富山鹿島町教会

礼拝説教

「ナルドの香油」
レビ記 1章1〜17節
ヨハネによる福音書 11章54節〜12章11節

小堀 康彦牧師

1.過越祭の緊張
 主イエスが、死んで四日たっていたラザロを復活させられました。これは大変な出来事でした。人々は遂に救い主、メシアが来たと期待し、大騒ぎになりました。ユダヤの当局者たちは、人々の主イエスへの期待感が高まり、反ローマの狼煙が上がるのではないかと心配しました。そんなことになれば、ローマの軍隊が来て、エルサレムの町も神殿も今ある秩序もすべてを滅茶苦茶にしてしまうだろう。彼らは、緊急に最高法院というユダヤ人の自治のためにある会議を開きまして、主イエスを殺すことに決めたのです。
 54節「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」とありますように、このラザロの復活の出来事の後、主イエスは姿を隠さなければならなくなってしまったのです。そして、過越祭が近づいて来ました。この過越祭というのは、ユダヤの民が奴隷の状態だったエジプトから、神様によって立てられたモーセに率いられて脱出したことを記念する祭りでした。これは、日本人はあまりピンときませんが独立記念日のようなものを想像していただけば良いかと思います。民族意識が大変高揚する時です。独立記念日ならば現在独立していることを喜ぶだけですが、この時ユダヤはローマの支配の下にあるわけですから、自分たちを支配しているローマに対しての不満が膨れあがり、暴動が起きたり、反乱を起こす、そういう緊張が高まる時でした。
 成人男子が皆、エルサレムに上って祭りを祝うので、この時期エルサレムの人口は10倍に膨れ上がったと言われています。祭りが近づき、多くの人々がエルサレムに集まって来ました。55節には「多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。」とあります。これは、祭りに参加するためには、死体に触れたとか、外国人に触れたとかの、いろいろなけがれを清めなければならない。そのために少し早くエルサレムに上って、清めの儀式を行うわけです。その人々が、56節「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」と話していたというのです。ラザロの復活の出来事は既に誰もが知っていることであり、主イエスは時の人になったいた。そして、57節「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」これは主イエスが、今で言う所の指名手配になっていたということです。主イエスを取り巻く状況は大変緊迫したものになっていたのです。

2.ラザロも命を狙われる
 そして、12章10〜11節を見ますと、「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」とあります。殺されそうになっていたのは主イエスだけではなかったのです。ラザロも狙われていたのです。主イエスを殺せば、人々の主イエスへの期待も静まり、反ローマの暴動は起きない。そして、そもそも主イエスへの期待はラザロの復活によったわけですから、ラザロをも殺してしまえば、ラザロの復活という出来事自体、人々の記憶から消すことが出来る。そして、すべてが丸く収まる。それが、祭司長などのユダヤ当局者たちの考えだったのです。
 主イエスは指名手配となり、ラザロの命も狙われている。そのような緊迫した状況が記されている二つの記事に挟まれるようにしてあるのが、マリアが主イエスにナルドの香油を注いだという記事なのです。周りの、主イエスやラザロの命を奪おうとする恐ろしいほどの緊張に対して、この主イエスがおられる所は何と静かで穏やかなのでしょう。主イエスと共に生きるということは、この穏やかさの中に生きることが出来るということなのでしょう。

