富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの御声によって復活する」
詩編 33編12〜22節
ヨハネによる福音書 11章28〜42節

小堀 康彦牧師

1.主イエスは復活、主イエスは命
 主イエスが愛しておられたラザロが死んでしまいました。主イエスは、ラザロが病気であるとの知らせを受けましたが、二日間その場を動かれませんでした。ラザロがいたベタニアの村に行かれた時には、ラザロは死んで既に四日もたっておりました。ベタニアの村に着くと、ラザロの姉のマルタが主イエスを迎えます。先週見ましたように、主イエスはマルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と告げられました。まことに不思議な言葉でありますが、この主イエスの宣言とでも言うべき御言葉こそ、主イエスが誰であり、主イエスを信じるとはどういうことであるかを明確に示している言葉です。主イエスは私共と全く同じ肉体を持ったお方でしたが、天地を造られた唯一の神の独り子、神そのものであられましたから、肉体の死によって滅んでしまわれるようなお方ではなく、永遠から永遠まで父なる神様と共に生き給うお方であるということであります。事実、主イエスは十字架の上で死に、三日目に復活されました。そのことを覚え、主イエスが復活された日曜日の朝、私共はこのように礼拝を守っているわけです。そして、この主イエス・キリストというお方を信じる者は、主イエス・キリストと一つに結ばれ、主イエス・キリストの持つ永遠の命、復活の命に結び合わされて既に生きている、既に生かされているということなのです。

2.立ち上がるマリア
 主イエスと会話を交わした後、マルタはマリアを呼びに行きます。「先生がいらして、あなたをお呼びです。」この言葉を聞くと、マリアはすぐに立ち上がり、主イエスのもとに行きました。マリアは、家の中で兄弟ラザロの死を嘆き悲しんでいたのですが、主イエスが呼んでいるとの知らせを受けると、すぐに立ち上がり、主イエスのもとに行ったのです。主イエスが来ている。主イエスが自分を呼んでいる。このことがマリアを立ち上がらせるのです。これから何が起きるのか、マリアは知りません。しかし、主イエスが来られた。主イエスが自分を呼んでいる。そのことがマリアを立ち上がらせるのです。私共もそうなのです。主イエスが私の所に来てくださった。私を呼んでくださっている。このことに気付くなら、私共は立ち上がれるのです。どんな嘆きの中でうずくまっていようとも、私共は立ち上がれるのです。何が起きるのか、何を主イエスがしてくださるのかは分からない。しかし、主イエスが来てくださり、私を呼んでくださった。だったら大丈夫。そう信じて良いのです。
 週報に、洗礼・転入をされる方は牧師までお申し出ください、という案内を記しました。どうか、この案内、自分に向けられた招きとして受け取っていただきたいと思います。主イエスの呼びかけとして聞き取っていただきたい。そして、そこから立ち上がって、主イエスのもとに来ていただきたい。そう心から願い、祈って記しました。

