちきれず、主イエスの墓へと向かったのです。愛する者を失ったことのある方なら、この時のマリアの気持ちを察することが出来るだろうと思います。愛する者の死に出遭った時、私共は遺体からも離れ難い思いがするものです。当時のユダヤのお墓は、横穴を掘ってそこに遺体を納め、入口を大きな石で塞いだものです。お墓に行っても、大きな石を女の力で動かすことは出来ませんから、遺体を見ることは叶いません。しかし、お墓に行けば、そこに愛する主イエスがおられる。そんなすがるような思いで、マグダラのマリアは主イエスの墓へと向かったのでしょう。
 ところが、主イエスの墓に着いてみると、墓に蓋をしてあったはずの大きな石が取りのけてある。マリアはとっさにこう思いました。「主の遺体が何者かによって取り去られた。誰かに盗まれた。」この時マリアは、主イエスが復活されたのだとは思わなかったのです。主イエスは十字架にお架かりになる前に、自分は復活するということを弟子たちに何度も語っておられたにもかかわらず、そうは思わなかった。主イエスの御復活の予告を本気で受け取っていなかったのです。というよりも、その主イエスの言葉が何を意味しているか分からなかったということなのでしょう。

3.ペトロともう一人の弟子が主イエスの墓へ
 マリアは、このことを主イエスの弟子たちに教えなければと思って、走って弟子たちのもとに急ぎました。マリアは言いました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」これを聞いたペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、墓へと走りました。この「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」とは誰なのか。難しい問題です。昔からいろいろと考えられてきましたが、この福音書を書いた主イエスの弟子のヨハネというのが、伝統的な理解です。この弟子が墓に着いてみると、確かに主イエスの墓は空っぽでした。墓の中をのぞいて見ますと、主イエスの遺体を巻いていた亜麻布と頭を包んでいた覆いは別々の所に置いてありました。これで、二人には主イエスの遺体が盗まれたのではないということが分かりました。遺体を盗むのに、わざわざ遺体を包んでいた布をほどいてから盗む人はいません。二人の弟子はこれを見て、主イエスは盗まれたのではなくて、復活されたのだということを信じたのです。しかし、この時二人の弟子は、主イエスが復活したということは信じたのですが、それが何を意味するのか、自分とどういう関わりがあるのか、それを理解するには至っておりませんでした。主イエスの復活を信じるといっても、二千年前にそういう不思議なことがあったのかという風に信じたところで、私共にとって大した役には立ちません。ラザロの復活と同じレベルの出来事でしかないでしょう。「へー、不思議なこともあるものだ。」で終わりです。二人の弟子は、不思議なことだとは思ったでしょうが、そのまま家に帰ってしまいます。

4.マグダラのマリアが復活の主イエスと出会う
 後に残ったのがマグダラのマリアです。彼女は、二人の弟子が主イエスの墓を後にして家に帰ったのにもかかわらず、墓の外に立って泣いていました。彼女は、まだ主イエスが復活したとは信じていません。主イエスの遺体が無いという現実を受け止めることが出来ず、ただただ途方に暮れて泣いていたのです。そして泣きながら墓の中をのぞいて見ますと、先程までは見えなかった天使が二人いるではありませんか。天使は、「婦人よ、なぜ泣いているのか。」と言う。マリアは問われるままに、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と答えるばかりでした。
 そう言いながらマリアが後ろを振り向くと、そこに立っているのは復活された主イエスでした。復活の主イエスに最初に出会ったのは、このマグダラのマリアでした。マリアは、この時のことを何度も何度も語ったに違いありません。そのマリアが語ったことが、この聖書の記述の元にあります。ここで私共は誰でも、どうしてこの時マリアは天使に会っても驚かなかったのだろう、どうして復活された主イエスに出会っても主イエスだと分からなかったのだろう、そう思うでしょう。いろいろ理由をつけて考えることは出来るでしょう。しかし、マリアにこのことを尋ねても、きっとこう言うだろうと思うのです。「どうしてかって?分からないわ。だってあの時、本当に天使に会っても恐ろしくなかったし、復活されたイエス様が目の前に立ってくださっても、それがイエス様だとは思わなかったのよ。園丁だと思ってた。だから聞いたのよ。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』そしたら、復活されたイエス様が、『マリア』と私の名を呼ばれたの。それで、やっとこの方がイエス様だと分かった。私は『ラボニ』と言ってイエス様にすがりついたの。そうしたら、イエス様が『わたしにすがりつくのはよしなさい。』と言われたの。そして、『天の父なる神様のもとに上っていく。』と弟子たちに伝えるようにと言われたの。だから、私はイエス様の弟子たちのところへ行って、イエス様が伝えるように言われたことを伝えたの。」
 この日はマリアにとって、生涯忘れることの出来ない日となりました。マリアにとってだけではありません。その後のキリストの教会にとって、決して忘れることの出来ない日となったのです。そして、マリアは世界で最初の、主イエスの復活の証人となりました。彼女は、何度も何度もこの日の出来事を語ったに違いありません。私は、この場面の聖書の記述には、何度も何度も語ったマリアの肉声が元にあると思います。マリアが話さなければ誰も知り得ない話だからです。それに、復活の最初の証人が女性であったということは、キリストの教会にとっては、伝道していく上で不利なことだったでしょう。当時、女性の地位は低く、女性の言葉は信用されていなかったからです。しかし教会は、主イエスの復活の最初の証人がマグダラのマリアであることを隠そうとはしませんでした。どうしてか。きっとそんなことをすれば、マリアが黙っていなかったのだと思います。「私が主復活されたイエスに出会って、弟子たちに知らせに行ったの。」というマリアの言葉を、弟子たちも否定しようがなかったのです。
 マリアはこの時、後ろを振り向いて復活の主イエスと出会ったのにもかかわらず、復活の主イエスが分からなかった。それは、主イエスの御復活が、ラザロの復活のようにただ肉体がよみがえるという誰の目にも分かる出来事ではなくて、自分の名を「マリア」と呼ばれて初めて分かるという、深く人格的な交わり、愛の交わりというものによって受け止められる出来事であるということではないかと思うのです。ヨハネによる福音書10章3節に「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」とあります。マリアは自分の名を呼ばれた。そして、その声によって、自分の目の前におられる方が復活の主イエスであると分かり、復活の主イエスとの出会いが与えられた。まさに、主イエスの復活という出来事は、この主イエスとの出会いとならなければ意味がない、私共を生かす力とならないのです。