3.存在をもって証しするラザロ
 12章1節「過越祭の六日前に」とあります。過越祭は、ユダヤの正月の14日に行われます。この年の正月の14日は木曜日だったそうですから、六日前は9日で土曜日にあたります。過越祭の直前の安息日の食事をしていたということでしょう。安息日の食事というのは、友人や親戚と一緒に大勢で食べることになっておりました。
 主イエスは、過越祭に合わせてエルサレムに上るために、再びベタニアの村に来られていたのです。ベタニアの村からエルサレムまでは、歩いて1時間ほどの距離です。エルサレムの郊外と言って良いような所です。主イエスはこの時既に、過越の祭りの時に自分が十字架に架かるということを覚悟しておられたと思います。
 主イエスと弟子たち、それにマルタとマリア、そしてラザロ。それとこの家がマルタとマリアの家でなかったとしたら(=マタイによる福音書26章6節には、この家が重い皮膚病の人シモンの家であったとある)、この家の人何人か。これで20人程度になります。マルタは、皆さんのイメージ通り、この時も人々のために忙しく給仕をしていました。ラザロは主イエスと共に食事の席にいました。
 ラザロは何も言いませんし、何もしません。しかし、ラザロの存在そのものが、主イエスの力を、主イエスが誰であるかを示しておりました。私は、キリスト者というのは、このラザロのような存在なのだろうと思っています。何か良いことをする。何か立派なことを言う。そういうことも大切だと思いますけれども、存在そのものが主イエスの恵みと真実を証ししている。主イエス・キリストというお方がおられたから、この方の救いに与ったから、この人は生きている。そのような自分という存在そのものによって主イエスを証ししている者。それがキリスト者なのでしょう。自分という存在と主イエスというお方を分けることが出来ない。もし主イエスがおられなかったらなど、考えることが出来ない。もし主イエスがおられなかったなら、死んでいた。今、生きていない。それがキリスト者なのでしょう。今あるは神の恵み。そう言うしかない私共なのです。

4.ナルドの香油を注ぐ
 皆が夕食をとっていたその時です。マリアがナルドの香油を主イエスの足に塗り、自分の髪で主イエスの足をぬぐったのです。たちまち家の中は香油の香りでいっぱいになりました。この当時のユダヤの食事の仕方は、テーブルがあって椅子に座ってというのではありません。食事は床に並べられ、人々は横になって、左肘をついて身体を支え、右手で食べる。そういう仕方です。ですから、横になった主イエスの足に、マリアはナルドの香油を塗って自分の髪でぬぐったのです。この香油は北インドで作られる非常に高価なものでした。1リトラは約300グラムです。約300グラムのナルドの香油は、300デナリオンの価値があったようです。300デナリオンというのは、1デナリオンが労働者の一日の賃金ですから、約一年分の収入と考えて良いでしょう。ですから、今のお金に直せば何百万円という価値になります。マリアにしてみれば、自分の全財産と言って良いものだったと思います。
 皆さんは、このマリアの行為をどう見るでしょうか。4〜5節には「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」とあります。これは正論でしょう。何百万円もする香油をなんで主イエスの足に塗ったりするのか。もったいない。お金は大切なものです。有効な使い方をしなければなりません。何故こんな使い方をするのか。このユダが語ることは、信仰のない人にも分かります。正直な所、私もマリアのしたことが長い間よく分かりませんでした。イスカリオテのユダの言っていることの方が正しいように思っていたのです。もっともユダは、本当は貧しい人々のことを思ってこう言ったのではなくて、自分が預かっていた金をごまかしていたからだ、と6節に記されています。しかし動機はどうであれ、言われていることは正論です。主イエスもここで、ユダの言っていることは間違いだと告げているのではないのです。また、いつでもマリアのように自分に最高の物をささげよと要求しているのでもありません。そんなことを言うのはカルト宗教です。カルトは大体そう言います。そして、その人の財産のすべてを吸い上げるのです。
 主イエスはここで、ユダの言っていることを否定しているのではありません。8節「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」とありますように、貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるのだから、いつでもそのようにしてあげたら良い。してあげなさい、と言われるのです。しかし、マリアを非難しなくても良い。何故なら、7節、この人は「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言われたのです。ここで大切なことは、マリアのしたことは主イエスの葬りのためであったということです。主イエスはあと一週間で十字架にお架かりになる。主イエスはそのことを弟子たちに言って来られましたけれど、この時本気でそのことを受け取っている者は誰もいませんでした。しかし、主イエスはそのことを見ておられる。この時マリアは、主イエスと共に、主イエスの十字架の死を見ていた。だから、このような突拍子もないことをしたのです。この時マリアだけが、主イエスの十字架の死を受け止めていた。そして、自分に出来る精一杯のことをしたのです。
 主イエスは私のために十字架にお架かりになられる。命まで捨てられる。その主イエスのために何が出来るのか。マリアの出した結論は、自分の持っているすべてと言って良いナルドの香油を主イエスにささげることだったのです。マリアはこのことを姉であるマルタにも相談しなかったと思います。自分で決めた。これが信仰の決断というものです。