3.憤る主イエス
 さて、マリアは主イエスの所に来ますと、主イエスの足もとにひれ伏し、そしてこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」これは、姉マルタが主イエスを迎えに出た時に真っ先に言った言葉(21節)と全く同じです。マリアとマルタは、兄弟ラザロの病気を看病しながら、「主イエスがここにいてくださったら。」そんな会話を何度もしたのではないでしょうか。
 私は、マルタとマリアによって二度繰り返されたこの言葉の意味は重いと思います。確かに主イエスはおられなかった。だからラザロは死んだ。マルタとマリアはそう思っている。そして兄弟ラザロの死を嘆いている。この言葉を二度も記すことによって、聖書は「マルタもマリアも、ラザロの死に対して、主イエスがおられなかったから死んでしまった、もう終わってしまったと思い、嘆いている。」ということをはっきりと示そうとしているのです。しかし、本当に主イエスはおられなかったのでしょうか。本当にラザロは死んで終わってしまったのでしょうか。
 私共は、このマルタとマリアの嘆きを知っています。私共は、主イエスの姿を見ることは出来ません。そして、私共が本当に辛い時、悲しみに打ちひしがれる時、主イエスはどこにおられるのか、そんな思いに駆られることがある。しかし、本当に主イエスはその時私共の所におられないのでしょうか。私はそうではないと思います。主イエスは共にいてくださり、私共のすべてを御手の中に置いてくださっている。ただ、それが私共には見えない。分からない。それは、私共の不信仰と言っても良いと思う。私共はまことに不信仰なのです。この時のマルタとマリアのように、愛する者の死を前にして、主が共におられない、だからこうなってしまったのだ。そう思うのです。しかし、そうではないのです。目に見えるあり方で主イエスはおられなかった。ラザロが助かるようにとの願いも聞かれなかった。しかし、主イエスはその時も、マルタと共に、マリアと共に、そしてラザロと共におられたのです。私は牧師として、このことを信じなければ葬儀をすることが出来ません。死んだこの人と共に、愛する人を失ったこの人と共に、主イエスはここにいてくださる。このことを信じなければ、私は葬儀を執り行うことは出来ないし、私共の葬儀は成り立たないのです。
 33節「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、」とあります。ここで主イエスが憤って興奮されたのは、マリアも含めてそこにいた人たちがみんなラザロの死に飲み込まれ、悲しみ嘆いたからです。主イエスが共におられることが、ラザロの死という現実に対して全く意味のないことのように、主イエスが全く無力であるかのように、死の支配の中にいたからです。主イエスはここで、御自身がここにいるのにまるでいないかのように力を振るい、人々を嘆きと悲しみの中に捕らえている死に対して、憤られたのです。主イエスの憤りは、死に対して、「死よ、お前は何様のつもりか。わたしの愛する者をその支配の中に置くことが出来るとでも思っているのか。ラザロは、マルタは、マリアは、わたしのものだ。失せよ!」そう憤られたのです。

4.涙する主イエス
 そして、35節「イエスは涙を流された。」とあります。主イエスはここで涙を流されたのです。私は、この主イエスの涙が、主イエスの憤りと共に記されている意味は深いと思います。死に対して憤られ、死の支配に対してラザロを復活させられるというあり方で、御自身の勝利、御自身の力を示される主イエスです。しかし涙を流されたのです。これは、死に勝利される主イエスが、愛する者を失った悲しみの中にいる者に対して、そんな悲しみは無意味なこととして退けられたのではないということです。
 主イエスは確かに、死を滅ぼすことの出来る全能の父なる神様の独り子であられます。しかし、人となられた。人の弱さを御自身のこととして引き受けられたのです。ヘブライ人への手紙4章15節「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とあるとおりです。主イエスはこの時、全能の力をもって死に対峙され、同時に、愛する者を失った人の悲しみを御自身のものとして引き受けてくださったのです。まさに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12章15節)主イエスであります。  私共は、愛する者の死そして自分自身の死に際して、この死を打ち破られる主イエスが共にいてくださること、そして、私の悲しみ、私の嘆きを主イエス御自身が共に引き受けてくださることを知らなければなりません。この主イエスが共にいてくださるが故に、私共はどんな状況の中でも歩み続けることが出来るのです。
 私共が主イエスを信じるということは、今も、昔も、これからも、この主イエスが共にいてくださることを信じるということです。私共が歩んでまいりました過去において、様々な辛い日々があったと思います。その時私共はまだ主イエスと出会っていなかったかもしれません。しかし、その時も主イエスは共にいてくださったのですし、私共が気付かないあり方で私共を守り、支え続けていてくださったのです。だから、今日の私共があるのでしょう。主イエスが共にいてくださった日々として、私共が自分の過去も受け取り直す。このことはとても大切なことだと思います。自分に都合が良い時だけ、平穏無事な日々においてだけ、主イエスが共にいてくださるのではないのです。