5.復活の主イエスが弟子たちに現れる
 その証拠に、二人の弟子は、空の墓を見て主イエスが復活したということは信じたけれども、それは彼らに何の力も与えなかったのです。ですから、19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とありますように、主イエスを十字架に架けて殺したユダヤ人たちが、自分たちをも捕らえるのではないか、自分たちも殺すのではないか、そう思って弟子たちは恐れに囚われていたのです。ここには、殉教も恐れず主イエスの御名を伝道していった主イエスの弟子たちの姿はありません。
 しかし、その恐れに取りつかれていた弟子たちの中に、復活の主イエスが来られた。聖書はわざわざ「家の戸には鍵がかけられていた」と記します。主イエスはどのようにして入って来ることが出来たのでしょうか。これは、主イエスの復活というものが、ラザロの復活とは違い、天に昇られる神の子としての栄光の体をもって復活されたということを示しているのでしょう。私共の体はそのままでは天に昇ることは出来ません。復活の主イエスの体は、復活体とでも言うべき天に昇ることの出来る栄光の体だったのでしょう。そして、復活の主イエスは弟子たちに向かって言われました。「あなたがたに平和があるように。」私は、この時の主イエスの声は底抜けに明るく、その表情もまた、暗さなど微塵もないものではなかったかと思っています。そう思うのは、弟子たちがこの時「喜んだ」からです。もし、主イエスの声と表情が暗いものだったら、弟子たちはきっと喜べなかったと思うのです。何故なら、主イエスが捕らえられた時に、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げたのです。ペトロにしても、主イエスが十字架にお架かりになる前に、三度主イエスを知らないと言ってしまったのです。主イエスを捨て、裏切った弟子たちです。復活の主に出会った瞬間、自分たちは裁かれるのではないか、とっさにそんな思いが弟子たちの中に浮かんだとしても不思議ではありません。しかし、復活の主は、そんな弟子たちの恐れや不安に少しも頓着せずに、底抜けに明るい声で、喜びに輝く顔で告げられた。「あなたがたに平和があるように。」そしてこの言葉と共に、弟子たちは平和に包まれたのです。
 主イエスは、弟子たちに自分の手とわき腹とをお見せになりました。十字架に架けられた時の傷跡です。もし暗い顔で、恨めしい声で主イエスがお語りになり、自分の手とわき腹とをお見せになったのなら、その意味は「これがわたしの十字架の傷跡だ。あなたたちがわたしを裏切ったから、こんな目に遭ったのだ。」というような、弟子たちを告発するものになったのではないでしょうか。それでは喜べるはずがありません。しかし、そうではありませんでした。主イエスは弟子たちに自分の手とわき腹とをお見せになり、「わたしはあの十字架に架けられたイエスですよ。あなたたちは、自分たちが捕まるのを恐れて、わたしを裏切った。でもわたしはこのようによみがえりました。あなたたちの罪もすべて赦します。大丈夫。安心しなさい。」というメッセージを告げたのだと思います。それで弟子たちは喜びました。「本当にイエス様は復活された。死を打ち破られた。まことの神の子だ。そのイエス様がわたしたちのすべての罪を赦してくださった。ありがたい。何という喜び、何という恵み。」そして、この喜びと恵みの中、キリストの教会は生まれたのです。

6.弟子たちに与えられた使命
 主イエスはこの時、弟子たちに一つの使命を与えられます。主イエスの救いの御業に仕え、主イエスの御業を継承していくことです。そして、そのために必要な力と権威とを、そして何よりも聖霊を、主イエスは弟子たちに与えられました。それが22節です。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」この場面は、ヨハネによる福音書におけるペンテコステの出来事を記していると言われます。復活の主イエスは、弟子たちに聖霊を与えられました。この聖霊を受けることによって、弟子たちは変えられ、強められ、主イエスと共に生きる者とされ、主イエスの救いの御業を継承する者とされたのです。
 この場面は、先程お読みした創世記2章において、アダムが造られた場面を思い起こさせます。土塊に過ぎなかったアダムに神様が息を吹き入れて、アダムは生きる者となったのです。まさにそれと同じように、復活の主イエスによって聖霊を注がれて、弟子たちは「キリスト者」という新しい人に創造されたのです。この復活の主による再創造の御業に与るということが、洗礼を受けるということなのです。聖霊を受け、「キリスト者」という全く新しい人間が誕生するのです。キリスト者の誕生とは、考え方が変わるとか、キリスト教の価値観を持つようになるとか、そんな小さなことではないのです。全く新しい人間に生まれ変わるということなのです。そして、この恵みに与った者は、主イエスの救いの御業にお仕えする者として派遣されて行くのです。私共は、そのような使命を与えられた者として生かされているのです。このことをしっかり受け止めて、新しい一週も主の御前に歩んでまいりましょう。

[2012年4月8日]

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