5.マリアの献身
 先程、私は長い間マリアのこの行為が分からなかったと申しました。それは、このマリアの行為を、ユダと同じようにお金に換算して、お金の使い方という観点で考えてしまっていたからです。しかし、ここでマリアがしたことは献身なのです。このことが分かった時、私はマリアの為したことは愚かなことではなく、美しいことだと思いました。マリアにとって、主イエスの十字架を思った時に、これに応えるために自分が出来ること、しなければならないこと、それが献身でした。自分自身を捧げる以外に応えようがない。マリアは、その献身のしるしとして、自分の全財産と言っても良い高価なナルドの香油をささげたのです。
 お金の使い方という所から見れば、マリアのこの行為に対していろいろな批判が出来るでしょう。しかし主イエスは、これをお金に換算などしていないのです。そうではなくて、マリアの献身のしるしとして受け取られたのです。マタイによる福音書26章6節以下にある同じ記事において、主イエスはこのマリアの行為に対して、「わたしに良いことをしてくれたのだ。」と言われました。この「良いこと」というのは、「美しいこと」とも訳せる言葉です。マリアがしたことは良いことであり、美しい。何故か。それはこの業が献身だからです。身をささげる。献身ほど、人間が行う業で美しいものはありません。献身こそ、主イエスの十字架の美しさに対応しているからです。献身の美しさは愚かさと分けられません。これは、マリアが自分の髪で主イエスの足をぬぐったという行為にも現れています。ユダヤの女性は人前で髪を解くということはしませんでした。それは恥ずかしいことだったのです。しかし、マリアはそんなことに頓着しません。マリアは主イエスしか見ていないのです。献身とはそういうものです。人間の賢さにとどまる限り、神の愚かさは分かりません。聖なる神が、罪人である私共を救うために、愛する独り子を十字架にお架けになったのです。これほど愚かなことはありません。コリントの信徒への手紙一1章18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」とパウロが語っているとおりです。  神様は、このマリアの行為を良きものとして受け取られました。そして、マリアが思っていた以上の意味を与えてくださいました。それは、これを主イエス・キリストのまことの王としての即位式としてくださったということです。救い主、メシア、キリストという言葉は、元々「油注がれた者」という意味です。旧約において、神様が祭司、王、預言者として選んだ者には油を注いだのです。もちろん、主イエスは神様によって聖霊の油を注がれたまことの王、まことの祭司、まことの預言者でした。しかし、実際に油を注がれたのは、この時でした。主イエスは12章以下において、エルサレムにまことの王として入城されます。ろばの子に乗って入城されます。人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と言って迎えます。主イエスは、預言者たちが預言していたまことの王としてエルサレムに入城され、そして十字架に架けられるのです。このマリアによる油注ぎの場面は、主イエスがまことの王として油注がれる時として、神様が用いてくださったのだと思うのです。マリアはそこまで考えていなかったでしょう。しかし、そういうことなのです。マリアが献身した時、神様はそれにマリアが考えている以上の意味を与え、用いてくださったということなのです。

6.献身の香り
 この時マリアが主イエスにささげたナルドの香油の香りは、部屋全体に、この家全体に満ちました。この香りを神様は良しとされたのです。先程レビ記をお読みしました。そこに神様への献げ物をする時どうするかが記されています。1章9節、13節、17節に「これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。」と記されています。神様は、どんな高価な物をも、そのものとしてはお受け取りにならないのです。受け取られるのは、献げ物を焼き尽くした時の「香り」なのです。高価な物をささげたと満足しているのは、ささげた人の自己満足に過ぎません。大切なのは香りなのです。それは、神様への愛の香りであり、信仰の香りであり、献身の香りです。
 マリアがこのナルドの香油を主イエスに注いだ時、「家は香油の香りでいっぱいになった。」とあります。この献身の香りが満ち満ちている所、それがキリストの教会なのです。
 ただ今から私共は聖餐に与ります。このパンの香り、ぶどう汁の香り、これはキリストの十字架の献身の香りです。キリストの教会はこの香りと共にあったし、この香りと共にあり続けます。そして、このキリストの香りを放つ者として私共が召されたのです。キリストの香りとは十字架の香りであり、献身の香りです。私共もまた、キリストの十字架の献身に自らの献身を持って応え、この教会を、この町を、この世界を、キリストの香りで満たしていきたい。そう心から願うのであります。

[2012年3月4日]

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