5.信じさせるために
 さて、主イエスはラザロが葬られていた墓に行かれました。聖書は、「イエスは再び心に憤りを覚え」たと記しています。死に対しての怒り。自らの御支配に挑戦してくる死に対して、主イエスは本当に憤られたのです。激しい怒りを持って、主イエスはラザロの死に立ち向かわれたのです。
 主イエスは「石を取りのけなさい。」と言われました。当時の墓は、岩場に横穴を掘ってそこに遺体を納め、入口は石で蓋をするというものでした。マルタは躊躇します。主イエスが何をしようとされているのか、まだマルタは分かっていません。マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と言います。もう四日もたっていて、腐り始めて臭います。どうして今更墓の石を取りのけようとするのですか。臭いし、そんな意味のないことはやめましょう。それがマルタの言おうとすることでした。マルタも、多分マリアも、そしてその場に居合わせた人々も、皆そう思ったのです。主イエスが涙を流された時も、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか。」と人々は言ったのです。ラザロは死んでしまった。しかももう四日もたっている。死体も腐り始めて臭っている。もう何をしても無駄だ。もう何もすることが出来ない。それがこの場に居合わせた人々の思いでした。
 しかし、主イエスは言われます。40節「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」神の栄光が見られる。それは、神様がここにおられ、神様がその全能の御力を示されるのを見ることが出来るということであり、そしてそれを見た者たちが主イエスを信じるようになるということです。
 人々がラザロの墓の石を取りのけると、主イエスは神様に祈られました。そして、父なる神様にこう言われたのです。41節「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」これから行うラザロの復活を「聞き入れてください」ではないのです。「聞き入れてくださって感謝します」なのです。主イエスは、既に父なる神様がラザロの復活の出来事を良しとして聞き入れてくださっている、そのことを御存知なのです。なるかどうか分からないけれどお祈りしてみましょう、というのではないのです。既に主イエスと父なる神様の間では決まっていることだったということです。それ程までに、主イエスと父なる神様は一つであられたということなのです。
 そして、こう続けます。42節「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」ラザロの復活の出来事は、主イエスの祈りを神様が聞いてくださったから起きたのだ。このことを示すために、そしてラザロの復活の出来事によって主イエスが本当に神様から遣わされた方であるということを人々が信じるようになるために、主イエスはこの祈りをなさったのです。

6.ラザロの復活
 祈り終えると、主イエスは「ラザロ、出て来なさい。」と大声で叫ばれました。聖書ははっきり、「大声で」と記しています。主イエスはこの声によって死を打ち破ったのです。死の支配に置かれたラザロを、死の支配から解き放ったのです。この主イエスのこの声は、父なる神様が天地を造られた時に「光あれ。」と言われて光を造られた、あの無から有を生み出す声、全能の力を持つ声でありました。この声と共に、ラザロは墓から出て来たのです。この時のラザロの体は、聖書には記してありませんけれど、腐ってなどいなかったはずです。既に腐って臭っていた肉体が、死ぬ前の肉体を持って復活したのです。これは、ゾンビのように死体が生き返ったというのとは全く違います。ここで起きたことは、ラザロの再創造ということです。
 天地を造られた全能の父なる神様の御力がラザロの上に臨み、再創造されたということです。ただ、このラザロの復活は、主イエスの御復活と同じではありません。ラザロは、何年後かは分かりませんが、また死んだからです。ラザロはその後ずっと生き続け、今も生き続けているという話ではないのです。ラザロは、死ぬ前の肉体に戻ったということです。主イエスの御復活はそうではありません。そのまま天に昇られたのですし、閉め切った戸をも通って来られるあり方で、また食事の後にすぐに姿が見えなくなるというようなあり方で復活されたのです。復活された主イエスは、今も天において父なる神様と共におられ、私共がどんな時も共にいて働いてくださっています。しかし、ラザロはそうではありませんでした。
 このラザロの復活の出来事は、三つの意味を私共に示しています。第一に、主イエスは死を打ち破ることの出来る力を持っておられることを示しました。第二に、主イエスの御復活の出来事への備えを弟子たちに与えました。そして第三に、私共もまた、やがてこのように復活するのだということを示しました。
 私共は主イエスが再び来られる時に復活するのですが、その復活はラザロの復活ではなく、主イエスの御復活と同じ永遠の命に生きる体、復活体と呼んで良いと思いますが、主イエスに似た者として、罪をすべてぬぐわれた者として復活するのです。しかし、その復活する時のあり方は、このラザロの時と同じように、主イエスの大きな声が私共に告げられ、その声と共に復活するのだろうと思います。私共は自分の死を迎えれば、今のように意識を持つことはありません。遺体は焼かれ、骨壺の中に入れられます。しかし、主イエス・キリストが再び来られる時、私共ははっきり聞くのです。主イエスの御声によって自分の名が呼ばれ、出て来なさいと告げられる声を聞くのです。その声と共に、私共には復活の体が与えられ、共々に復活するのです。そして、新しくされた世界に、父と子と聖霊なる神様をほめたたえる賛美が鳴り響くのです。私共は、その日を待ち望む者として召されました。この週もそれぞれ様々なことがあるでしょう。しかし、その日を待ち望む者として主の御業にお仕えしてまいりたいと、心から願うのであります。

[2012年2月19日]

メッセージ へもどる。